美術館で写真を見た日には
美術というのはね、難しいことを考えず、ありのままを見て感じればいいんだよ。
なんてことを古今東西いろんな人が言っていますが、「みる」ってそれなり体力がいるし、けっこう骨の折れる行為だと思いません?
けして絵画が嫌いなわけではないんですが、絵を長く見続けることができません。フェルメールの作品を見ようと長蛇の列に並び「さぁ見るぞ!」と意気込むも、見ていられるのはせいぜい1分。長くて3分。
感想はといえば、
「ふむふむ、光と影の描き方がきれいだね」
という、「日本の魅力は四季だ」並に解像度の低い感想しか出てこず、己の鑑賞力の低さに、ほとほとあきれます。
雲ひとつ、仕事ひとつない完璧な休日、友人に誘われ東京都写真美術館を訪れました。
見たのは沖縄の戦後の写真を中心とした「琉球弧の写真」という展示。
石川真生さんの写真以外は撮影OKとあったので、写真を撮らせていただきました。
絵画に比べていくらか長く見ていられるのが写真。少しだけ「見るスタミナ」があるのかもしれません。
たとえば、どこかの店先の前で座るおばあちゃん。
すこし不思議な構図で、おばあちゃんを撮りたいにしてはやたら引きの絵。なぜ下から煽ってるんだろう、店の中も見せたかったのだろうか。
ここは駄菓子?買いものの帰りのようだから常連客かな。
それにしても、おばあちゃん、その牛乳1人で呑むの?すごい。長生きの秘訣でしょうか?
などと、このおばあちゃんと会話したり、カメラマンとおばあちゃんとの間に交わされた会話・空気感を想像するだけでも、いくらでも見ていられます。
そうしてさんざん想像を膨らませたところで、キャプションを見てみると・・・
部落の人たちが足のきれいなばあさんだと言っている
とあり、思わず「なるほど!」と膝を打ちました。芸術芸術していないこういう写真、最高に好きです。
当たり前ですが、絵画には画家が描こうと思ったものしか描かれていない。でも、写真の場合は「意図せずに写ったもの」がやっぱり面白い。
菓子屋(雑貨屋?)の前を往来する人びとを撮影した、少し傾いた写真。
特定の「何か」を狙って撮ったようには見えません。一応、ピントはセンターの白い服の男性に合わせたのでしょうか。
それでもじっと見ていると、いろんなことが見えてきます。
50年前からロッテが人気で、COOLMINTはやっぱりペンギンであること。「チウインガム」と表記されていたこと。
あるいは、道やゴミ箱のキレイさ。
経済成長前の昭和の那覇。都市の成長段階でいえば、バングラデシュ・ダッカくらいでしょうか。それにしては街に落ちているゴミは少ないし、ゴミ箱もあふれていない・・・
そんなことを考えていると、あっという間に時間が過ぎています。
「みる」ための持久力は、自分もやってみる・作ってみることで育まれるような気がします。そして、それはひょっとすると絵画だけでなく、料理や音楽、文章やスポーツでも言えることかもしれません。
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美術館を訪れると、見慣れた街が少しだけ違うふうに見え、妄想がはかどります。
写真美術館を出て山手線沿いに歩いていると「2020 東京オリンピック」の成功を祈願する、やけに大袈裟な「何か」が目にとまりました。「何か」としか形容のしづらい、5階建てのマンションにも比肩するようなものです。
写真美術館の影響でしょうか、無性に写真に撮りたくなりました。
撮れたのは「なんの変哲もない1枚」ですが、未来の人が見たらどう見えるだろう。そんな妄想欲にかき立てられます。
たとえば、10年後
「あぁ、コロナで延期したねぇ。もう10年か早いものだね」
または、50年後
「日本が元気だった最後の時代だったな。こんな無駄にデカいもの作るなら、もっと投資するべき場所があっただろうが…」
とでも言うのでしょうか。
あるいは、西暦5993年。
東京は人口が激減し、都市としての機能も文明もほとんど維持できず、歴史を記録した公文書も残っていません。もうオリンピックというものさえ、歴史の彼方に消えているでしょう。
そんな中、未来の人々がどういう因果かこの1枚が見つかったとしたら・・・?
「これは・・・この時代の祈りの対象物ではないだろうか?」
「なるほど。神か、王か、あるいはそれらを奉った何かか、墓か」
「完璧な半球、そしてとてつもなくデカい。しかし、何のためにあるのか分からない。高度な技術、莫大な金、そして労働力を費やして人類がバカでかいものを作るときは、だいたい信仰に関わる何かだと決まっているからな」
・・・
「おーい、早く行こうぜ!」
遠くから聞こえてきた声に、我に返る僕。
そうだった。2020年11月の東京を友人と歩いている途中でした。
しかし、歩き出したあとも、未来人たちの「祈り」という言葉が妙に耳に残っていました。
祈り、か。
コロナが猛威をふるい、「そんな場合じゃないよ」「理性的になれよ」と言われようとも、オリンピックを開くつもりの人達はいるし、それを待ち望んでいる人もいます。
そして、走ったり跳んだり投げたりするために、世界中から小さな島国に集まろうとしている。まるで巡礼かのように。
なるほど、その様子は「祈り」に見えなくもありません。
だとすると私たちは今、その祈りの中にどんな思いを込めるのだろう。