なんで「関心」が大事なのか

西條剛央先生の構造構成主義、関心を中心とした体系の心強さを感じた。

高校生と「AI時代とは何か?」の延長戦をした。高校生の体験、考えを集めていこうとしたが、やはりどこか空を掴む感覚がある。それはそうだ。未来の予測が立ちづらいということの象徴が、「AI時代」なのだから、どんな専門家でもその答えはまだ出ていない。

そうすると、今から僕たちにできることはなんだろうか?

人間とは何かについても眺めてみた。これもどうもしっくりこない。高校生の人生経験の中から、「人間とは?」について言語化するには、時間が、もう少し必要だ。

さて、じゃあ・・・と思ったところに、あ、これは個人の問題と社会の問題が一致する点だ、と気づいた。人類が今後どうやって生き延びるかと、自分がどうやって生き延びるかは、並行なのだ。

思いついたのは、これからの時代は「頑張らない」ことがキーワードになるということ。すなわち、無理をして、能力を引き上げていくのは、AIには勝ち目がないということ。なぜなら、AIや機械のほうが「無理が効く」からだ。

生き残りがあるとすれば、「いますでに息をするようにできること」の中にあるはずである。

人間が、人間らしく生きていく上で自然にできることといえば、自分の関心を探求していくことだろう。逆説的に言えば、関心があるならば自然とできることになっている。関心があれば、「エネルギー」を自然に向けられる。むしろ、どんどんと湧いて出てくるポイントだろう。

心とは、「エネルギー」であるならば、「エネルギー」を高く生きるためにまで、心を高める必要がある(意識が高い必要はない)。すなわち、自分の「エネルギー」が、自然に出せるポイントはなにか?という点である。

思えば、私自身振り返ってみても「何ができるか」「なにが好きか」は分析してきたけれど、「自分が何に関心があるのか」に関心を払って来たことがなかった。関心を探るとは、自分自身の状態をモニターし、環境を観察し、法則性を見つけていくこと。自分の心のひだを感じることであろう。

まさにこれは、「心」を扱うすべである。

「心」などない(もしくは均一にすべきである)、という態度を養成していく環境だけでは、気づけないことだろう。

「心」を扱うためには、自らの身体感覚を鋭敏にしなければならない。感覚が鈍いと身体の変化を感じられない。身体は「心」である。身体が感じられないなら、そもそも「心」を感じられない。これも、学校ではなかなか教えてくれない話。

そして、感じたものを言葉で、捉えていく訓練が大事だ。自分の変化、状態を、客観視し、操作可能の状態にするために、言語化が必要である。自らの「エネルギー」の状態を描き出すために、言葉が必要なのだ。正解を吐き出させるためではない。

高校生たちの悩みに触れて、未来を考えたときに、僕自身の気付きも大きくあった。そうだよな。「エネルギー」を扱うのだ。

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