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暴力・言論・芸術

表題、4月15日

芸術は尊厳を守るための手段として、暴力・言論に代わる第3の選択肢なのかもしれない。そう考えるようになった。

格闘技を齧っている私は、暴力の強さをよく知っている。流石にジムの仲間がハチャメチャに暴力を振るう、とかはないのだが、暴力が秘めたる自身の要求を通す力なんてものは凄まじいだろう。

そうすると我々が最初に得る力は泣くことなのかもしれない。赤ん坊は泣くことによって親、周囲の人間に要求を伝える。或いは一方的に通す。これは我々人類が初めて手に入れた暴力なのかもしれない。

しかしながら、暴力は勿論攻撃ではなく、尊厳を守るために最も有効打とされている節がある。かなり噛み砕いて言えば「あんまり、馬鹿にするなよ。ぶん殴るぞ」である。この威圧的な抑止力によって尊厳を守ることが可能で、且つ失われたものを取り返すことだって可能である。暴力は現代において忌避されているが、正しく使えば人の尊厳を守る上で最も強く機能するものだと感じる。その力を組織的に管理しているのが警察組織であるのは言うまでもない。

次に言論。言論は言語がもたらす現象の中で最も文明的な行為だと感じる。言葉、発話、文章によって思想や意見を表現、発信できることは民主主義的で、且つとても文明的で、人としての尊厳が保たれている。

しかしこと今の日本では言論が「論破」の文脈になっている気がしてならない。確かに論破は気持ちいいし、議論が過熱すれば論破の方向になりがちなのも十分に理解できる。しかし論破は建設的ではないし、言論をする際の主題を解決する方法として悪手だ。

言論の自由とは本来、万人が万人に対して行使できる権利だ。それを保障されている限り、我々は言論発信によって自身の考えを社会にアプローチできて、社会の一員として議論に参加することが出来る。

さてここで、第3の選択肢として芸術が登場する。

芸術作品は制作者のインスピレーション、感情、感覚、論理、思考を載せて制作されているものがほとんどだ。例に漏れる場合も大いにあるが、大体の作品はそのような傾向にある。私の作品もそうだ。

そのような作品がもたらすものは、問題提起・言論機会の創出・主義の主張である。
芸術作品には長い文章によって主張しなければならないことを作品に落とし込んで鑑賞者に落とし込めることが最大の魅力であるように感じている。ただこれは最近の現代美術の傾向が主義主張を埋め込みがち、という先入観も私にある。ただ単にインスピレーションで成り立っている作品が悪だとは微塵も思っていない。どんな作品でも評価されるべきだ。

芸術作品には、暴力・言論における要求を通したい相手、主義を主張したい相手に対する加害行為及び時間を要する必要性を極限までシンプルに抑えている側面がある。鑑賞者は自身の時間軸でその作品のメッセージ、感覚を汲み取れば良いのだから、他者に影響される必要はない。

勿論、私のこの論理がすべてにおいて当てはまるとは思っていないし、すべての芸術作品がこの論理の下にあるなんて思っているわけでもない。私がここ最近抱いている先入観の紹介、と言ったところだろうか。

ただ、暴力が忌避され規制され、言論の機会もどんどん失われていく中で、芸術作品が秘めるポテンシャルは、会田誠、草間彌生と言われる人々が興した現代美術のムーブメントが盛り上がった当時より、もっともっとより深い言論機会の創出の可能性を秘めているように、私は思えてならないのだ。


今泉京介です。小説、エッセイ、詩、色々と書きます。よしなに。