ゲームやってたら浮かんできた主張
尊敬(そんけい)。
まあざっくり言うと頭を下げてついて行きたくなるような気持ちになる事、くらいの意味、だよね?人々の頭の中にある意味もこのくらいだと思う。
僕はドラムをやってるので「尊敬するドラマーは?」「尊敬するミュージシャンは?」とよく(たまに)聴かれるんだけども、脳みその効率があまりよくない僕はそういう時に、「尊敬する」の部分が引っかかって「尊敬」という言葉にぴったりのドラマーを記憶の棚から引き出そうとする。ホントはただ質問を「好きなドラマーは?」に変換すればいいだけである。
まあしかし、今だけ僕の鈍い脳みそにペースを合わせて「尊敬」が引っかかってしまう、ということについて考えてみて欲しい。
いや、別にいいややっぱり。なんか物々しく書きたかったけど、無理だ。だって、「何かに秀でている人をそれが理由で好きになるわけではないのだ」なんていう至極当たり前の、新聞のお悩み相談の人がいいそうな結論に僕は話を帰着させようとしてましたから。ごめんなさい。
あ、でもでも、コレは言えるかも。我々が尊敬だと思っている感情のうち結構な割合でその実態は「理想的なモデルケースを見つけた嬉しさ」にすぎないのかもしれない。
例えばある人が親とか兄弟について「尊敬している」と言ったとする。しかし大抵それは自分がこんな風になりたいっていう、目標というか一つのクソデカマイルストーンを見つけた嬉しさ、果てしない海原を闇雲に泳いでいる時に、一筋の光を放つ灯台を見つけた時になるであろう気持ち、そういうゴールやらチェックポイントが見えた時の嬉しさの脚色のために「尊敬」という言葉を使うのが流行っているのでは?と思う。
ああ、うちの親は子供を大学行かせるまで育てられるたんだな。自分もこんな親になりたいな、尊敬するなぁ。と書いてみると急にへり下って見上げているのだから面白い。
でも僕はコレでいいではないかと思う。
だってさ、早い話尊敬なんて糞食らえじゃない?仰ぎ見て良さそうな偉人と言われている人間だって成金みたいなやつも多いし、見えないところで変態プレイに大金をはたいているかもしれない。近所の優しそうなジジイも、親戚、親も、見えないところでメチャクチャヤバいいじめとかやってたかもしれない。能力の割に謙虚なヤツは、「能力の割に謙虚キャラ」を確立して、より高次なプライドを満たしているのかもしれない。
大体伝えたいのはこんなところです。僕は尊敬なんてせずに生きていくし人に尊敬もされなくて結構である。でもそういいながら僕みたいなウジウジ考えてばかりいる人の方が、それこそ尊敬、みたいな類の、年寄りくさくてなんだかようわからん概念にメチャクチャ強くとらわれているから人生ハッピーとは中々いかないのかな。でも、日々を強く生きていくにはこういう精神性が欠かせない、そう強く思うようにもなった。だって何もかも本質的にどうでもいいから。
鬱陶しくないことだけ考えて、生きていきたいし、本当の意味で何も考えないで済むような脳みそがいい。
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