
Z世代が情熱的に生きるためには
Z世代、という言葉がよく言われ
自分もギリギリその枠なのかな
と思う
改めてこの言葉を調べてみると
ネットリテラシーの高さ
保守的な金銭感覚
本物思考である
なんて特徴があるようだ
大金がなくとも
大体のものが容易に手に入ったり
擬似体験できてしまうことで
心を揺さぶる、という経験が少ない
※また、
心では感動するときも
それを外に出すことをしない、
SNSで思いの丈をぶつけながら
顔はロボットのように無表情なのである
+
情報が次々とはいってくるので
感動期間がとても短い
ときどき
こんなに身の回りが充実してるのに
枯渇していく心の矛盾に絶望する
日々日々、擬似体験を
やりきってしまった結果
こういう生き方はできないと
実体験なく頭で排除し続け、
じゃあ死ぬしかないのでは?と
息苦しさを感じる同世代は
たくさん見てきた
☝️この気持ちは地元・福岡
にいるときに特に感じていた
住みやすく、恵まれた環境にいるのに
満たされない自分に対する矛盾感
さらに
Z世代のなかでは年長者ポジの私は
年上は偉く敬うべき
ルールは守るべき
という旧来の社会概念に縛られながら、
世代特有の奔放さも
持ち合わせてしまったが故に
逃げたいけど逃げられない
という自己矛盾の狭間にいる
職場でも世代的に“間”のポジションで
上とも下とも共感できるものの
誰とも共感できない部分があるのだ
社会で生きてゆくために、私は
少々不感症になりながら
目の前のことを淡々とやってしまう
嫌だとか辛いとか悔しいとかも
あまり思わなくなった
こんなものか、と思う自分に
虚しさをおぼえることもある
前置きが長くなったが
そんな自分たちの世代が
情熱的になるためには
(主体的に生きていくためには)
ある種一度絶望しきることなのかな
と思う
なにも自分の心を動かせない
だから死なない程度に
主体的に絶望を感じきる
自分の絶望を認める
不自然なポジティブをやめる
そして何も無くなったその先に
何が残るのか?
気持ち悪いが、そこを
にやにやしながら楽しむのだ
なんか
何も無くなるということに対して
恐れてはいけない気がしている
たとえ何かを失っても
ほんとうの意味で失わないから
言いたいことちゃんと言おう
なんて思う
息を吐いたら酸素が自然と入ってくるように
怒りや絶望などマイナス感情を
感じきった先に情熱がある気がする
自分自身を振り返ると少しずつだけど
言いたいことが言えるようになってきた
結果、不感になっていた違和感を
ちゃんと感じるようになってきた
主体的になってきたんだと思う
重要なのはここからだ
この違和感を情熱に変えるには?
私たち世代は特に意識して
この違和感から
目を逸らしちゃいけないと思う