やめ創価百物語【5】活動をやめた時の思い
時系列で書いていこうと思っていましたが、我ながらなかなか進まないので、書いておきたいことから書くことにしました。話が前後あちこちしてしまいますが素人のこととてご容赦下さい。
さて私が9歳で母に連れられ入信して以来一度も疑問も持たずやめたいと思ったことすらなかった創価学会の活動をすっぱりやめたのは2021年。
やはり大きなきっかけはコロナで会合がなくなった期間があったことです。
2013年から2021年まで、私は地区婦人部長(役職名は当時)という創価学会の末端最前線の役職をやっていました。
創価学会の中身を少しでも知っている方なら、「地区婦人部長が役職降りたあげく非活になるなんて」と思われるようなポジションです。
地区婦人部長時代の理不尽な話は尽きませんが、とりあえず2020年からの経緯を。
2020年2月、コロナのため一切会合はナシとなりました。
そんなに長い期間会合が無かったのは入会以来初くらい。それでも新聞配達は続いていましたし、地区の皆さんの心を離れさせないためにはどうしたらいいかと一生懸命考え皆さんの予定を聞いてリレー唱題を毎月やったりしていました。
コロナは収まっていませんでしたが蜜を避けて座談会をやれという打ち出しがあり、広い個人会館を使わせてもらうという提案も受けましたがその場合は消毒やら通常とは異なる対応が必要でしたし、なにより提供してくださるお宅にリスクを背負わせてしまいます。
考えて、自宅を広く使えるよう片付け、時間で三回に分けて少人数で行いました。久々に対面で行って皆さんに喜んでもらいたい、という思いでやったわけです。
そのすぐ後に行われた支部別地区婦人部長会では、その年予定されていた衆議院選挙に向け対面の会合を再開していくという方針が打ち出され、幹部から「今回の座談会は好きなようにやらせてやったけど次は必ず対面で」というような発言があり、耳を疑いました。あれだけ考えて、工夫してやったことを「好きにやらせてやった」って…
発表された落下傘候補にも違和感しかなく、もうコロナのリスクなんか忘れたみたいに選挙選挙と言っている人たちに猛烈な違和感と嫌悪感を感じました。
地区婦人部長が簡単に辞められるとは私も思っていませんでした。
けれどその瞬間は来ました。
会合が激減し、子どもたちにお金がかかる時期を迎えていた我が家の家計を支えるため徐々に仕事を増やし、2020年のうちにはフルタイム勤務をするようになっていました。朝5時から14時の体力勝負の仕事。子どもたちも大きくなったとはいえ6人家族の家事もあり、新聞配達やその事務作業など、会合が無くても地区婦人部長の役目は負担が大きかった。昼間の地区運営を代行してくださる方を立ててもらったのですが、「座談会はいまわかちゃんの休みに合わせるよ」という次第になり、結局私抜きでは何も動かない。いやいや週に2日しかない休みに自分主催の会合ぶっこまれるなんて無理です、と本部長に「このようなシフトで勤務してまして、無理です」とシフト表添付で相談したところ「地区で相談して」と返されました。
その時、自分の中にぶわっと風が吹いたように感じました。
「ああそうか、『一人を大切に』と言いながら、私のことは大切にしてくれないんだ」
その瞬間から、一生懸命やってきたことが全部無意味でばかばかしいことだった、と感じるようになったのです。
こうなってはもう、活動のなにもかもが苦しいものになります。
区の幹部に地区婦人部長を外してもらいたいと話したところ意外とすんなり受け容れられ、2021年の5月の座談会であいさつしたのを最後に一切活動はやめました。
最後の座談会では自分のあいさつが終わったら途中でしたが退席し、外の光を浴びて(午前中でした)、「やったあ、自由だ~!」と実感し心の底から嬉しかったことを記憶しています。