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「飽きる」力
などと安いビジネス書のようなタイトルをつけてしまったが、この文章の志は低い。
「飽き」は面白い。なにがって、その深刻さや、切迫感、認知の塩梅が人によって千差万別なことが面白い。
ある人の「飽き」はほとんど生きる意味の喪失で由々しき事態だけれども、ある人はいちいち「飽きた」とさえ思わず、息を吐くように自然に飽きて消えていくものだったりする。
年末年始、2、3年ぶりに小さく集まった宴席で、もう誰も仕事の話をしなくなった。それは別に仕事に飽きたわけでもないと思うけれど、「飲み会で仕事の話をする」のに飽きたのだ。
「30半ばになると、自分の人生の限界や、歩留まりみたいなものが見えてくる」みたいな話を時々聞く。その話が、20代や30代前半までは全然理解できなかった。
理解できなかったので、かつて20代だった僕は想像した。
それは自分の才能に限界が見えてくるとか、会社や社会の歯車に絡め取られて動きがとれなくなるとか、やりたいことに体力がついていかなくなるといった類いのことではないかと。
でも、実際になってみると少しちがった。
30半ばを過ぎて、先達が言っていたこと感覚を、自分なりの言葉に置き換えるなら、やっぱり「飽き」なのだ。(良いことも悪いことも含めて)すでに経験してしまった様々な刺激への飽き。
仕事を習得し、できなかったことができるようになり成長を実感する。褒められる。これまで口にしたことがないくらい美味しいものを食べる。海外旅行で “予期せぬ出会い” に恵まれる。こうした素晴らしき刺激にさえ、飽きてしまうのだ。
それを社会は「大人になる」と言ったり「分別」と言ったりするのかもしれないけれども、人間の持っている「飽きる力」って、本当にすごいと思う。
逆に、まだまだ全然飽きてないよ!という人は、本当にそれに「向いている」んだと思います、おめでとうございます。少し羨ましいです。
旅だって繰り返し行くうちに「上手く」なる。
実際に、どこに行けば “予期せぬ出会い” が起こるのかも分かるようになってくる。
でも、それが分かってる時点で、本質的には “予期せぬ出会い” ではないし、そういうことをし始めると、あのはじめての衝撃には及ばない体験になっていく。
だからといって、「飽き」を悪者だ、と言いたわけではないのです。
すごい挑戦や冒険、そうした無謀なアクションの原動力の一部には、「飽きからの逃走」があると思うからです。
全然、僕なんかと規模は違うけれども、会社経営の一線から退いたあと、100人に100万円を配ってみたり、100億円かけて宇宙に行ったりするあの人。
人は行動原理をしばしば「好奇心」で説明しようとするけれども、あらゆることに飽きたから、「まだ飽きてないコトをやってみた」というのが本当のところじゃないかと僕は思っている。そして、勝手に共感している。
不躾を承知で、母親に聞いたことがある。
「おかん、3人も子どもを育てたやん?子育てに飽きたーって思ったことある?」
すると、母は
「飽きたところで、やめるわけにもいかんやろ?あんたら路頭に迷うし。
うーん、でも飽きたと思ったこともないかもしれんね。
長男の受験が終わったと思ったら、次男は「俳優になりたい」って言い出すし。末っ子の小学校のPTA役員になったりする。飽きたと思うヒマもなかった。」
この人の飽きることなき不断の子育てのおかげで、僕は様々なことに飽きられるだけの時間や経験をもらったのだ。「飽き」は教育の賜物かもしれない。
「飽き」はモノ作りとも切り離せない。
僕がひそかに尊敬していて、一緒に仕事をしたかったクリエイターがいる。
その人と仕事をした際に、
「以前、あなたの仕事で使われていたあの技法、今回のケースにもうまくハマると思うんですがどう思いますか?」と打診した。
彼の答えは、
「あの手法は、たしかにカッコイイのだけど、もう何度かやったから飽きた。やりたくない」だった。
面白い創作者は、しばしば飽き性だ。
「なにか面白いことやろう」よりも、「自分がまだ飽きてないことをやってみよう」と考える方が、具体的で手触り感がある。考えることの糸口になるかもしれない。
「飽き」をうまく飼い慣らしたい。
そんなことを思う2022年のはじまりです。
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