投手王国:近鉄バファローズ(リリーフ限定)
「いてまえ打線」という言葉に象徴されるように、近鉄バファローズといえば打高投低の打ち勝つチームというイメージを持たれる方が多いだろう。
それは間違いなくその通りなのだが、ことリリーフに限ると、そうともいえない。
私が近鉄を応援していた1987年~20004年の18年間で、近鉄の選手が最優秀救援投手賞を受賞したのは7回。これはセ・パ通じて最多である。
つまりこの18年間で最も抑え投手が安定していたのが近鉄であるといえるのだ。
余談だが、私の知る抑え投手のタイトルといえば「最優秀救援投手賞」であり「セーブ王」ではなかった。
たまにプロ野球にあまり詳しくない人が「セーブ王」という言い方をしていると、
「セーブとセーブポイントというものがあってだね、最優秀救援投手賞はその合計で判定されるんだよね。だからセーブ王と言ってしまうと実態と違ってしまうんだよ」
などと内心思ったものだが、今回この記事を書くにあたって少し調べてみたら、なんと今は「セーブ王」に名称が変更されていた。名称だけでなく救援勝利はカウントせずに、セーブ数だけで争われるようになっていた。
まったく知らなかった。
ウィキペディアによると変更は2005年から。
プロ野球は2004年までしか観ていなかったので、そんなことも知らなかったのだ。そのあたりのことはこちら。
さて、では歴代の近鉄リリーフ陣を振り返ってみよう。
以下、受賞は「最優秀救援投手賞」を指すものとする。
1987年
前年、前々年は石本貴昭が2年連続で受賞。球団として18年間で7回と上述したが、20年間では9回ということになる。6球団あるのに45%を近鉄が占めているわけだから、リリーフ王国といって過言ではないだろう。
ただしこの年の石本は奮わず、チームも最下位。友達に毎日学校で「近鉄負ーけ」と言われていたのがこの年。
1988年~1990年 吉井理人時代
10.19の年、1988年に受賞。89年も安定しており、優勝に大きく貢献した。
ただこれは個人的なイメージで客観的なものではないのだが、どういうわけか吉井には完璧な切り札のイメージがない。
多分私が阿波野贔屓なこともあり、10.19のイメージと、翌年の胴上げ投手も阿波野が務めたことで、吉井の印象が弱まっているのかもしれない。タイトルも獲得して文句のない活躍だったことは間違いない。
吉井といえば温厚なナイスミドルの現在の風貌を思い浮かべる人が多いだろうが、若い頃はそれはそれは尖っていた。起用方法を巡って首脳陣とも対立していたし、仰木監督の握手を拒否したりもしていた。そして何より目つきが剣呑すぎる。あんなヤバそうな目をした投手を見たことがない。あの吉井と今の吉井が同一人物だとちょっと信じがたいほど。あと吉井は打たれた時に絶対振り向かない。ホームラン性の打球が飛んだ時に、振り向いて打球を目で追わずに、頑なに前を向いて捕手の方を睨みつけるようにする。あの感じが好きだった。打たれない方がいいんだけど。
とびきりマニアックな話になるが、佐藤秀明も印象に残っている。仰木監督が「右に通用する左」と言っていて、左右関係なく大事な場面で使われて好投していた。イニングまたぎだろうと連投だろうと平気で投げるのだが、球数制限があって、確か50球だったか、それを過ぎると途端に打たれ出していた。吉井につなぐ貴重なセットアッパーだった。
1991年~1997年 赤堀元之時代
92年~94年に3年連続受賞。当時のパ・リーグ記録。
96年に最年少100S達成。パ・リーグ記録の4度目の受賞。
97年パ・リーグ記録更新の5度目の受賞。
故障や離脱もあったが、7年間で5度の受賞は、まさに守護神と呼ぶに相応しい活躍。
これは有名な話だが(有名だよね?)、92年は最優秀防御率のタイトルも狙えそうな位置にいて、規定投球回数到達を目指して10月にシーズン初先発。この試合をなんと完封してしまう。
赤堀が活躍する前、プロ入り間もない時期に奇襲でいきなり先発したことがあった。この試合で初回に滅多打ちにあって1回もたずにKOされたことが印象に残っていた。
このnoteを書くにあたって調べたところ、1死しか取れずに17球でKO。ただ打者4人に安打1・四死球1・自責点1なので、滅多打ちという感じでもない。四死球は1だが、かなり荒れていたんだったかな。
そのあとローテーションの谷間で誰が投げるか予想しにくい日があった時、ラジオ大阪のアナウンサーが「赤堀ですかね?」と冗談ぽく言ったことも覚えている。
赤堀時代はほぼ佐野重樹の時代でもある。
ピッカリ投法で有名な佐野は、中継ぎ投手初の1億円プレイヤー。
佐野‐赤堀のリレーは盤石だった。
解説者が佐野のことを「使い減りしない」と言っていたことがあったが、本当にタフで勝っていても負けていても、競っていればいつも佐野が抑えてくれた。
1998年~2002年 大塚晶文時代
98年にパ・リーグ新記録35Sで受賞。
抑え投手あるあるだが、マウンドに上がっていきなり四球連発で満塁にしてヒヤヒヤさせてから、後続を断つ大塚劇場もしばしば見られた。
決め球の縦のスライダー(ホークじゃない)で絶対守護神のイメージを持っていていたが、今回調べてみると数字上はそこまででもない印象。
あのスライダーがホークのようにストンと落ちる時はまず打たれないが、カーブっぽくドロンと落ちる時にはやられることもあった。
プロ入り初登板が確か凄かった覚えがあり、今回調べてみた。
97年5月13日に2番手で6回から登板し、2回を投げ打者8人相手に4奪三振。赤堀に陰りが見られ、先発転向を希望していたこともあり、新たな守護神誕生を印象づける鮮烈なデビューだった。
大塚時代の後半は岡本晃とのダブルストッパーを形成したが、これが不思議なほど覚えていない。もちろん岡本のことは覚えているが、ダブルストッパーのような形は記憶に残っていない。
この期間のリリーフ陣で印象的なのは香田勲男。
元巨人。89年の近鉄対巨人の日本シリーズでは、3連敗した巨人の第4戦に先発し、スローカーブを駆使して近鉄打線を手玉に取った。ここから近鉄は4連敗することになる。
その香田が阿波野とトレードで近鉄に来たわけだが、低迷期の近鉄の中でただ一人抜群の安定感を誇った。
香田というとスローカーブのイメージを持つ人も多いと思うが、近鉄時代の香田は剛速球投手。140キロ台後半の真っ直ぐをバンバン投げ込んでいて、明らかに巨人時代よりも速かった。マウンド上で跳ねるような躍動感があった。投げ終わったあとの右足が跳ね上がって帽子が曲がった様子がカッコよかった。連投もロングリリーフも、大塚の負傷中は抑えも務めて、低迷期は孤軍奮闘の活躍だった。
猛打のいてまえ打線の近鉄が、実はリリーフ投手王国だったことがおわかりいただけたのではないだろうか。
先発陣はいまいちだった時期もかなり長くあったが、リリーフ陣はかなりの安定感を誇っていたのだ。
負けるときはあっさり負けるが、勝ち試合はきっちりものにするのは後ろがしっかりしているからこそ。
「逆転の近鉄」というイメージもあるが、これも先発が打ち込まれたあと、リリーフ陣が我慢のピッチングをしたからこそ、いてまえ打線が火を噴いたのだ。耐えて、耐えて、ダーン!だ。
今回振り返りにあたって次のサイトを参考にさせていただいた。