ぶらりくり -由布院・中津・別府編-
雪のせいで大きく旅程は遅延したものの何とか由布院に到着。投宿先は湯布院を全国的な人気温泉地へと導いたことでも知られる老舗旅館、通称「御三家」と呼ばれる「亀の井別荘」。金鱗湖の側にある旅館で、由布院駅からは徒歩で20分くらいかかる。宿に着くとすぐ荷物を置いて金鱗湖に散策に行く。
1日目
金鱗湖
金鱗湖はかねてから来たいと思っていた、僕にとってはかなり特別な場所で、この西日本旅行自体も最終目的地をここ金鱗湖にするつもりだった (途中で旅程を伸ばし、四国まで行くことにしたけれども)。
湖で泳ぐ魚の鱗が夕日で金色に輝く様子からその名がつけられたこの湖は、新緑や紅葉、雪景色など季節ごとに大きく表情を変えることで有名だ。この日は珍しく雪が降っていて、激しく雪が舞う湖の姿は別格だった。湖畔の遊歩道を散歩し、湖周辺の独特の雰囲気を味わう。
由布院近辺には豊後森にある転車台を訪れてみたかったので、一通り金鱗湖葉を飲んぶり散歩した後、2時間に1本くる電車の出発時刻が近づいてきたので由布院駅から豊後森に行く電車に乗る。
旧豊後森機関庫
旧豊後森機関庫は現存する扇形機関庫として九州で唯一の帰機関庫であり、1934年に久留米市と大分市を結ぶ久大本線が開通した際に蒸気機関車の水と石炭の補給地として活躍し、最盛期には25輛の蒸気機関車が機関車庫に収まり200人の従業員が機関庫で働いていた。当時は豊後森駅にも多くの登山客や湯治客等の観光客も来駅し、1日の駅の利用人数は5,000人にも登った。
雪が積もってる転車台がめちゃくちゃ奇麗で良い。
1970年に久大本線から蒸気機関車が姿を消し、翌年1971年に機関庫は廃止され、2012年に国の有形文化財、2017年には日本遺産構成文化財となり、公園として活用されている。
これは偶然豊後森駅に停車していたクルーズトレイン「ななつ星」
豊後森駅の「良い景色が見える」と示されていた窓から見た景色。雪景色しか見えん。
豊後森駅から由布院駅までの切符。
これは湯布院に帰ってきて湯の坪街道を散策した時の写真。
温泉街らしさが爆発していて最高。
これは旅館の庭。
2日目
2日目は官兵衛ゆかりの城下町を散策したいと思ったので中津に行くことにした。中津に行くためには由布院から別府までバスで出て、そこからJRに45分ほど乗る必要がある。調べてみると別府までは2日間使えるバスの一日乗車券があるそうなので、翌日は別府で地獄めぐりをしたかったので「MyべっぷFreeワイドフリー乗車券」を買った。
これは途中のアメリカっぽい駅。アメリカの国旗と見せかけて宇佐神宮である。
中津は前野良沢から福沢諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋楽の近代化に多大な貢献をなした藩であり、中津藩は別名「蘭学の里」と呼ばれている。
3代目中津藩主・奥平昌鹿は母親の骨折を長崎の蘭方医・吉雄耕牛が治療に成功したことで蘭学に興味を抱き始め、1770年に藩医の前野良沢を中津に連れ帰り、長崎に留学させた。良沢はオランダの『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白らと翻訳し、蘭学の開祖となり、その成果は1774年に杉田玄白、中川淳庵らと共に『解体新書』として出版された。
5代目中津藩主・奥平昌高は実父・島津重豪とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ語を学んだ。1810年には神谷弘孝と共に日本で最初の和蘭辞書『蘭語譯撰』を、1822年には大江春塘と共に日本で3番目の和蘭辞書『中津バスタード辞書』を出版。2冊合わせて「中津辞書」とも称され日本各地で使用され、出島やオランダのライデン大学において日本語を学習するオランダ人にも利用されていた。1819年には中津藩は藩医・村上玄水による資料として残されている最初の人体解剖を許可。玄水はその記録を『解臓記』として残し、現在では玄水の生家を「村上医家資料館」として中津市諸町に保管されている。
1849年には辛島正庵を筆頭とする中津の医師十名が長崎に赴き、ジャカルタ由来の痘苗を入手して中津に持ち帰り種痘に成功。この年は「種痘元年」とも呼ばれた。この成果に感銘を受けた住民からのボランティア基金により、1861年に勢溜に「医学館」が設立され種痘所として活用され、明治には「中津医学校」へと改称された。
1971年に中津医学校校長に就任した大江雲澤は「医は仁ならざるの術,務めて仁をなさんと欲す」と医訓を示し、外科医として、そして教育者としても優れた業績を残した。他に中津から排出された外科医として、陸軍・軍医学校校長を務め『外科手術』や『医事新聞』を発行した田代基徳、日本の歯科学の開祖・小幡英之助、心臓の刺激電動系の発見者・田原淳などがおり、中津から多くの医歯学のパイオニアが出現した。
合元寺
中津に到着してまず最初に訪れたのが、黒田官兵衛と宇都宮一族の戦いの跡が残る合元寺である。
合元寺は官兵衛が1587年に建立した寺であり、嫡子・長政が謀殺した武将・宇都宮鎮房の家臣との激戦の場になった場所でもある。
別名・赤壁寺と呼ばれるように、寺の門前の奇麗な赤い壁が目を惹く。元々白い壁であったが討死した家臣らの血痕を隠すために赤に塗られたといわれている。
中津城
合元寺から10分ほど東に行ったところに中津城がそびえている。初代中津城主は2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」や直木賞受賞作『黒牢城』(米澤穂信)にメインキャラクターとして登場した黒田官兵衛。
官兵衛は1546年に小寺家の家老・黒田職隆の嫡男として播磨国姫路に生まれた。1567年22歳の時に家督を継ぎ姫路城主となったのち、1575年に信長に謁見し秀吉の配下に、1577年には中国地方征伐のために秀吉に姫路城を差し出す。1578年33歳の時には荒木村重が信長に離反し、村重の説得のために有岡城に向かうも捕縛・幽閉され、約1年ほど捕えられた。その後、1581年の鳥取城攻め、1582年の備中高松城攻めと戦功を重ね、1583年38歳の時にキリスト教の洗礼を受けた(洗礼名: ドン・シメオン)。
1586年には官兵衛の人生にとって大きな影響を与えた九州平定が開始。7月25日、官兵衛は九州攻めの先方を務め3,000の兵を率いて豊前国に侵攻。毛利軍とともに豊前の主要な背城を制圧し、翌年4月には羽柴秀長軍が根白坂で勝利。5月には島津義久が降伏し、秀吉の九州平定が成立した。1587年7月に豊前8郡のうち6郡(京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡の一部)が与えられ、豊前6郡12万石の領主となり、馬ヶ岳城を居城とした。(残りの規矩郡と田川郡は毛利勝信の、宇佐郡の一部は大友氏に割り当てられた)
官兵衛は豊前6郡の領主となり、中津城に入城する前に時枝城にて3つの定めを記した。これは『黒田家譜』や『太宰管内志』には記されているが、その原本は未だ所在不明である。
九州平定の次の官兵衛の人生における一大イベントは宇都宮一族との闘いである。
宇都宮市の始まりは平安時代にまでさかのぼり、下津国の一ノ宮である二荒山神社の座主に命じられた藤原宗円が宇都宮氏の祖である。鎌倉時代には宇都宮氏は武士団として成長し、4代目の宇都宮信房は源頼朝による平家討伐において功績をあげ豊前の地を所領として与えられた。
官兵衛と戦いを繰り広げたのは18代目宇都宮鎮房である。九州平定により豊前が官兵衛に割り当てられた際に宇都宮氏には伊予今治12万石への国替えが命じられたが、鎮房はこれを認めず豊前国内での安堵を秀吉に主張。
これに合わせて官兵衛の兵農分離政策が半農半武の生活を送ってきた武士が農民となり彼らを統率していた国人領主もまた不満を抱き、1587年10月1日に鎮房を中心に豊前の国人が黒田氏に対して反旗を翻す。一揆が始まった。
最初に蜂起したのは如法寺孫二郎輝則、緒方惟綱、日隈小次郎直次、喜井弥七郎信継、有吉内記らで、日熊城に籠城。これに対し黒田長政は苦闘の末に日熊城を攻め落とした。
日熊城の戦いの翌日10月2日、混乱に乗じた宇都宮鎮房は旧領である城井谷を奪還。10月9日に長政は2,000の兵を率いて城井谷に出陣し、入り口の構える広幡城を落とし、城代瓜田春永を案内に岩丸山の尾根を行軍。岩丸山の先の宇都宮の本城・大平城を目指して行軍するも、山中に配置された宇都宮の伏兵が反撃。藪景、谷の影、木の陰、岩陰から奇襲を受け、黒田家臣大野小弁正重や毛利の客将勝間田彦六座衛門が討死し、黒田方は800人の死者を出した。岩丸山の戦いである。
戦いの報を聞き、急遽肥後から帰国した官兵衛は再び城井谷に出兵させ、谷の口の萱切山に付城の小川内城を築城。官兵衛と長政は城井谷を封鎖して広津まで軍勢を進め、上毛郡の国人衆ら(鬼木掃部助、山田大膳元房、八屋刑部、友枝大膳、内尾主水)と観音原にて合戦 (観音原の戦い)。官兵衛らは鉄砲などの近代戦法を主力とした戦い方で勝利し、国人衆らは各々の居城に篭ったが後に黒田勢によって掃討された。この時宇都宮一族の山田大膳も櫛狩屋城に篭り、従兄弟である中間統胤と合流。統胤は援軍と称して城内に入るが、入城の際に寝返り城門を開き黒田の軍勢を引き入れる。大膳は討ち取られ、上毛衆は鎮められた。
上毛郡を制した長政は、下毛郡と城井谷を分断させるべく、山間部の要害・長岩城に侵攻(長岩城の戦い)。当時の長岩城主は宇都宮一族の野中鎮兼。官兵衛は家臣の栗山利安に長岩城攻略を明示すが、長岩城は強固な山城であり黒田勢にも多くの戦死者が出た。この戦いを切り開いたのが野仲氏の一統であった土豪・百留河内守であり、官兵衛の凋落によって黒田方に内通していた百留河内守の助力により長岩城は落城し鎮兼は自刃。300余の首級が晒された。ちなみに豊前平定後には栗山利安はこの地を賜り統治することになる。
11月16日には毛利の将・吉川広家率いる10,000の増援を受け、12,000の大軍を率いて官兵衛と長政は再び城井谷を攻めた (城井谷再戦)。黒田・吉川両軍は付城を置いた萱切山に陣を張り、岩丸山で出陣した鎮房と対峙。鎮房はゲリラ攻撃を駆使するも黒田軍も的確に対応し、宇都宮軍は劣勢を強いられ、残すは城井ノ上城の鎮房本陣のみまで追い込まれる。広家は鎮房本陣を切り崩そうとするが、長政が大敗した鎮房に広家が大勝する構図を避けるため鎮房本陣に和睦の使者を送る形で城井谷再戦は終結した。
残すは下毛郡諸城の制圧のみとなった官兵衛は、池永城に侵攻 (池永城の戦い)。城主・池永左馬頭重則らとその一族が防戦したが落城。
続いて犬丸城に侵攻し (犬丸城の戦い)、黒田軍は数百人を討ち取り犬丸城は落城。犬丸越中守は城を越ちのび秣村の秣大炊介を頼るが、既に黒田に帰属していた秣氏により討ち取られる。
犬丸城落城後はのこるは大畑城と田丸城の2城のみとなり、この2城の攻略には吉川の軍勢が加勢。黒田・吉川両軍は田丸城を囲み、籠城していた福島佐渡守祐了が降伏(田丸城の戦い)。田丸城は寺院を城郭化したものであり、現在でも浄土真宗の寺院として続いている。
下毛郡最後の将は大畑城に籠った加来安芸守統直。三日三夜の防戦に及ぶが城兵300余人が打たれ落城。統直は豊後へ逃れようとするも秣の山中・幕の峰にて秣大炊介の伏兵に討ち取られる。
これにより、1587年12月、官兵衛は下毛の諸城を攻め落とし豊前国の武士団との闘いは終結し、一揆は鎮圧された。
国人領主らの一揆を治めた官兵衛は、翌年1588年1月に中津城築城に着手する。当時官兵衛には秀吉から豊前6郡と馬ヶ岳城を与えられていたが、居城は好きな場所を選んでよいとされており、そこで官兵衛が選んだのが中津川の河口であった。官兵衛は馬ヶ岳の山城から交通の要所への移転により政治・経済の拠点づくりを目指していたと考えられている。
当時の縄張り図には「京町」「博多町」「侍屋舗町屋」「寺モアリ」といった記述がみられ、城下町造りの一端が伺える。
その後官兵衛は、1588年4月に城内にて宇都宮鎮房を討伐。1589年に家督を嫡子・長政に譲り、1590年の小田原城攻め (無血開城)。1592年に宇喜多秀家の軍監として文禄の役に、1597年に小早川秀秋の軍監として慶長の役に参加するなどの軍功を積みながら、1599年に中津城下にイエズス会の駐在所を建設するなど城下町の発展にも力を注いだ (官兵衛が長政に家督を譲った理由は『常山紀談』や『故郷物語』に記されてはいるものの、それ等は逸話の域を出るものではない)。
なお、黒田官兵衛が剃髪し、如水円清と号するようになったのはこの頃(1593年)である。如水の名の由来は金子堅太郎『黒田如水伝』説やルイス・フロイス『日本史』説など様々な説があるが、確かなことは明らかになってはない。
そして次の官兵衛にとって大きなイベントは1600年9月関ヶ原の戦いである。官兵衛は1600年7月17日に上方の動向を知るために瀬戸内海に配備されていた「早船」(船をリレーさせて日夜船をすすめて最短で情報を伝達する仕組み。官兵衛は大阪、鞆の浦、上関、中津に拠点を置いていた)を使い、母里太兵衛と栗山利安の情報発信により石田三成の動きをいち早く知った。秀吉の死後に台頭してきた家康に対し、石田光成や毛利元就らが挙兵したことを知った官兵衛は「天下分け目の乱兵はや来たり。いそぎ陣用意すへし」と宣言し兵士を募集。官兵衛は募兵にあたり中津城の天守から金銀を出して広間に積み上げ、「何者にてもあれ、奉公に出べきという者あらば、貴賤をえらばず、この金銀を与えて召抱ゆべし」と領内に触れ回った。即席の兵であったものの城内の兵も併せて9,000人の軍となり、母里太兵衛や井上九郎右衛門、栗山利安などの経験豊かな重臣たちらも集まった。
官兵衛は中津の東にある広い原っぱに兵を集めて檄を飛ばし、豊後の大友義統との闘いに向け出陣した。石垣原の戦いである (官兵衛は大友義統に東軍に着くよう説得するが失敗)。
大友義統は杵築城の細川氏に対し先制攻撃を仕掛け、そこに対して官兵衛が援軍を送る形となった。その後に義統は兵を引き、南立石に本陣を引く。官兵衛も本陣を実相寺山に移し、9月13に大分県別府市の石垣原で合戦となり、石垣原の戦いとなった。ここで大友軍の吉弘統幸や宗像鎮統が討死。9月15日に関ヶ原の戦いが勃発し、それが一日で終了すると大友義統は剃髪して降伏。官兵衛は九州各地へ進軍していくこととなる。
9月28日に徳川家康から黒田官兵衛に対して贈られた、大友義統の生け捕りを褒め、小倉城攻めを指示する書状が残されている。
関ヶ原の戦いは1日で終わったが、官兵衛はその後2か月間にわたり九州の西軍派を攻め続け、九州平定も間近まで来たが、水俣辺りまで進軍するさなか1600年11月12日に家康から「黒田如水に命じて年内の薩摩方面の出陣を中止させる」と停船命令が発せられた。この戦功により黒田家は52万石への加増転封となり中津を去ることになる。これが関ヶ原の戦い前後の官兵衛の活躍である。
1604年 京都にて逝去。享年59歳。葬儀は博多の教会で行われ、墓は黒田家菩提寺である博多の崇福寺におさめられた。
中津城は中に入ることができるので見学してみた。風通しは良く、かなり寒い。
天守からの景色
城井神社
中津城跡内にある神社。中津城で黒田官兵衛に謀殺された宇都宮鎮房が埋葬された場所。1705年に当時の中津藩主・小笠原長円が鎮房を「城井大権現」として城の守り神として祀るようになった。
扇城神社
城井神社のすぐ隣にある神社。こっちには宇都宮市の重鎮が祀られている。
城壁外周を歩いていると下のように、明らかに石の積方が異なる箇所が見られたりして面白い (右側の逆台形の部分)。
ここも明らかに右側と左側とで積まれた時期が違うポイント。
右側が黒田官兵衛の時代に積まれた石垣であり、左側が細川忠興時代に積まれた石垣。
北東から見た中津城はまさに日本三大水城の風格が漂っている。すごい迫力だ。
西蓮寺
中津城から10分ほど東に歩いたところに官兵衛の末の弟・黒田市右衛門(光心師)が開山した寺がある。寺門にも堂々と「黒田官兵衛ゆかりの寺」と大きく書かれている。
円応寺
黒田官兵衛が開いた寺であり、官兵衛が福岡に移った後も細川氏、小笠原氏など歴代の藩主に親しまれてきた
別名を河童寺とも言い、境内に「河童の墓」がある。本当の河童の墓ではなく黒田二十四騎の一人・野村太郎兵衛の墓という説もある。
だんご汁・やせうま
一通り中津を観光し終わったので由布院に戻る。その途中で別府に立ち寄ったので間食として茶屋に入り名物のだんご汁とやせうまをいただいた。
もっちりとして細長い団子の入った味噌汁「だんご汁」は大分の郷土料理らしく、県内の居酒屋や定食屋で広く食べられる。おいしい。
3日目
3日目は別府に行って地獄めぐりをしに行く。
これは金鱗湖のほとりにいた鳥。朝の金鱗湖は朝霧が奇麗なので散歩に最適である。
かまど地獄
最初の地獄は赤い鬼が釜戸の上で出迎える、かまど地獄。かつて氏神・竈門八幡宮の大祭で御供飯を地獄の噴気で炊いた習わしが由来となっている。
かまど地獄三丁目。小さくも幻想的な美しい色をした地獄。
地獄が続く中偶に極楽が現れたりする。
かまど地獄四丁目。線香の煙を吹きかけると噴気が上がる不思議な泥地獄。
かまど地獄五丁目。気温や天候によって湯の色が変わる。
かまど地獄六丁目。水分が少なく真っ赤な熱泥が沸いている。
海地獄
2つ目の地獄は鶴見岳の噴火によってできた海地獄。
極楽饅頭を売ってる。おいしい。
鬼石坊主地獄
煮えたぎった泥の泡が浮きでる、鬼石坊主地獄
山地獄
カピバラやフラミンゴも飼育されている動物園、山地獄。ここだけ共通観覧券が使えないので入り口で券を買う必要がある。
お昼ご飯 (地獄蒸し・蒸士茶楼)
お昼ご飯は別府名物の温泉蒸気を活用した地獄窯で食材を蒸す「地獄蒸し」をいただく。
こんな感じで食材を温泉の蒸気で蒸す。
鬼山地獄
5つ目はワニが多数飼育されており、別名”ワニ地獄”とも呼ばれる鬼山地獄。
運が良ければ飼育員による餌やりを見ることができる。わしは運が良くなかった。
一応鬼もいる。
白池地獄
アマゾンのピラニアやピラルクも見られ、水族館としても楽しい白池地獄。
龍巻地獄
6つ目の地獄は地中から熱水が噴き上がる、龍巻地獄。龍巻地獄と地の池地獄の二つはほかの地獄と少し離れたところにあるのでバスに乗って移動する必要がある。
噴出し始めると6~10分ほど続く、噴出量は1日に約600kL。
竜巻が吹き上がるまで待つスペースがある。
血の池地獄
最後の地獄は湯気まで赤い、血の池地獄。
『豊後国風土器』に「赤温泉」と記される日本最古の地獄。赤い熱泥はかつては布の染色にも利用されていた。
4日目
4日目は湯布院滞在の最終日となるので由布院周辺を散策してから大分市内に向かうことにした。
湯の坪街道の由布院 鞠智のどら焼き。おいしい。
金鱗湖にはめちゃめちゃ霧が立っていた。
5分も湯の坪街道を外れれば田園風景が広がっている。
由布院ステンドグラス美術館
英国製のレンガ造りの建物が目を惹く、19~20世紀にかけて作られたステンドグラスが展示されている美術館。美術館に入ることで併設された聖ロバート教会も見学できる。
お昼ご飯 (湯の岳庵)
亀の井別荘に併設されたレストラン・湯の岳庵でお昼をいただく。今日はおおいた和牛をつかったビフテキ丼。美味しいけれども観光地価格感はすごく強い。
湯の坪街道
お昼ご飯を食べた後は適当に湯の坪街道を散策。
世界一美しい村とも言われるコッツウォルズを模した通り。由布院でプチ海外旅行気分が味わえる。
茶房 天井桟敷
雨脚が強くなってきたので喫茶店で一休み。江戸時代の造り酒屋を改装した店内はクラシカルな雰囲気。
おしゃなメニュー。
「モン・ユフ」という名前の由布岳をモチーフにした、デンマーク産クリームチーズに生クリームとレーズンをトッピングしたお菓子。甘味は強くなくて乳感が強い。おいしい。
そんなこんなでゆっくりしていたら電車の時間が近づいてきたので喫茶店を後にし、由布院駅から大分駅に向かうことにした。
もともとこの旅行の目的が「金鱗湖を見ること」だったので本来であればここから大分空港に向かって実家の名古屋に帰る予定だったけれども、このまま四国にもちょっとわたってみたいなあと思ったので大分から船に乗って愛媛に渡ることにした。というわけでもうちょっとだけ旅行は続きます。