見出し画像

【自己紹介】声高らかに滋賀を世界で住みたいまちNo1にする。を掲げている人

2025年がはじまりました。滋賀でしがとせかいという広報の会社をしている中野龍馬と申します。

もっぱらなにか情報を残すとすればYouTubeだったり、Facebookだったりしますが、もうすこし。もう少しだけこれまでの道のり含めて残せておいたほうがいいなと思ったので、noteを再開することになりました。

ちなみにこれまではコワーキングスペースのことをひたすら書いていましたが、これからはしがとせかいという運営している会社のことを中心に残していきたいと思います。


noteをはじめようと思った理由


もともとは、コワーキングスペースの運営のことを中心に書いていたこのnote。
2つ気づきがあったんです。その気付きからnoteをすることになりました。

1つ目が、これから滋賀県のことを知ってもらう、関わりたいと思うときに発信して、そこから繋がる役割が媒体として必要だと思ったこと。
自己紹介にも繋がりますが、それをYouTube、TikTokやSNSを通して行いつつ、文字としても見える形にしたほうがいいと思ったことです。
僕自身、もっぱら調べ物で「これを多面的に知りたい」と思ったときに使うのがnoteだったりします。

それぞれの知見や経験に基づいて一番探しやすくて、温度感のある記事を読めるのがnote。
同じようにそういった思いで情報を探している人がいたときに、届けられるようにしたほうがいいと気づき、noteを再開しました。

2つ目が、しがとせかいのことを知ってもらって。そこで働くひとのことを知ったり、関わりたいと思った人に、伝えられるものが必要だと思ったからです。
1つ目は「滋賀でなにかをしたい」という人向け。
2つ目は「しがとせかいとなにかをしたい」という人向けのものです。
どちらも滋賀という日本でみたときの一つの地域のものなのですが、「誰が」それをしているかを伝えていくのはとても重要で、やらないといけないことだし。
そもそも文字を書くのが好きなので、よいなと思い始めました。

さてこの2つの気づきを書いて、あとは「誰なんだ」というところから、自己紹介を始めていきます。

1987年生まれのうさぎ年。ずっと「出来ない」ところから人生は、はじまりました。

誕生日は節分。
1987年のぎり昭和世代です。

もともと生まれは福岡県で、両親の転勤で小学1年生のときに滋賀県に引っ越してきました。
そこからずっっと滋賀県で。
高校は国際情報高校。3年間ひたすら最下位を走り続けて、大学進学など夢のまた夢。

高校の時の成績表。学校大好きで毎日いっていて欠点半分ありました。

でもなぜか昔から「社長になる」ということを思っていて、3年間社会人を。
20歳の時に起業をして。貯金がそこをつき、一人暮らしでひたすらもやしだけを食べていて、工場で派遣として働き、そこからさらに一念発起して21歳でまたフリーランスをして、なんやかんやで法人成りをして今にいたります。

今もそうですが、僕の人生は「できない」ところからはじまりました。
例えば勉強。5教科足して100点もいかず、勉強しても点数が伸びないという「勉強ができない」。
スポーツ。球技が圧倒的に苦手で、ボールもまっすぐに投げられない、リフティングも数回しかできない。ゴルフなんて250以上で回るという、圧倒的に苦手で下手です。

でもできなくて本当に良かったと思います。
勉強をやってもできない。スポーツをやってもできない。だからよくわかるんです。
「どうやってもできない」ということが。

高校はなんとか中学3年生の冬休みに猛勉強して5教科100点が300点になって国際情報高校へ進むことができましたが、すごく無理したので高校時代の勉強はちんぷんかんぷんでした。

スポーツはバスケットが大好きでしたが、本当に球技が下手すぎて高校3年間は朝一に学校に行って、夜遅くまで練習しましたが、県ベスト16のチームで、引退試合は20点以上離れた試合で3分だけ出れました。

人とのコミュニケーションもできないところからはじまっています。
小学生のときも中学生の時もいじめられていました。
無視されることもあったし、暴力的ないじめも受けてました。
学校にいきたくなくても、両親は共働きで行けないことを伝えて心配させるのもいやで、無理やり行きました。行って、笑顔でいたり、自分の性格を変えようともしていました。(頭がよくないのに目立ちたがりだったので、それが癇に障ったんだろうなーと思っています。)

これ今だから言えることなのですが、あのときいじめられていて良かったと思っています。(いじめ肯定派ではまるでないです、いじめは絶対だめ、本当に傷つくし、死にたくもなる。)

いじめられて良かった理由は、誰かが辛いと思う時にその辛さを1/100でもわかるから。悪口を言われる時の辛さや、無視される辛さも、敵意を向けられているときもわかるから、その辛さに少しでも寄り添える心を持ててよかったと思っています。

そんなできないところは、学生のときだけでなく社会人のときもです。
3年間働いた会社ではあまりにできなさすぎて、毎日ひたすら残って仕事をして、物覚えが悪いので量をひたすらこなしました。

得意で好きなことは「コツコツ積み上がる」こと

今もずっと自分の中で、得意だな。好きだなと思うことがあります。
それが「コツコツ積み上げること」です。

勉強は大人になってからどうなったかというと、起業して周りに助けてくれる人もいないので、ひたすら本を読んで、実践してを繰り返しました。
今、デザインもコーディングもプログラミングも、営業も最低限できるのは、その時にひたすら積み上げたものがあるからです。

スポーツは、高校生最後の引退試合が悔しすぎて社会人になってからもバスケットをやりました。
仕事が終わったら走って、近くのバスケゴールでひたすらミドルシュートを積み上げました。
そうしたら、30歳のときに。バスケを辞めるまで、社会人チームである程度の活躍をできることができました。(一時期プロまで目指しました。)

仕事はどうでしょうか。ひたすら毎日、良かったこと・良くなかったこと・気づいたこと・失敗することを繰り返し繰り返ししていたら、なんとか小さな会社を作り、めちゃくちゃありがたいことに一緒に手伝ってくれる人たちが集まりました。
売上も年々あがりつづけてきて、正社員でいてくれてる人も、アルバイトの人も、パートナーの人も少しずつ給与も報酬もあげることができています。

僕は自分でよくわかっています。
一発逆転タイプではありません。信じれるのは毎日積み上げることだけです。しかも積み上げるのは行動量と失敗量です。
これをただただ積み上げることで、なんとかかんとか今があります。

母の自己破産。借入もしない。人も雇わない。大きくしないをルールに起業します。

さてもう少しだけ掘り下げてみましょう。
もともと、僕は高校生の時にRPGツクールというパソコンのソフトを使ってRPGを創るのが好きでした。

よく考えれば小学校の時にノートで、RPGを創って友達にしてもらうのが好きなタイプでした(ちなみに絵も、字も本当に下手です。)
その時に創ったRPGを多くの人にしてもらいたいと思い、ホームページ制作ツールを使って、勉強してホームページを作りました。

いつしかそっちの方が好きになって。3年間社会人を辞めたときに起業した事業は「ホームページ制作事業」です。
でも2010年当時。20歳ちょっとの僕の依頼してくれる人はいません。
依頼もないし、仕事もない。だからひたすら桃鉄をしていました。(これが間違ってる。)
結果みるみる社会人の時に貯金がなくなり、工場で派遣で働きます。
1年間ぐらいひたすら掃除機のネジを締め続け、でも起業はまたするんだ!と思って、勉強はし続けました。
そんな折でしょうか。

再度一念発起して起業。少したったときに、母が自分で創った会社を倒産、自己破産します。
名前だけ役員に入っていたため、一緒に頭をさげその時に雇用していた人からは白い目で見られ。
その時に決めました。
「借入しない、人も雇わない。大きくもしない」。を。

そこから小さく始めた僕だけのホームページ制作事業は、チラシ制作会社として形を変えて、少しずつ売上を伸ばし、2014年には空き家を借りてコワーキングスペースを始めます。


今プラスというスペースで、小さな空き家のスペースを3年間やりました。
月額会員制度もなく、売上も月に1万円もないスペースで。
スペースを運営していて、コワーキングスペースに同じようなフリーランスの人を集めたくて、始めたのが地域情報サイトでした。
滋賀県と湖南市の地域情報サイト。これを始めたときに、僕の中で「地域を好きになる」が出てきます。

僕はおそらくですが、褒められて伸びるタイプです。あとけなされたときにはなにくそとなるタイプでもあります。
そんな褒められて伸びるタイプの僕は地域情報サイトを毎日書いていたら、役所の方や、地域の人が「あの記事見てるよ!」「参考になるよ!」っていってくれて、褒めてくれます。
褒めてくれるならとまた記事をひたすら書いて、そうしたらいつのまにか自分の住んでいる地域が好きになりました。
好きになるからまた書きたくなる。書いていたらもっと褒めてもらえる。なんと単純なことでしょうか。

そうやって滋賀のことが好きになって、湖南市のことが好きになって。コワーキングスペースに少しずつ人が訪れるようになった2016年。
バスケのチームメイトだった製造業の強面の社長がこういうのです。

「りょうま、男やったら借入してなんぼや。」

空き家を借りた時に、向かいに住んでいた大家さんとは借りるときにこんな約束をしていました。
「会社大きくすることもないし、出ることもないから。」と。

大家さんとは、僕が20歳から今も続けている外国人の方を支援する団体で繋がり、「龍馬くんやったら貸していいよ」と貸してもらいました。
この人が困っていたら、絶対に助けないとなと思っている一人です。

だから僕自身大きくする気がまるでなかったのです。
でも2016年頃、法人にしたジャパニーズ株式会社は少しずつ地域からのお仕事をいただけるようになり、売り上げ的も次のステップが見えるようになりました。(ちなみにこの時はアルバイトの方が4名。正社員は0の状態)

モヤモヤしていたんだと思います。そんなときに飲み会の時に「なんや、龍馬。借入もしてないのか」「借入するっていうのは未来を前借りできることや」と。

「男なんやったら、リスク追え」と言われるのです。
その時は「なんでやねん!」とツッコミ返しますが、モヤモヤしていたときにそのキーワードは大きかったのでしょう。
「もし借り入れするとしたら?」が、人生の選択肢に入って。
ホームページ制作事業を大きくする?それとも違う事業をする?となり。出た答えが「コワーキングスペースをビジネスとしても成り立つようにしたい。」でした。

2016年当時。売上月1万円もいかないコワーキングスペース。でもここで出会う人、繋がる人、そしてこれからの地域で必要な場所としてコワーキングスペースは勝手に大きな未来を。期待をかけていました。
そうやって「もし投資をして作れるなら?」と、日本中、世界中のコワーキングスペースを回ります。
ここでコツコツ病が出るのですが、僕は日本語以外に、英語とポルトガル語と中国語が話せます。
話せるレベルは、自分の伝えたいことが伝えられて、あっちの言うことがハートフルな感じでわかるという感じです。(なのでプロ級とかじゃないないので誤解なく。でもそれでいいと思うんです。)

全国、世界のコワーキングスペースがうまくいっている条件、うまくいかない条件を1年間通して周り続けて、話を聞き続けて、そして2017年に今プラスが移転します。
借入した金額は1200万円。明らかにその当時の売上からしたら、金融機関の方からしたら貸せないでしょ!って金額でした。
もちろん、最初は門前払いみたいな感じだったんです。

だからその時に「全国回って貸せますという状態の企画書作ります」と伝えて、色々回りました。
(僕が金融機関の人でも3年間やって月に1万円しか売上がないビジネスに1200万円は貸せないです。)
でもひたすら、どうしたらいいかを考えて創った企画書は、金融機関の方にOKをもらい、借りることができスペースを移転できました。


人口5万人の湖南市で、40坪以上のコワーキングスペース。コロナのときを契機に日本全国でコワーキングスペースができましたが、2017年。まだまだ地方の滋賀県ではコワーキングスペースという存在は誰も知られていません。(というか今も知られていません。)
でも、面白い場所ができたということで、利用する人が増えて売上が経ち、売り上げが経ったことで、仕事も増えて、関わる人も増えました。
結果的にスタートから支えてくれた人を正社員として迎え入れることができ。今は5名の正社員の方がいてくれています。12名のアルバイトの人が支えてくれていて、15名の制作パートナーの人と一緒に仕事ができています。

コワーキングスペースは2店舗、レンタルスペースは1店舗、シェアハウスは1店舗。借入もしており、あの当時の「借入もしない。人も雇わない。大きくしない」ルールはなくなっちゃいました。

でもそれでいいと思っています。

売上がゼロ円になった2020年4月。会社を変えました。

少しずつ売上が良くなってきて、年々積み上げる中。
2020年の4月がやってきます。緊急事態宣言です。

その結果、売上のメインだったホームページ制作の依頼がストップ。コワーキングスペースもお休みに入り、売上がゼロ円になりました。
この時に思ったのです。「僕達が提供している価値はなんだったんだろう。」と。

ただそこから5月、6月とコワーキングスペースの需要は高まり、ホームページ制作の依頼は補助金のこともあって、2年ほどバブルのように依頼があり続けました。
そういう意味では運が良かった。でも思っていたのは「たまたま」であり「その需要は将来の先食いでしかない」でした。
だから、その時にみんなに言うようになりました。

「会社、変えましょう。」と。
それまでは僕がやりたいことを旗挙げて、そこにみんなが付いてきてもらう形でした。会社にビジョンはなく、僕がやりたいことをやるみたいな感じだったんです。

でも僕が作りたい会社はそんな会社だったんだろうか?
そう思ってみんなで1年間ほど相談して、出来上がったのが会社のビジョンでした。
「滋賀を世界で住みたいまち、No1にする」。

気に入っているのが、これを僕が考えたのではなく、一番ずっといっしょに働いてくれるスタッフさんが提案してくれたこと。
これが僕の人生のゴールにもなっています。


そうやって生まれた会社のビジョンは、社名にも影響を及ぼします。
ジャパニーズという社名は、しがとせかいという社名になりました。
名刺も人形の名刺から、シール型の名刺に変わりました。

僕はこの会社の一つのパーツでしかない。次につなげる人への。

滋賀を世界で住みたいまちNo1にするといい続けてはや数年。
その時のゴールはより具体化しています。

そもそもNo1とはどの数字になるのでしょうか?
この数字、まずしっかりと追い求めているのは「Uターン率」です。
噛み砕くと僕達が目指しているのは「世界中で自分の地元に戻りたい率をNo1にする」こと。

ふるさと、生まれた町、育った町というのは過去のことなので誰も変えられません。
変えられないというのは、一つの強みになります。
僕達は、まず滋賀県の外にいる。もともと滋賀県で生まれ育った人たちが「帰りたい」と思える状態にしていきます。

日本だけでいうとUターン意欲ランキングというのがあり、まずこれの1位を取ります。その規模を日本中だけでなく、世界中でも取っていきます。
そうするともう一つの活路が見えます。
「滋賀県から出ることを推奨する」という動きが。

僕は自分の不勉強から、一度も出ることがありませんでした。
だからこそ滋賀から出て広い海を知って、そこで経験したことの量も質も広さも悔しいほどに認識しています。
だから学生の方々には「どんどん出ていったらいい」と伝えています。

18歳や22歳で滋賀を出て。出ていった先で数年後か10年後か20年後でも帰って来る。
そうやって帰ってきたとき。その動機には「滋賀でなにかしたい」という意欲が確実にあります。
(ちなみに以前趣味で滋賀県で活動している人はUターンが多いなと思ってこんなインタビューメディアを作りました。2025年は再開しよう。)

滋賀県Uターン物語
https://u-turn.link/

僕が住んでいる湖南市。
この町がよくなるためにはなにか政策を打てるとしたら?と質問されたら、Uターン政策を行います。
帰って来るだけではなく、関われるための政策を確実に行います。
意欲も技術も、知見もあるこのまちから一度出た人が関われるまちにすることは、まちにとっても大きな価値になり、強みになります。(ほら、Jリーグだって、欧州で経験を積んだ選手が戻ってきてスキルも、その経験も還元しているのが大きいじゃないですか。)

数年ではなく、まず最低10年というスパンで。
そうなったときに、僕は次の人にこのバトンを渡します。
50歳のときかなと。(子どもにバトンを渡す気は一切ないです。子どもは子どもの人生を歩んだらいい。)
僕はこのしがとせかいが「滋賀を世界で住みたいまちNo1にする」を実現するときの一つのパーツでしかありません。

繋ぎ手として、いつか、滋賀が世界で住みたいまちNo1になって「しがとせかいがあってよかった」と思ってもらえたらすごく嬉しいです。

そうしてそんな風に考えると「滋賀県に関わりたいという人」も「しがとせかいに関わりたいという人」も増やす必要があります。
なので、noteをはじめたのです。

滋賀県はまだバレてない。バレる前にやっちゃいませんか?

滋賀県ってめっちゃいいんです。
交通の便も、四季の季節を楽しめるのも、日本で一番のびわ湖も、人も空の広さもすべてです。すべてがいい(震災も本当に少ない。)

でもまだバレてません。滋賀の良さは。
ただいずれバレます。滋賀県いいぞ!って。

だから一緒にバレる前に滋賀県でやっちゃいませんか?
僕達は今、こんなプロジェクトをそれぞれしていたりします。
もし興味あるぞ、関わりたいぞってなったら声掛けてください。

滋賀の情報発信メディア「ホンデシガ」

滋賀のスタートアップコミュニティ「up stream」

滋賀の共創コミュニティ「co.shiga」

滋賀で長期有給インターン文化を創る「Tobidashi」



そしてよかったらこのnoteで「滋賀が面白くなるみたいだぞ!」って思ってください。

面白くなるので、みんなで。
面白くしていきます。

Xでは、滋賀がどうやったら面白くなるかを呟いています。(よくふざけてもいます。)


いいなと思ったら応援しよう!