210608-210621 ある裁判記録から
先日、自分が障害手帳をもち、障害年金を受給していた可能性があったと知った。20数年前、ぼくは障害認定をされていたかもしれなかった。
ぼくは「障害者」として生きていたのかもしれない。その人生を想像するのは難しいが、きっと今とは違った「ぼく」を生きることになっていたと思う。
ぼくは大阪の池田市で生まれ、約30年前に1型糖尿病を発症している。
大阪の実家には、幼少時に糖尿病(小児糖尿病とも言うが、正式には1型糖尿病)を発症した、その当事者と親の集まりが発行する会報誌が届く。先日の会報誌には、同会の会員でもある複数の当事者たちと厚生労働省との裁判記録が記された「大阪なんれん No.90」が同封されており、彼らが受給していた障害年金が、数年前に予告なく支給停止になった件に関する係争の経緯が記されていた。
『若年発症の慢性疾患は、児童福祉法のもと「小児慢性特定疾患」として多くは20歳までは医療費負担が軽減される。2020年現在、762疾患が指定されている。一方、成人の医療費助成制度である難病の医療に関する法律(難病法)で医療費助成の対象となっているのは、2019年7月現在333疾患。単純計算で429疾患は、成人になったら医療費助成を受けられなくなる』(大阪なんれん No.90)
なるほど。1型糖尿病は難病法にて医療費助成の対象にはなっていない。つまり、成人になると医療費助成は受けられないということらしい。
ぼくは医療費助成を受けられる可能性なんて考えたことがなかった。そもそも、成人になるまで医療費助成という公的扶助を受けていたこと自体を知らなかった。しかしそれは、ぼくがいろんな意味で恵まれていたからなのかもしれない。
そこには、次のようなことも書かれてあった。
『かつて、1型糖尿病は短命に終わる病気であったそうである。医療が進歩し、患者が長生きできているなかで新たな問題が起こっている。これが多くの小児発症の疾患で起こっていることで「トランジション(つなぎ目の)問題」と言われている』(同上)
『(成人になって医療費助成が受けられなくなる429疾患であっても、症状が重くなると次は重度障害者医療の対象者となるので、全ての疾患の医療費助成が無くなるわけではないのだが、それでも相当数の疾患(の患者)がいわゆる”制度の谷間”に落ち込んでしまう』(同上)
なるほど。ぼくがこれまで障害児・者の関係者から聞いてきた「つなぎ目の話」「制度の谷間」の話は、他人ごとではなかったようである。
繰り返しになるが、ぼくはそもそも20歳まで医療費助成を受給していたことを知らなかったし、成人になるにあたって制度が切替わること(そして、これまで当然のように受けとってきた医療費助成を受給できなくなること)、そのタイミングで障害認定の手続きを進めて障害者手帳をもつ可能性があったことを知らなかった。
母に聞いてみると、その切替や申請のことをぼくに伝えたらしいが、けんもほろろだったらしい。全く憶えていないが、きっとそうだったのだろう。当時のぼくは、病気なんか知ったこっちゃない、と生きていた。病気を抱えた自分を受け入れたくなかった。
実際のところ、ぼくは至って健康だった。食前に注射を打っていることを除けば、傍目からは健常者にしか見えなかっただろうし、ぼく自身も健常者として認知されるように生きてきた。
しかしそんな流れも、30代半ばを過ぎてから少々あやしくなってきた。
喘息症状が出るようになり、呼吸困難で救急車にも何度か乗った。とまらない咳そして突発的に生じる呼吸困難は、ぼくにとって最大の厄介ごととなった。さらに、仕事で絶望的な危機に陥って以来、耳が聞こえなくなった。聴力は一部回復したが、聞こえが悪い状態が続いた。ちなみに、もともと視力は悪く、眼鏡がなければ何も見えない。
幸いにも、いまだ糖尿病による合併症には見舞われていない。ぼくの血糖コントロールは決して良好とは言えない。患者のなかでも劣等生の部類に入ると思うのだが、眼も腎臓も手足にも合併症の症状は現れていない。低血糖症状で深刻な事態になったこともない。ぼくは運がいいのだと思う。
10代の頃、糖尿病になった自分を受け入れられずに「いつ死んでもいい。太く生きる」と吐いていた。
病気を告げられた日、目の前に血糖測定器と注射が置かれた。これからは自らの指先に針を刺して血を絞りだし、血糖値を測らなければならない。自らの手で腕や腹に注射をしなければならない。そして、低血糖症状や糖尿病性の合併症には生命を脅かすリスクがあるらしい。
突如襲ってきたそれらは、ぼくの自己イメージを変えた。ぼくはもう「ふつうの人間」ではなくなってしまったのだと思った。当時のぼくにとって、それはあまりにも悔しく残念なことだった。そうしてぼくの心はねじ曲がり、ひねくれ、真っ当さを失っていった。
ぼくは、何か大切なものを永遠に失ってしまったような、取り返しのつかない欠陥を抱えてしまったような感覚に囚われるようになった。
繊細すぎたのかもしれない。ぼくは容量オーバーを起こし、大きくバランスを崩していった。なにかに対して過度に反発し、同時に、過度に適応しようとした。たとえば、過剰な自立心をもった。病気をハンディとしないように生きようとした。
ぼくにとって病気はネガティブなものであり、その厄介ものを克服しなければ生きていけないと思いこんだ。「たかが病気」に人生が左右されるなんてまっぴら御免だ。そんな自分になるのは耐えられなかった。病気なんて大したことない。ぼくには関係ない。そう思いたかった。
気づいたときには、ぼくは以前とは別人になってしまったように思えた。追われるように生きるようになっていた。早く大人にならなければと焦っていた。隙のない完璧な防御壁をまわりとの間につくりあげた。もっともっと、と生き急いだ。どこにも落ち着くことがなかった。
病気は死のイメージと結びついていた。物理的な死のイメージは湧いてこなかったが、伸びやかな精神の自由さが殺されてしまいそうで怖かった。それはあまりにも怖ろしく、向き合うことはおろか、のぞき見ることすらできなかった。
それを守るため、逃げて逃げて逃げまくった。穢れを井戸の奥底に放りこみ、上から蓋をした。その蓋が外れないように上塗りを重ねた。しかし井戸の奥底に沈めようとも、それが存在していることは隠しようがなく、それはどこまでもぼくの後ろをついてきた。
つい先日、ぼくは5日ほど意識を失った。
自らの生と否応なく向き合わざるを得ない状況に置かれ、自らに問うた。果たして、ぼくは何者なのか。何のために、この世に生まれてきたのか。これまでの人生を通して、何を得て、何を失ってきたのか。
ぼくは自由な精神をもって、人生を美しく全うしていきたいと願った。それを成就するために、何を大切にし、どのように生きていけばよいのか。
あれから数十日経った今も、ぼくは自己対話を続けている。
糖尿病なくしては、今のぼくは存在しない。
それを無視しようとイキがっていた青春時代でさえ、ぼくは自らの身体に耳を澄ませざるを得なかった。身体に負荷がかかる派手な活動をしているときほど、どこかしらで自らの内側に意識を向けた。死が恐ろしかった。
病気を切り離したいと願いながらも、それはどんなときも共にあった。ぼくはいつだって、そいつを気にしながら生きてきたし、そうせざるを得なかった。
めぐりめぐって、ぼくは今、医療や福祉の周辺で仕事をしている。
医とは何か。福祉とは何か。病とは何か。障害とは何か。生きるとは何か。死とは何か。人は何のために生まれてくるのか。病や生死に関わるさまざまな立場の当事者は、どうあるべきなのか。どうあることが望ましいのか。どうあって欲しいのか。そもそも、ぼく自身はどうなのか。
そうやって、これまで思い悩み、時に苦しみ、葛藤しながら、どこかしら考えざるを得ずに積み重ねてきた時間や経験を、何かしらで生かせないだろうか。
ぼくは小児慢性特定疾患の当事者である。障害者手帳をもっておらず、障害年金の受給も受けていないが、手帳をもち年金受給している可能性はすぐ隣にあった。
ぼくたちは、それぞれの人生の当事者であり、それぞれの世界の当事者である。そして、ぼくたちの人生や世界は関わり合い、相互に入り混じっている。
ぼくたちは一人ひとり、さまざまに違っている。そしてそれゆえ、それぞれ別に生きているような錯覚におちいる。
確かに違いはあるだろう。しかし、ぼくと誰かとが別々の存在だと言い切れるものなのだろうか。
いかに生きるか。ぼくはそれを自らに問うている。
これは、その自己対話の一つとして、ある裁判記録をきっかけにした一連の考察である。書くことによって、手を動かすことによって、ぼくは曖昧でとらえようのない自分自身のことを少しでも理解しようと試みた。
あいかわらず答えは見えてこない。しかし、ようやく肩の荷がおりたような気がするのである。