分かることと、おもしろいこと|村上春樹『1Q84』
具体的な何かを求めて手に取ったわけではない書物の中で、「そうかもしれない。いや、そうだろう」と思わず呟いてしまうような言葉に出会う。そんな読書体験が時々、ある。
忙しい9月だった。数日その本から離れたとしてもすぐに戻れるような、そんな物語を欲していた。ストーリーを追うのではなく、その世界に「身を置く」ような長い長い物語を。それだけの理由から手に取ったのが、村上春樹さんの『1Q84』だった。
この小説は(あるいはこの小説も、というべきか)不思議なことが起きる物語だ。
予備校で数学を教えながら小説を書いている男・天吾と、スポーツインストラクターをしながら暗殺業を引き受ける女・青豆。ふたりの男女の短いシーンが交互に綴られながら、物語は進んでゆく。
序盤には接点のない天吾と青豆。しかし次第に、彼らの周りでは不思議なことが起き始め、気づけば「1Q84」という世界へと足を踏み入れてゆくことになる。ふたりの人生は奇妙な形で交差し始め、実は二人の間には切り離せない縁のあったことを、読者は次第に知っていく。
ふたりが迷い込んだ「1Q84」という世界は、私たちもよく知る世界の1984 年と、とてもよく似ている。ちがいといえば、警察官が持つ拳銃がすこし違ったり、あるいは空に浮かぶ月が…。その程度の誤差だ。
しかしながら、微妙に世界のルールや仕組み、大げさにいえば「原理」が異なっている。
1Q84には「リトルピープル」と呼ばれる小人のような妖精のような存在がいて、人前には現れないないものの、世界のあり方や「原理」に確かに関わり、大きな力を奮っていることが仄めかされる。
そして、リトルピープルやリトルピープルの影響を強く受けた人々によって、天吾・青豆の運命もまた大きな影響を受ける。
彼らは何者なのか、目的は何か。なぜ力を持っているのか。
「1Q84」という世界の根本に関わるいくつかの謎を抱えたまま、私たちは物語に引きこまれ、手に汗をにぎり、彼らに共感し、猛烈なスピードで終幕へと突っ走る。そして物語は、いくつかの謎を謎として残し分からないまま終える。それでも十分なカタルシスがある。
「分かる」とはなんだろうか。
主人公・天吾と同様に、私もまた20代半ばまで数学ばかりやっていた。
そして、数学を学んだことがあるほとんどの人が一度は頭を抱える「ある問い」がある。
それは、ふだん数学にそれほど関心がない人から
「それは、なんの役に立つの?」
という問いだ。
答えに窮するのは必ずしも「役に立たない」からではない。
役には立つし社会へも応用されている。しかし私の経験では、彼らは必ずしも「役に立つ応用例」を求めているわけではないことが多い。だから頭を抱えるのだ。
むしろ、その数学たる学問の世界の”こころ”を分かりたい。あるいは、それが見せてる景色を体感したい。そういうことなのではないかと思っている。
その上で、それを伝えるための共通言語が見つからないことに、頭を抱えるのだ。
「分かる」ことの快楽には悪魔的中毒性がある。たくさんの謎をあえて残したまま終える小説『1Q84』、私はこの物語を「分かる」が持つある種の暴力性や、それに取り憑かれてしまう「分かりたい症候群」への戒めを説いているのではないか、と読んだ。
その象徴的な言葉が、主人公・天吾が自らの出自について問う質問に対して、彼の父が答えた言葉である。
「説明されなければ分からないということは、説明されても分からないということだ」
著者は、別のどこかで
「あなたの小説は分からないという人に限って大事なことが分かっていたり、あなたの小説が分かったという人に限って分かっていなかったりするんですよね」
というようなことを書いていた。
著者もまた、幾度となく「分かる」「分からない」ということをぶつけられ、それに対してずいぶんと「やれやれ」と思ってきたのかもしれない。
「分かる」ことは世界にとって本質的なことだろうか?
私にとって、あるいは読者にとっては大きな関心事かもしれないが、世界や物語にとってはそれほど重要なことではないのかもしれない。
もし著者に、
「君は分からなかったかもしれない。それでも、君はこの物語を君なりに楽しんだのではないだろうか?」
と問われたら、僕はうなずくしかない。
小説を読むこと。小説を楽しむこと。それらの構成要素の一部として「分かる」ことが含まれているのは間違いない。しかし、それは小説が「よい小説」であることの必要条件でもなければ十分条件でもないことを、著者は証明したかったのではないだろうか。