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白中ポンされてるところに、發切りました。リーグ戦デビューの第一節、最初の半荘に!
あとで冷静に考えて、切るべきじゃなかったと思っています。
1枚切れの發です。
もし振り込みだったら同卓者にも迷惑ですし、昇級にも関わるのでE3リーグの全員にも迷惑。
「大三元出ました」は協会のTwitterにも出るし、アガった人も呟くでしょう。
「え?! 白中ポンしてたの?」
となるの必至。
「打ったのだれ?」
となるのも必至。
想像すると震えます。
たとえば放銃しても降りても昇級絶望で、押せば望みがある状況なら、当然勝負もありです。でもこの時は5日間、20回のリーグ戦の初戦です。そんな場面では全然ない。
もう絶対切らないです。
反省してます。
でもそういう当然の感覚とは別に、あの發を捨てたのは何か必然だったような、過去の自分も一緒に捨てたような、そういう感覚も(あとで思えば)あったのです。
私は今年46歳でプロテストを受けました。同期では上から2番目。
高校の時に麻雀を覚え、大学の時にフリーに通っていました。1993年~1996年のこと。昭和は終わってますが、平成の初期です。平成の麻雀は速度重視と言われているそうですが、この頃はまだ(少なくとも私の周りでは)そんな感じはありませんでした。
「昭和の迷彩麻雀は時代遅れ。入り目になったら無意味だし」
と、うそぶいて新しい麻雀(笑)を打ってました。
他の人のことはわかりませんが、その頃の私の新しい麻雀は、いわゆる門前手役派、いやむしろロマン追及派ともいうべき雀風でした。
ロマン追及派の好物
・聴牌取らずの三色と一通の両天秤。
・チャンタ、ジュンチャンは門前で。
・役牌は2鳴き
![](https://assets.st-note.com/img/1663915429915-crZmSMRFK4.jpg?width=1200)
ロマン追及派の嫌いなものもたくさんありますが、特に1つ、自分の中で掟のようになっていたのが、役牌後付のバックの仕掛けは禁じ手でした。
ただしタンヤオに見える仕掛けはOK。ペン三萬からは鳴きませんが、カン三萬からの仕掛けはあり。
バックばればれの仕掛けをして絞られたらどうする? タンヤオに見せておけば絞り切れないはず、というあたりが根拠ですが、とにかくこだわりでした。
ちなみに役牌2つ対子からのダブルバック仕掛けはOK。絞られたらアウトなのはダブルでもシングルでも同じのような気がしますが、アガった時になんとなく渋いんです。
要は美学です。
卑怯とは思ってないので、他の人がばればれバックで仕掛けても、それをずるいとは(心の中でも)思いません。ただ、
(美しくないねぇ)
と思うだけです。
オーラスアガリトップや隠れドラ暗刻があっても、美学は守ります。
「絞られたらアガれないんだから」
そう思いながらペンチャンを外し、オタ風を対子落としして、中盤過ぎにやっと出てきた役牌をポン。だが一手間に合わずアガり切れず。
そんな展開もしばしばあり、
(これは間違っているのでは??)
と思ったことも時々ありましたが、改めはしませんでした。
当時はWindows95が出たばかりの頃。もちろんSNSなどありません。戦術本を読んでも「美学」を否定する情報は見当たりませんでした。
![](https://assets.st-note.com/img/1663915956454-E5tdn3GatS.jpg?width=1200)
20年以上の時が経ち、
バックのことだけではありませんが、自分の麻雀が古い(はず)という自覚があり、プロになって新しい理論を学び直しました。
「そりゃそうだろう」と思うものもある反面「今はそうなんだ」と思うものもたくさんありました。
無批判に全部を受け入れたりはしませんが、とにかく麻雀をチューンナップしようとしています。古さを知るからこそ活きる新しさがあると信じて。
三元牌2つポンしてる時に最後の1つを切らないのは、守備的な常識であるだけでなく、私にとっては掟でもありました。ペン三萬から仕掛けないのとある意味同じです。そこは理屈抜きでしてはいけないことでした。
「プロは切ることもあるらしい」
わかってます。今回の私の場合とは全然違います。でも、
昔 「何があっても絶対切らない」
今 「切ることもある」
という理解が頭に残りました。
さらにプロテスト合格後の研修の時、トーナメント形式の2半荘目、下家の三元牌2つポンに対し、対面が残り1つを切りました。
「!」
心の中の一瞬の衝撃のあと、
(対面は南場の親番。ここでこの親が流れると、上位2人に入るのは難しくなる状況。だから勝負なわけだ)
切ることもある!
昔はいざ知らず、今は切ることもある!!
プロは切ることもある!!
というわけで初の雀王戦の最初の半荘での發切りとなるのでした。
一応言い訳をすると、1枚目の發が切られてすぐに白と中を続けざまにポンしていて、その後ほとんどツモ切りでした(ほとんどであって全部ではない)。
1枚目の時には重なってなかったわけで、その後重なった可能性は少ない(ないとは言ってない)。
3着目のオーラスの親番。終局間際に聴牌が入り、親番をなんとしても維持したい!
そう思っての發切りでした。
「あの發と同時に、しがらみに囚われた過去の麻雀と自分自身を捨て去ったのだ」
と後付けで考えたのですが、禁じ手だったかもしれません。
冷静に考えて間違いだったと思ってますが、でも何かを象徴している出来事のようにも思えたのです。
ちなみにその發は通りました。今思うと震えるほどの危険な行為なので心からホッとしていますが、劇的なことは起こらない体質なのかもしれません。
聴牌を維持して次局に望みをつなぎましたが、あっさりとトップ目に蹴られて3着のままで終わり、身を捨てた發切りは何も形としては残りませんでした。
でも確かに私の心には何かを刻んだのです。