キャラクターは「セルフ」か?
芸大生と作品制作を通しての対話。考えさせられたのは「セルフと思う写真を撮ってください。ただし、自分の顔以外を写したとして。あなたは何をセルフとしますか?」という問い。そのやりとりの中から出てきた「キャラクター」とは何かについて、考えてみる。
◇キャラクターとは?
キャラを作る、という言葉が生まれたのはいつごろだろうか?少なくとも、私の子どものころには「キャラ」という言葉はあったように思う。ぶりっ子キャラに代表される「何かを意図的に作り出して作成する人格」という意味合いに感じている(そうすると天然キャラ、というのはやっぱり天然ではないのだろう)。
キャラクターに命を吹き込む、という言葉で連想するのはアニメや漫画である。「そこには存在しない偶像・記号が生き生きとそこにいるかのような」ときに命を吹き込んでいると判断されるだろう。動き、表情、声、セリフ、関係性、行動、文脈。そこに調和が生まれたときに「キャラクター」が生まれる。
一定の文脈を有し、事象に反応し、行動を選択する主体、を「キャラクター」と呼ぶのかもしれない。
◇セルフとは?
重ねて、今回の肝である「セルフ」について考えてみよう。
私にとっての「セルフ」は「自己」のことである。自己とは「身体的自己」に意味合いが近い。そこに「ある」ものであり、それ以上でもそれ以下でもない。養老孟司先生風に言えば「免疫が反応しないもの」とでもいえるかもしれない。生物学的に言うともしかしたら「遺伝子」に自己を見てもいいかもしれない。カテゴリーは「身体」に属するものであり「思考」の領域にははみ出さない。
なので、「キャラクター」というものが「自己(=セルフ)」の世界に入るとは考えたことがなかった。思考し、作り上げるものはどちらかというと「自我」に見る。英語で言えば「ego」に当たる。
意図し、並べたものには私は「セルフ(self)」をあまり感じないのだろう。
◇表現したものは「self」か「ego」か
冒頭の問いに対する参加者の回答はそんな私にとって興味深いものであった。「ツイッターのアカウントのスクリーンショット」「部屋の写真」「作った料理の写真」「やわらかいクッションに自分の重さを受けてできたへこみの形」といったものであった。
クッションのへこみは私のイメージする「self」に近いものを感じる。「身体」だからだ。そのほかが想像を超えていて、面白かった。
「意図」があるもの、「自分が作り上げたもの」、そしてその「過程」に「self」を見ているようだからだ。
私自身の回答は「お題を与えられて、selfについて考えた瞬間の風景」を写真に写すというものである。そこに「意図」はなく、「作為」もなく、ただ瞬間として浮かび上がるもの。「写真には自分が写っていないではないか」というご指摘ももっともなものだが、私の「self」は「写真を撮っているという行為主体」にある。写真がある、ということは誰かが写真を「撮った」ということの証明であり、私の「存在」はそこにある、ということを暗に表現している。
瞬間と無意図。
なにを「self」とするかと問われれば、私の中でのキーワードはそこにある。時間をかける、意図を込めると「ego」が入り込んでしまうからだ。
◇キャラクター=セルフ?
キャラクターは、「生み出すもの」か「にじみ出るもの」か。もしかしたら、ここの考え方に違いがあるかもしれない。
私自身は「にじみだすもの」にキャラクターを見出す。また、そこにこそ「個性」が表れると思っている。意図した変なことは、「個性的」ではない。無意図に、突き詰めて、突き詰めて、ふっと湧き出てきたもの、こと、その瞬間にどうしようもなく「にじみだしてしまうもの」に、個性があり、存在があり、「自己」が表れる。大切にしたいポイントは、「無意図に湧き出るもの」である。
では、私が「人によって言動を変える」ということは「キャラクターを変えている」のは、どう解釈すればいいのだろうか?私の「self」はどこにあるのだろう?家族に接する顔、友達に接する顔、恋人に接する顔、そのどれもが「わたし」ではあるはずだが、「self」ではなく「ego」のはたらきというなら、この使い分けられている「わたし」はなんなのだ?
◇変わらないもの
「変化するもの」は「self」と思っていない。言動によって変わる「わたし」に「self」を見出すことに抵抗のある私には、不変も「self」の一つの条件に入れたいと思っているらしい。
しかし、身体は変化する。成長、老化はもちろん、通常2か月あまりでターンオーバーし、血液や皮膚などは入れ替わる。
「不変」は身体にはありえない。そうすると「魂」の領域になってくる。不変の魂はあるのだろうか?
生命を考えるときに「エネルギー」を考慮しないことは難しい。「生きていること」と「死んでいること」の境目はどこにあるのだろうか?
例えば、死んだ瞬間に「わたし」を写したとして、それは「self」なのか?死体を写した時にそこに「わたし」はいるだろうか?焼いた後の骨は?お墓は?生前に撮った写真に「わたし」はいるだろうか?
◇セルフを判断することとセルフを説明するのは違う
死んだ「わたし」の写真を幸いにして私が見られたとして私は「self」であるとは判断しないだろう。おそらく。そこにはどことなく違和感があり、生きていない「わたし」を「self」と判断するには抵抗がある。生きているからこそ「わたし」であろう。
しかし、「これ、わたし」と説明するならばその違和感も和らぐ。「これ、わたしだったもの」のほうがさらにしっくりくるが。
とすれば、冒頭の問いは、「私をどこで見てほしいのか」になるのかもしれない。わたしは、写真を撮っていると「想像する」あなたのなかでの「わたし」と「写真を撮った」という過去の事実に現れる「わたし」の存在が一致する点に「self」を見出す。説明する私の「わたし」と説明した人が思い浮かべる「わたし」がきっと一致するだろう、と思うから納得感が出てくる。
セルフを説明するときに写真一枚でどう説明するか、が隠された問いだろう。あなたはあなたをどうやって説明したい?どうやってセルフを見出すの?
そういう意味では、「作り上げたキャラクター」「意図」に「self」を見る人たちの考え方も少し想像がつく。
誰かに説明するときには「それそのもの」を用いることができず、すべて「像」になる。なれば「セルフ像=キャラクター」としてそこに「セルフ」を見出すことも可能なのだろう。
説明的な表現は、それでもつまらないと思ってしまうのは欲張りだろうか。
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