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語れども語れども…

読書会で6冊の本を紹介した。みんな大体2〜4冊なので、がっつり多い。それはあらかじめ分かっていたので、なるべく短時間で話せるように、事前に練習を重ねた。録音して聞き返し、本当に言いたいこと以外は削った。はじめ42分だったプレゼンは、15分ほどに圧縮された。

当日、終了時間が差し迫る中、話した。とにかく話した。途切れることなくぶっ続けで話し続けて、14分で用意した原稿を読み終えた。誰にも突っ込む隙を与えなかった。そして帰ってから、一通り後悔した。

「ああ、あんなに詰め込んで話したところで、何が伝わるだろうか」
「本を通してコミュニケーションするはずなのに、一方的に捲し立てただけだった」
「感想を話そうとするあまり、お行儀のいいことばかり言ってしまったのではないか」
「目立ちたかっただけなんじゃないか」

きっと何一つ伝わらないし、覚えてもらえないだろうなとは分かっていたので、事前に資料を用意して配っていた。そこらへんは用意周到だった。

しかし、プレゼンを通して一番強く感じたのは、「感想を語れば語るほど、言葉が自分から遠く離れていくような感覚」だった。

読み終えた直後のあの興奮。
ページを捲り返して拾ってきた言葉。

何度も口に出すたびに、言葉の鮮度はどんどん落ちてしまって、まるで自分ではない誰かの感想を淡々と話しているような気分になってくる。それがなんとも歯痒い。

考えてみれば、「読了直後の自分」と「今現在の自分」とではまた考えや気分も異なるし、違和感があって当たり前なのかもしれない。ちょうど今読んでいる本に、「すべては過程である」と唱えた哲学者が紹介されている。
であればむしろ、感想を固定してしまうことのほうが問題なのではないか。
その瞬間に感じたこと、考えたことを話したほうが良いのでは?

でもきっと、そんなアドリブをぶちかまそうものなら、僕の口から出てくる感想は、

「なんか、よかったです」

みたいな、めっちゃしょぼいものになってしまうだろう。


ああ〜 もう、どうすりゃいいんだ。

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ドミノ
昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま