見出し画像

同人誌という言葉を知らない頃に同人誌を作っていた

後ほど書こうと思っているが、僕には複雑な家庭の事情があり、子供の頃の写真が一枚も無いのだ。実家等にあり手元には無いという意味ではなく、消滅しているという事なのです。
かろうじて自分が管理していた高校時代の写真が週十枚残っている。卒業アルバムも残っています。
自分がどんな顔の赤ちゃんだったのか、お遊戯会や運動会の時はどんな表情をしていたのかを確かめる術は無いのだ。
僕はその事を不幸だと思った事は無かった。むしろ話のネタになると思って受け入れていた。
しかし50を目前にして人生を振り返り、やっぱり淋しいなと感じ始めたのです。
前回書いたように僕は小中学時代の友達とまだ付き合いがある。そんな友達にもし僕が写る写真があったら少し譲って欲しいとお願いしました。すぐに数枚の写真が届きました。送ってくれた友達にお礼を言うと、
「いまずってこの頃、漫画を描いてそれを印刷して皆に読ませていたよな」と返ってきた。
思い出した。
そうだ、僕は漫画を描いて印刷をして、それを綴じて皆に読ませていた。
記憶が蘇ってくる!
確か小学六年の時だ。学年中の漫画描きを募って僕たちだけのコミック誌を作った。タイトルは忘れたが5名程の同士が参加した。バスで街まで行って印刷を頼んだ事を、写真をくれた友達が覚えていた。今でこそコンビニで誰でも簡単にコピーは出来るが、その頃そんなサービスは無かった。いや、そもそもコンビニが無かった。法人相手に資料等の印刷を専門にしているお店がある事を知り、そこに行って、そこのコピー機で印刷してもらうのだ。記憶では一枚50円以上はしたと思う。100円位だったのかも知れない。一冊分作るのに数千円はしたはずだ。みんなで小遣いを出し合い、参加人数分のコミック誌を完成させた。
同人誌という言葉も存在も知らない僕等は、同人誌を作っていたのだ。
実は今、同郷の(愛する)お絵描き好き(漫画家、イラストレーターなど)七名でサークルを作って合同作品を作っているのだが、30年以上前にすでに同じような事をしていたのだ。
あの頃から僕は、仲間を集めて創作活動をするのが好きだったのだ。

【注意】ここまでほのぼのとした昔話をしていますが、多くのおとぎ話がそうであるように、けしてハッピーエンドではございません。予めお伝えしておきます。

そう、小学生時代の僕は漫画家を目指していた。
藤子不二雄先生(お二人)に憧れて、その背中を追いかけていたのです。A先生の『まんが道』をバイブルに、鳥山明先生の指南本を手本に漫画を描いていた。デパートの文房具店でケント紙とGペンを買い、本格的に漫画制作を始めたのは3年生位だったと思う。
5年生の時、僕の事を知った一つ上の先輩から「藤子不二雄先生のように二人で漫画家を目指さないか?」と誘われ、毎日集まった(一か月で解散したが)。それ位、漫画を画く事が好きだった。
高校を卒業したら上京してトキワ荘で暮らすんだ!と心に誓っていたのです。
そんなある日、息子が漫画描きに夢中になっている事を知った父は、僕の部屋に入ってきた。
「お前、漫画描いているんだってな?」
「うん」
「そんな事をしてどうする!?」
「僕、将来漫画家になりたい」
「お前にそんな事ができるはずがない!お前にそんな才能はない!」

僕は漫画家への夢を諦めた。
中学に上がっても映画と同じ位漫画は好きだったけど、漫画は読むのもで画くものではないと言い聞かせた。


こんな僕ですがサポートをして頂けると嬉しいです。想像を形にするために、より多くの方に僕の名前・創作力・作品を知って欲しいです。 宜しくお願いいたします。