映画 羅小黒戦記にでてくる「ネジ1本」がたまらない話
こんにちはimdです!
まずは!羅小黒戦記、吹替え!公開おめでとうございます!!全国でたくさんの方に!愛される羅小黒戦記!わーい!!
もう沢山の感想やレビューがある世界だと思うので、いったん宣伝は置いといて、自分の最高ポイントのひとつを叫んでおこうと思います。
いまネジの話がしたい!!!
⚠︎この文章には映画、藍渓鎮、ウェブアニメの話題にふれるので、少しでもネタバレが苦手な方はご遠慮ください⚠︎
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ネジ…
どこの場面かピンときますでしょうか…?
?という方へ…後半のワンカットです。
フーシーの展開した黒い半球の領界内。
ムゲンとシャオヘイ VS フーシー の時。
シャオヘイたちは高く高く、空間限界までフーシーを追い詰めます。が、手を痛めてしまいます。
落下するシャオヘイ。抱きしめるムゲン。
ムゲンはとっさに金属のクレーンを操り落下の衝撃を緩和しようとします。
その時。
ネジ!!!!!!
急に、ふわっと、ネジが!!!ネジ1本が!!無音で!!!画面に!!!大きく1本!!!
正直、なんだこれ?な方もいると思うんです。
物語的には、それまで領界の主導権を握っていたフーシーから、シャオヘイが主導権をにぎる、という場面転換だと思っています。
初めて見た時は他の印象が強すぎて、覚えていませんでした。何回か字幕を観て、ウェブアニメをみて、藍渓鎮をみて、吹替えをみて。それで初めて、ネジ…?ネジ…!とじわじわ思った箇所でして。ネジの感想を書いてる人、いるかなぁ…いたらお友達になってほしいです。
前置きが長くなりました。
そのネジ1本の何がたまらないかというと。
居場所スイッチの役割。
あのタイミングで、表現したいことを「ネジ1本を描こう!」ってなるの、相当すごい。と思うんです。
それまでのシーンは
大音量で、大迫力。
ビルが倒壊、看板に車までバシバシに飛ばしまくってドッカンバトル!というこれが最大値。マクロ。巨大なこと。
からの対比、
無音。
建築を構成する中でも最小単位に近い部品、ネジ。しかも1本。ギザギザも見える。とてもミクロな世界。
この、マクロとミクロが「羅小黒の世界」では一種の美学?哲学?として描かれてることがたびたびあると思うんです。
特に印象的なのが番外編漫画、藍渓鎮での月での会話シーン。
月から地球をみて、老君が清凝に、人類や生き物のこと、国、生き死に…といった、とてもマクロな視点の話をします。そこから清凝は、老君自身、つまりミクロな視点の話をします。同じ出来事なのに、世界は変わってないのに、視点をマクロからミクロへスイッチしたら、一気に老君の物語として近くなる。寄ってくる。
あとは例えばウェブアニメだと、メインストーリーが展開しつつも、ここでスイッチ、てんとう虫は関係なく交尾をする。世界は変わってないのに、彼らの物語は確かにそこで息づいている。
この美意識、一体なんなんでしょうか…。
とてもリアリティを感じます。絵はかわいいのにリアリズムがすごい。ファンタジーなのに現実とのリンクがすごい。
たとえば。今、これを書いている時。日本は夜で。明日も早いのに寝なきゃなぁなんて…そこから意識を転換して、スマホの画面のピクセルや指のしわ、触った感覚、まばたき、息を吐く…吸う…
あ、生きてた、そういえば。世界は変わってないけど、意識をスイッチすると、自分の存在を強く感じることができる。
この感覚、もはやアートのそれ…もしくは瞑想、座禅…。自分の心と存在を、改めてみつめて感謝したり考えたりするやつ。
映画でのネジ1本も、このスイッチのひとつだと思うんです。世界は変わってないけど、とても自分(ここではシャオヘイ)に近くなった。という瞬間…を描くための、くっそ粋でさりげない表現。これは一貫した哲学がなければ、あそこでネジは描かない。描けない、そう感じます。
羅小黒の作品というかMTJJ監督には、「存在する」みたいなことに…あれか、「居場所」についての哲学があるんじゃないかな…
ほか作品でこのスイッチを感じた時には、「どんなに、世界がつらくても、それはマクロであって、世界がたとえ変わらなくても、必ず、自分はいる、居場所はある」そんなメッセージがあると思います。
羅小黒は共存とともに、居場所…多分大事なテーマなんだろうな…。もっと監督の考えを知りたい!
そんなことを考えてました。ネジすげー!
↓初めて見たときの叫び
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