めんどくさい話

オメーら全員インチキなんやで〜と、沸点が低いからいつも考えてしまうが、いつもいつも、一過性で終わってしまう。そうじゃなけりゃ今まで音楽もサークルもやってこれなかったから、自らの陳腐さに助けられてきたな〜と思う。まあ無事にやってこれて「しまった」ということでもありますけどもね。

実はこの困った性格は、お恥ずかしながら、大学に入って芽生えたのである。というのも、大学に入って初めて「ライ麦畑でつかまえて」を読んでしまい、ギリギリ10代だった僕はモロに影響されてしまったのだ。

主人公のホールデンは何でもかんでもphony(インチキ)と形容する。この表現が、なんと言うか、バチっとハマってしまったのだ。こう、phonyという言葉でないと何か表現しきれない嫌悪感が、世の中のほとんどのものに対して、常に僕の中にある。

「インチキ」という言葉は姑息な卑劣さを感じさせる言葉だと思う。一方phonyは、ホールデンの使い方から推測してみると、保身的だったり、偽善的だったりする、もうちょっと精神的なズルさも指すんだと思う。

親、友達、バンド関係の人、みんなphonyである。昔はやれ好きに生きていいだのお前の健康が一番だの、息するように美辞麗句を放っていた親は、音楽で生きるのなんてよっぽどのバカだとかいうようになった。一日にただならぬ数の毀誉褒貶を口にする友達、バンド関係の人たちの欲するところは、たいてい保身か印象操作と相場が決まっている。

正直な人間だっているだろ?生きてる世界が狭いんだなぁ、という声が聞こえてきたので、答えていおう。その正直な連中とやらの正直さは、本当に自らの正直さからきているのか?自分が嘘をつきたいのならついている奴の方が、真の正直者ではないか?手段としての率直さ、あけすけさは、phonyだろう。

だがこんな風に考えていると、自分がphonyであるという、考えすぎると必ず自殺という結論が出る論と同じ構造の考えが頭を悩ますようになるのだ。なぜか?なんとなく、わかるでしょ。

人間はphonyでないと生きることが出来ないのではないだろうか。いってみれば防衛本能のようなものなので、責めてはいけないものなのではないだろうか。そうも考えるようになった。というより今はそういう考えでいる。だがこれも少し違っているような気もしなくはない。

心のオアシス、などという表現がなくなってしまうほど、この世に精神的な砂漠がなくなれば、そうすれば下手したら、phonyな人間がphonyである必要はなくなる。ああ、そんな世界が、俺に作れたらな~。いや、この発言も…

まあ、いっか。

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