すべての行為は売春である
2021年現在に読むとずいぶん乱暴だなと思う。
ゴダールにしろ岡崎京子にしろ"売春"という言葉を拡大解釈しているが、私の春は果たしてどんな対価と引き換えに売り払われたのだろうか。
23歳の気分、文体練習。
【本記事は2017年11月10日に別媒体にて公開されたものに加筆・修正を加えています】
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この街は悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた
僕らの短い永遠
僕らの愛
僕らの愛は知っていた
街場レヴェルののっぺりした壁を
僕らの愛は知っていた
沈黙の周波数を
僕らの愛は知っていた
平坦な戦場を
僕らは現場担当者になった
格子を解読しようとした
相転移して新たな
配置になるために
深い亀裂をパトロールするために
流れをマップするために
落ち葉を見るがいい
涸れた噴水を
めぐること
平坦な戦場で
僕らが生き延びることを
(愛する人(みっつの頭のための声) - ウィリアム・ギブスン)
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2週間ほどバタバタと騒がしかった。
精神的に余裕がなく、何とか日常に不時着した感覚。
このブログタイトルは、そんな不安定な自分に対する戒め(というと大げさだけれど)につけたのだった。
今はだいぶ落ち着いてきている。
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10年ぶりくらいに『気狂いピエロ』(1965)を観た。
ジャン=リュック・ゴダール監督の言わずと知れた代表作。
政治に言及し、映画を破壊せんとする監督のフィルモグラフィの中では、公私のパートナーであったアンナ・カリーナとの破局という私小説的なトピックによって、ポピュラリティを得ている。
感想は、10年前とそう変わらなかった。「変わった恋愛映画」。なんだか安心したような、がっかりしたような。
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『気狂いピエロ』を観る2、3日前に『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(1995)を観ていた。
2本の映画はとても似ていて、その実、根っこは真逆だと思う。
言葉のグルーヴでとにかく展開していく点では近い。しかし、『ビフォア・サンライズ』は台詞、『気狂いピエロ』はモノローグに、明らかに比重が割かれている。
モノローグは作品中にもう1つの位相を作ることが出来る。
前者はそれを排し、後者は過剰にメタフィクション化させていく。
アメリカ人とフランス人のカップル成立というのも比較対象として面白い。
気になったのがレコードに対する態度。
『ビフォア・サンライズ』で、ジュリー・デルピーが選んだレコードを試聴するシーン。この時、イーサン・ホークは音楽を聴いているんだかよくわからない。趣味が合わないのかもしれない。それでも彼女と2人でいたくてそわそわしている。可愛い場面。
一方、『気狂いピエロ』では、アンナ・カリーナが買ったレコードを、ジャン=ポール・ベルモンドは聴きもしないで海岸に投げ棄てる(観返して一番笑ってしまった)。
恋人と間男を殺害に及ぶ以前、海辺で彼はおかしな男と出逢う。男は自身の女性関係に付き纏う一曲を毛嫌いしつつ、それが頭から離れないという。
しかし、ベルモンドにはその曲は聴こえない。彼はそもそも、レコードという複製(可能)の音楽に永遠を見出せなかった。
だからこそ彼は恋人を殺した。死を選んだ。
死によって0になった恋人との距離に永遠を見出した。
一回性、偶然性という神話を取り戻すために。そこに映画というメディアを再構築しようともがく監督自身が重なってくる。
けれど、映画は何度も何度も上映される。
他メディアに変換され、そしてまた何度も何度も再生される。
そのジレンマへのせめてもの抵抗。その姿は正に"気狂いピエロ"。
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ゴダールは「すべての仕事は売春である」と言った。
SNSがその広がりを加速させたのか、今となっては、「すべての行為は売春である」気がしてならない。
売春とは消費だ。
生きていく上で消費は避けられない。
生産された途端にすぐさま消費される。
果たしてスピードは生活を豊かにしているのか、首を絞めているのか。
神を信じない人びとが大半のこの国で、悲観的な考えが膨れ上がるのは自然なことで、わかりやすい真理なのかもしれない。
それでも、他人との距離を測りながら共存していく中で、救いになる瞬間を求めてしまう愚かさもまた、自然なことだと思う。
生産/消費という二元論だけでは息苦しい。
誰かとレコードを聴く余裕くらいは持っていたい。
そんなことを考えつつ、『ビフォア・サンセット』(2004)に恐る恐る手を伸ばす…。