come back! OUR WORLD_続々編
こんにちは。今津です。みなさん、元気ですか。
おかげさまで、だいぶん元気になりました。
明日8日土曜の午前中で、退院決まりました。
まだまだ身体は重たいですし、脳も身体もすこぶる調子悪いですが。
いまだにろくに声も出ません。それでも、早く出たい。
昨日と比べると、今日は少しインプットが進むようになった気がします。
4月25日に死にかけて、29日に戻ってきた話。
2日連続で書きました。
いろんな人が読んでくださっているなかで、
あ、そんなふうに解釈をされてしまうんだな、というのがありました。
ぼくは「死ぬほど大変だったんだぜ」と言うことが伝えたいわけではないです。
ぼくにとって、この1週間の体験はあまりにスペシャルなもので、
そのまま流してしまうのは良くないし、もったいないし、と思ったんです。
そして、ぼくは明日には退院します。
療養をしながらですが、仕事に復帰していきます。
通例なら、ここで得られた叡智を放置していくほど、忙しくなる。
でも、今回だけは、それはやめておきたい。
今回の出来事は、そういうルーチンから抜け出せ、と伝えてくれている。
ぼくは、それを少しだけでも、残しておきたいと思ったわけです。
それは何よりも当事者であるぼく自身のために。
そして、さまざまな方面からぼくに「生きろ〜」「がんばれ〜」と
エールを送ってくださっていた人たちがいた。
そのエールが何%なのか何割なのか作用したおかげもあって、
ぼくはこの世界に戻ってきた。
だから、ぼくは、ここ数日のことを記し、分かち合いたい。
ぼくは確かに死ぬほど大変な状況にあったし、
実際に死にかけていました。死線もウロウロした。
これから、ぼくは生き方を変えると思います。
だけど、逆説的に言えば、生き方を変えないとも思います。
ぼくにとって大切なことは改めて鮮明になった。
自分が必死にしがみついていた正体も、少しは目算がついた。
やはり一日一生だし、出会いの不思議だし、
ご縁に感謝だし、今やれることをやろうと思うし、
自分を大切にしようと思う。
大切なことは変わらない。
これをたまたまに目にしてもらった方へ、
今津はもうだいじょうぶです。元気です。
そして、これまで同様に体調管理は気を付けますが、
だからと言って、過敏に過度に引きこもることはないと思います。
ちょっと話を戻したいと思う。
昨日の記事で、ぼくは一睡もできなかった苦しみというか、
忍耐を書いた。
気付いたら、4月30日は終わっていて、5月1日になってた。
とにかくゴールデンウィークが始まった。
ぼくは一睡もできなかったが、とにかく、朝がめぐって来た。
しかし、なぜだろう、
それだけでホッとするものである。
朝は、それだけで力がある。
4月24日からのぼくの1週間をドクターに聞いて、
カルテを調べてきてもらった。こんな感じらしい。
28日から29日にかけて、何かが起こっている。
さらに29日から30日・5月1日にかけて、
ぼくは何かを手に入れようとしている。
それは、ぼくの心の実態と結びついていると感じる。
ーーー
・4月24日土曜:京都に入る
・4月25日日曜:早朝に呼吸困難で倒れる(急患)
・4月25日日曜、26日月曜、27日火曜、28日水曜:集中治療室で気管挿管+人工呼吸器、覚醒はなし、酸素マスクは10リットル、(点)ステロイド(リンデロン)ほか
・4月28日水曜:酸素マスクが5リットル、自発呼吸が戻りつつある、抜管(気管挿管をはずす)、酸素データOK
・4月29日木曜:酸素投与なし、酸素化OK、覚醒は△、夜に覚醒
・4月30日金曜:緊急対応いただいたO女医が早朝に声をかけてくれる(夢の世界からの覚醒、自意識が戻る)、リハビリ開始、意識が覚醒しているというのか一睡もできず
・5月1日土曜:同じく一睡もできず
・5月2日日曜:自らの認識世界でなにかが転じたことを認識、これまでやこれからの自己存在に対する感謝と受容が湧いてきた感じがする、次なる道に進むんだという感覚がある
ーーー
30日、一睡も眠れなかった。
苦しかったが、逃げるわけにもいかなかった。
そして、続く5月1日、一睡も眠ることができない。
相変わらず、イメージの世界は、ぼくのところにやってくる。
正直、身体はボロボロだし、重たい。疲れている。
でも眠ることができない。
時折、記憶がファンタジーの世界に飛ぶことで、休むことができる。
それすら30分ほどだったと思うが、それで何とか身体をもたせていた感じだ。
ぼくは四六時中、妄想の世界のなかにいる。
5月1日は、4月30日と比べれば、
もう少し現実的なイメージが生まれてきていた。
前日は、地上絵とかデジタルイラストが多かった。
5月1日は、もっと具体的だった。
誰とともに生きていくのか。
何をやっていくのか。
言い訳をしていることは何なのか。
夢のなかでやれていないことに直面し、
その問いに直面させられていた。
ぼくは、何のために、この場に存在しているのか。
この絶望の先にある絶望は、果たして、絶望だと言えるのか。
ぼくは、何をやらないといけないのか。
周りに人がいなければ、ぼくは息をすることができない。
死んでしまう。
それがぼくだ。
誰かを助けたいという思いはもっている。
それは確かにもっている。強く。
じゃあ、ぼくは、それができるのか。
むしろ、誰かに助けてもらって、
何とかやっている。何とか生きている。
そんな自分を受け入れてみたらどうだろうか。
ぼくはソーシャルワーカーではない。
ソーシャルワーカーに、あるいは、ドクターに、ナースに、
OTやPTに助けてもらって、かろうじて生きている。
それがぼくという人間だ。
そうやって生きてきた。12歳からだ。
人間だけじゃない。
インスリンほか薬剤のおかげで、ぼくは成立している。
認めたくはない。
でも、弱さを直視せざるを得なかった。
12歳からの小児糖尿病。そして大人になってからの喘息症状。
ぼくは、この福祉・医療の世界に自分の役割・居場所を見つけたいと思ってきた。
たぶん。
そうして、男気で踏ん張ってやってきた。
ここで役に立てる自分になろうと思ってきた。
でも、今津のそもそもの価値って、なんなんだろう?
ぼくは、心も身体も弱い。
そして、傷つきやすい。気にしいだ。
医療・福祉の世界に関わりながら、
自律的に、かつ協調性をもって仕事をしていきたいと思っていた。
でも、何でもやれるタイプの人間でもない。
オルタナティブな道をつくり続けるということも簡単ではない。
ぼくは、自分のなかにあったけれども、
どうしても認められないものがたくさんあったのかもしれない。
それを認めざるを得なかったのかもしれない。
ぼくは、4月30日、5月1日との2日間、一睡もできなかった。
でも、ぼくは相当に追い詰められていたから、
自らが大切なものを認めることができたのかもしれない。
ラストチャンスだとも思っていたから、逃げることもできなかった。
ぼくは、医療・福祉によって、支えられている人間だ。
支えられてきた人間だ。
よく働いてきた。
家族含めて、支えてくれた人たちがいたから。
ぼくは、代替医療・補完医療も含めて、
時間もエネルギーも相当にかけてきた。
そして、ぼくは自らをメインテナンスし、
自らのより良い状態によって他者と関わってきた。
それがぼくが他者と関わるうえでの責任だった。
そうか。ぼくが、
もし支える側なのではなく、
支えてもらう側なのだとしたら。
ぼくは、そのことをまず受け入れたいと思った。
事実だ。
ぼくの強みだ。
誰かが欲しくても買うことができない
そうした時間や体験を重ねてきた。
そして、そのなかで得た
さまざまな「ぼく」があったからこそ、
今のぼくは生きている。
ふっと楽になった気がした。
あの人のようにも、彼のようにも、ならなくていい。
その代わり、あのときのあの経験、このときのこの経験は、
ぼく独自のものだし、それを活かせることができるのかしれない。
そんな風に生きてみたい。
5月2日にも、朝がやってきていた。
15分の忍耐、30分の忍耐、それを続けた。
重ねれば、朝になる。
昨日とは違う色合いの朝だった。
得られた何かがあるように思えた。
沖縄で会社を27歳で始めた。
その名前はルーツという。
思い入れも愛着もある。
でも、これも、もういいかな、と思えた。
これ以上ないぐらい、よくやってきたと思えた。
次に進もう。進めばいい。
そんなふうに自然に思えたことに驚いた。
先のことはわからない。
でも、まずは、bokumin宣言だ。
ぼくらはみんな生きている。
笑い、楽しみ、生きる喜びや血潮を感じながら、
ぼく自身が自由にあるがままに生きていくこと。
そして、大切な人たちとここまで共に歩んできた。
ぼくはその存在を記しておきたい。
それをやれないままでは、あちらの世界に行けそうにない。
次回以後では、bokumin宣言のこと、
そして、ぼくがここに至るまでに出会った友のことを
書いていきたいと思う。
みなさんとともに歩んでいければと思う。