映画「リトルガール」
ずっと観たかった映画
リトルガールを鑑賞した。
性同一性障害という言葉を自覚する
のは思春期に
他者との違いを自覚したときに
強く意識し、そして悩む
というのはよくある話。
ところが、
この実在するフランスの男の子サシャは
2歳のころから自分は心が
女の子であると周囲に訴えてきた
私は身体的性と、
自覚的性の不一致は今のところ
感じていないし
自分のことは往々にして女だと思っているけれど
性の問題について、
何故だかとても興味を引かれるものがある
あなたは女だと
他者から定義づけされるのはなんだか嫌だし
自分もそうだと人を決めつけないようにしたいと思う、
思えば大学生のとき
女子大生ぽくキャピキャピして、とか
高い声でしゃべりなさい
(これは日本独特らしいが)
という言葉がとっても、嫌だった
目に見えている性に縛られるのも嫌だし
だからと言って、
心の性を男と女だけの二言で
定義付けすることもなんだか
大雑把な気がしている
小学生のときに、
生理について学ぶ性教育の授業で
学年全員が集まって、
男子と女子に分けられた。
たしか
私のクラスの担任の先生だけ
男性だったからか
自分が男だと思うやつはこっち来い〜
と言って分けられ
普段の先生のキャラクターも相まって
笑いながら各々、分かれて授業を受けた
でも今考えると
単にウケ狙いだった可能性もあるが
「男だと思うやつ」って
なかなか秀悦な言葉で
その時に自分がどの自覚が強いかで
自分の性は決めることができるのだと思う
これは自論だけど
魂と心と身体の性別は
きっと別々で
(とはいえ、魂は男、心は女、
とかでもなく
それぞれ男寄り、とか何%男とか
今は女だけど昔は男だったとか
もっともっと複雑だと思う)
そのグラデーションは日々変化して
誰にも分からないということだ
映画の話に戻ると
サシャは幸運にも家族に理解されていて
とにかく彼女の主張を、
母親は辛抱強く聞いていた
最初サシャは精神科医に対して
ただただ泣くしかなく
自己主張ができなかった彼女が
自分の身に起こったことを
だんだんと話せるようになっていった
性の多様性を認めよう
ということ以上に
心の訴えを表現できるか
ということが
その人らしく生きるために
大切なことなんだと思った
私がここ1年、
以前より生きやすくなったと感じるのは
環境や自分の人生が変わったというより
自分のことを話せるようになったからだ
そしてそこに共感がなくても
それは当然のことだと受け入れられるようになったからだ
監督のインタビューにもあったが
この映画を撮られるということが
彼女にとっては自己表現することであり
それは彼女にとっても救いであるのだと
そして私も映画を見ながら終始、
涙が止まらなかったのは
自分のなかの小さな自分
(これこそリトルガールとも言えるのか)
が共鳴しているのを感じたからだ
私も見ていて
個への定義付けバイアスから
救われたのだと思う