見出し画像

自由帳。

ずっとずっと,発信することを躊躇ってきた。
物心がつく年頃にSNSが流行り始め,周りのみんなが躊躇いなく発信する姿に置いていかれ,
発信する理由が見出せず,どこか納得ができず,
アカウントは持っているものの自分が投稿することはしてこなかった。
最近気づいたことなのだけれど,「なぜなのか」を自分の中で納得しないと行動にすることができない私のようだ。
最近やっと,(全てではないけれど)素早く納得できるようになって,
これまでぐるぐると考えていたことがつながった。
その結果,「発信をしない」という選択肢が自分の人生では楽しくない道にまっしぐらだったので,それを止めたいと思った。
そして最近(厳密にはこの1年くらい),街並みや人々をみるたびに,何気なく存在しているものをつくりたい,書いて残したい欲が強くなったので書いてみている。

私の研究テーマはひとことで言うと「学び」であり,その構成要素に,「書く」が含まれる。
「読み書きそろばん」と言われるように,基本的な教育内容とされている。
学校には,ノートとペンを持っていく。それがどのくらい価値あるものなのかの認識について警鐘を鳴らしたい。
というのが,私の研究する目的なのかもしれない。

自分の学校生活を振り返ると,ノートは黒板に書かれていたものをどれだけ正確に写せるか,いわば写経のようなものであった。もちろん,それを使って勉強を進めていたこともあるけれど,写経ならば写真でいいじゃんと思っていた。だから私は,字を綺麗に書くための練習帳として授業ノートを作っていたように思う。
一方,自由帳と呼ばれる無地のノートを一冊,常に家に置いていた記憶もある(ノートでなくても裏紙を集めて冊子にしていたときもある)。そこには,自分の好きなこと,自分の頭の中で考えたことを表出するところとして色々なことを書いていた。
当時,新聞の広告にある間取り図を見るのが好きで,その間取り図を真似して自分の理想の家を何パターンも書いてみたり,
好きなアーティストの情報をまとめてみたり,
イラストを描いてみたり(得意ではなかったから人前では一切描かないけれど。)…
とにかく頭の中にあった妄想の世界を,その自由帳に落とし込んで楽しんでいた。
私が思う,学びの構成要素の一部のノートとは,自由帳のようなものだ。

歳を重ね,自由帳に書く内容は活字に置き換わりつつある。
2020年9月からA4サイズの方眼ノート(今は11冊目),
2022年12月1日から付けている日記,
スマホのメモ,
色々なツールにはなるが,多くの活字が残っている。

昔の自由帳は誰にも見せず,自分が楽しむだけのものだった。
けれど今は活字となって,少し修正すれば容易に共有でき,楽しみを共有できる。楽しみが広がる。

少しずつ,自由帳を発信していきたい。

いいなと思ったら応援しよう!