ぶらりくり -伊豆・伊東・下田編-
思い立ったが吉日とはこのことか。突然と予定の無い日が3,4日ほど出来たたのでふと伊豆に行ってみたいと思った。前日ではあったものの幸いにして2泊分の予約を受けてくれる温泉宿が見つかったので急遽伊豆に行くことが決まった。種田山頭火も「旅日記」の中で伊豆を訪れており、伊豆にはかねてから行ってみたいと思っていた (以前、日帰りで修善寺を訪れたことはあったけれども伊東や下田、西伊豆には行ったことがなかった) ので、今回の旅行を機に伊豆の主に東側を回ってみたいと思う。
これまで知らなかったのだけれども、なんと熱海駅には「ひかり」が停車するらしい (以前三島駅に行った時には「こだま」しか選択肢がなかったので熱海も同様であると思い込んでいた)。おかげで東京駅から伊東駅までは乗り換えさえスムーズにいけばなんと1時間でついてしまう。おそるべし東日本旅客鉄道。ただし、なぜかこの日は道が混んでいて東京駅に着くころには予約していた新幹線はとうに出発してしまっていたので全然スムーズには着かなかった。
1日目
和田寿老人の湯
伊東駅に到着するとバスを待っている間に伊東の街を散策して見ることにした。この和田寿老人の湯は種田山頭火が伊東に逗留した時に通ったといわれる温泉で「旅日記」には4月17日から「伊東温泉伊東屋」に泊まったと記されている。この伊東屋というのはどこにあるのかと聞いてみると、どうやら旅館自体は戦前に潰れており、戦時中は野戦病院として使われていたそう。現在では駐車場になっていた。諸行無常。
一碧湖
和田寿老人の湯の目の前にあるバス停から30分ほどバスに乗って一碧湖に到着する。別名「伊豆のひとみ」と呼ばれる周囲約4kmのひょうたん型をした湖で、湖面に映る天城連山が美しく「日本百景」の一つに選定されている。
約10万年前の噴火でできた湖で、火口内にも細かな火山灰が降り積もったため水が抜けにくい環境となって湖となったらしい。湿った環境のため、県内で唯一ここに丁字草の群生も見られる。
湖の西側には鳥居が立っている。湖には「大池の赤牛」と呼ばれる逸話があり、湖に生息していた巨大な赤牛が住民らを襲っていたが、1人の上人が自らの命と引き換えに赤牛を封じ込めることに成功し、それを示すために鳥居が建てられているという。
なぜ湖に牛がいるのか、その上人とは誰なのか、鳥居があるとすれば神社だが祭神は牛の方なのか上人の方なのか、逸話がざっくり過ぎるため様々な疑問は尽きないが誰に聞けばよいかもわからないので謎は謎のままで起こしておくことにする。
そもそも一碧湖に来ようと思った理由が、与謝野鉄幹、晶子夫妻が良く訪れていた景勝地だからである。山頭火の「旅日記」にも本少しだけれども登場する。道中には与謝野夫妻の句碑が置かれていた。
与謝野夫妻は1930年年以降に湖畔の抛書山荘の滞在を何度も楽しみ、その間に鉄幹は70余首、晶子は300余首の句を残した。ここでの句は同人誌『冬柏』に発表されているらしいが、『冬柏』は1巻しか読んだことがないのでこれを機にもう少し読んでみようと思う。
湖のとなりにはふたごとして沼地がある。下の写真はわしが好きな雰囲気が醸し出されている写真。沼地という自然物の隣に木の橋という半人工半天然ともいえるもの、そしてその右に金網、「禁漁区」を示す看板、と徐々に自然と人工物のグラデーションが変わっていく光景で見ていて面白い。我ながら自分が結構好きな写真だと思う。
大室山
一碧湖から再びバスに乗り、終点のシャボテン公園駅で降りると、左手に巨大な山と正面に大きな鳥居が目に入る。
大室山は標高580mの単成火山で中央に深さ70mの火口跡が残る山で、個々からリフトに乗って誰でも楽に登山ができる。
ちなみに山頂は相当風が強いので舐めない方が良い。病気でぶっ倒れて体重が32kgしかなかったときのわしだったら飛ばされてた。今は元気だから飛ばされずに済んだ。
山頂からは富士山がきれい見える。多分晴れていたらもっときれいだったと思う。
火口はんあんとアーチェリー場になっている。こんなに風が強くて弓がまっすぐ飛ぶものなのだろうか? (火口の底は風が弱いのかもしれない)
火口に下って行ったところに浅間神社という神社が建っている。神社は山の上とか高いところに立っているイメージがあったのでこうやって下って神社に参りに行くのは新鮮だ (山頂から下っているので実際は山の上なのだが)。安産や縁結びにご縁があるらしい。結婚してぇ~~~
山頂を火口沿いに一周する「お鉢めぐり」が定番コース。周囲に遮るものはなく見晴らしは抜群。
道中にある地蔵。海上安全や海難防除・大漁祈願を祈る地蔵。確かに山頂からなら伊豆半島から房総半島を一望できるので、広範囲の港に対して一気に願掛けができる。すごいシステムだ。あれ、もしかして神社が高いところに多いのはそういうことなのか??
盆地型の田園が眼下に見えるが、大室山から流れ出した溶岩によるせき止め湖の名残。
薄に富士。映えるねえ。
さっきまでいた一碧湖も見渡せる。
大室山から下山するとすぐそばに動物公園があった。CVSベイエリアという会社が運営している施設で、この会社はアニタッチを運営しており、企業として興味があったので寄ってみたが営業時間がもう終わりかけだった。カピバラと触れ合えるらしい。今度時間があるときにまた来よう。
まだまだ次のバスまでかなり時間があったので歩いて伊豆高原を散策することにした。
これは道中見かけたねこの博物館
これは道中見かけた怪しい少年少女博物館。実はさっきのねこの博物館と姉妹館らしい。
当初はこのまま城ヶ崎海岸まで歩いて日の入りを見届けようかと思ったけれども、そろそろ日が暮れてきたのでここらでバスに乗り、伊東に戻ることにする。この日は温泉につかってゆっくり休んだ。
2日目
かなり疲れていたはずなのになんと朝6時に目が覚めてしまった。周辺を散策して昨日行くことが叶わなかった城ヶ崎海岸に向かおう、と思ったけれども、その少し北に富戸港があると知り、そっちの見学をしてから行くことにする。
富戸港
海青すぎ。
どこにでもありそうでここにしかない景色が延々と続く。海の青さとのどかな雰囲気が漂ってくる。
城ヶ崎海岸
約4,000年前に大室山の噴火によって流れた溶岩が固まり荒波に削られてできた景勝地。3km程度の散策コースが整備されていて散歩には最適。
散策路にある魚見小屋。ボラ漁のための見張り小屋。漁期には4人1組で寝泊まりしてボラの群れに目を光らせていたという。
城ヶ崎ブルースの碑
良い松。
1848~1854年の黒船来航にあたって伊豆の海防を強化した名残が城ヶ崎にも残っている。
門脇つり橋。半四郎落としと呼ばれる断崖に架かる全長48m、高さ23mのつり橋。ここからの展望がすこぶる良い。
1960年に建設された門脇埼灯台。中には自由に入れるようになって展望台まで登れるようになっている。
蓮着寺
そのまま南に歩いていくと蓮着寺という寺にたどり着く。他宗派への悪口を言いまくっていた日蓮上人が北条氏に流刑を食らって置き去りにされた場所に建てられた寺。すなわち日蓮が流れ着いたから蓮着寺である。ちなみにこの流刑は日蓮四大法難の一つであり、日蓮はあと三度襲撃を受けている。原因は当然、他宗派への悪口である。
蓮着寺はヤマモモの巨木が有名で、国内全体でも最大級の大きさを誇る天然記念物である。
境内にある日蓮上人の像。いかにも悪口を言いまくっていそうな顔つきである。
成就の鐘。100円払うと1回撞くことができる。「結婚してぇぇぇ~」と願いながら一撞き。ゴーーーーーーーーーーーーンという音が響き渡る。
このまま城ヶ崎海岸駅まで歩き、そこからJRで下田まで向かった。当初はここから河津駅まで行って大滝温泉によってから下田に行こうと思っていたが、さすがにそれは時間的に厳しいということが電車に乗っている最中に明らかになり、直接下田を目指すことにした。
ちなみに、伊東から下田までは1日乗車券が発行されていて2,000円で乗り放題である。わしはそんなものの存在を後から知ったので正規料金を払った。
お昼ご飯 (あぶり金目丼)
遅めのお昼ご飯をとるため、下田駅から歩いて10分くらいのところにある下田魚市場の漁協直営の海鮮屋さんに入る。実は、下田魚市場はキンメダイの水揚げ量日本一の港。
少し迷った末、炙り金目丼を注文。表面を軽く炙った金目鯛の香りと脂が引き立ち箸が止まらない。15時までやっていてかつ予約もいらないのがうれしい。
食事を終えて下田港付近を散策している途中に発見したペリー艦隊来航記念碑。ペリーの石碑自体は日本側で作ったものだけど、隣の錨はアメリカから寄贈されたもの。
ペリーロード
幕末に下田条約を結ぶ際にペリーが部下を連れて歩いたとされる平滑川沿いの小道。500mの通りにはおしゃれなお店が立ち並んでいる。
了仙寺
ペリーロードを渡り切った先には了仙寺という寺がある。普通の日蓮宗の寺なのだが、実はペリーと日本側全権の林大学頭との間で下田条約が調印されたのがこの寺である。下田条約は日米和親条約の追加条項的な存在で、例えばこの条約によりアメリカ人の遊歩権が認められた。これで下田の住民との交流が可能となり、日米間の民間異文化交流が始まっていった。また、横浜では日本側は英文条約文への署名を行わなかったため、下田にてオランダ語を第三言語として日本側が英文条約文に署名。これにより日米和親条約の正式な調印が完了した。それ以降は、この寺はアメリカ人の休息所として用いられた。
ちなみに境内には黒船ミュージアムという博物館がある。時間の都合上見学は断念。
下田開国博物館
了仙寺からさらに西に行くと江戸末期から明治にかけての下田の歴史を解説している博物館がある。ちなみに入り方は結構分かりにくく、この建物でチケットを買ってから隣の建物を見学するのだけれど、その建物への入り方が分かりにくい。
1853年6月、ペリー率いる4隻の軍艦が江戸湾入口浦賀沖に姿を現し、「日本の夜明け」が始まっていく。ペリーは一旦は日本を去るも、翌1854年2月13日に再度来航し、金沢沖(現・横浜市金沢区沖)に投錨。徳川幕府に対して強硬に開国を迫り、横浜における数回にわたる正式交渉の結果、1854年3月に下田と箱根2港の開港など11か条からなる日米和親条約が調印された。これにて家康以降固く守られてきた鎖国制度が大きく破られることとなった。
この時の記録はペリー地震のメモや日記を基にフランシス・ホークスが『ペリー日本遠征記』として残されており、第1巻ではノーホーク出向からシンガポール、セイロン、香港、マカオ、上海、琉球などの寄港した地域や浦賀、横浜、開港地の下田、函館の記述がイラストとともに記述されている。ちなみに第2巻では航海で知り得た各地の農業、植物、鳥類、魚類などの記録とその絞殺、第3巻では天体の観測記録となっている。
調印後に即時開港された下田にペリーが再度来航し、1854年6月に下田を去る前の間にもう一つの開港地である函館の視察や下田条約の調印を行った。
下田の主な役割は、外国船に薪水や食料、石炭などの公開に必要な物資を供給することであった。同心町には応接所を兼ねた「欠乏所」を建て、見本を陳列して扱い、商人を指定し、奉行所役人を通して品物と金銭のやり取りが行われていた。明らかに土産物と思われるものは市場価格の15~50%増しの料金で取引されていたといわれ、商人側は売上の30%を幕府に冥加金 (いわゆる税金) として納めていた。これにて制限はあるものの、下田において事実上の貿易が開始されることになった。
また、下田開港に伴って下田奉行所が設置された。奉行には伊沢美作守と都筑駿河守が、支配組頭には黒川嘉兵衛と伊佐新次郎が任命された。当初は寺院を仮の奉行所として使っていたが、1855年に郊外に約1万坪の奉行所を建て、1857年には通訳含め約140名が在籍していた (幕府は重要な場所には代官ではなく奉行をおいており、行政、司法、警察、徴税の権限を委任していた。奉行には家禄千石から二千石の旗本が選ばれ、老中直下の役職であった)。
1853年7月18日にはロシア皇帝ニコライI世の名を受けたプチャーチン提督が4隻で長崎に来航し、開国通商と北方国境画定を求めた。いったんはクリミア戦争勃発のために退去したが、日米和親条約締結の知らせを聞き10月にディアナ号で下田に来航し再交渉が始まった。
幕府側対ロシア応接係大目付格は筒井政憲、勘定奉行は川路聖謨。11月3日に福泉寺で第一回会談が開かれるが、交渉に入った矢先11月4日に大地震と津波が日本を襲い、下田の町は壊滅しディアナ号も大破、多くの死者が出た。ディアナ号は修理のために西伊豆海岸の戸田に回航するが、途中に12月2日、富士沖で沈没した。
その苦難に屈せず調印のため奔走したプチャーチンは下田の長楽寺において12月21日、下田、函館、長崎の開港と国境画定を含む日露和親条約を締結し、代船ヘダ号で帰国していった。この条約により、日露国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、南千島の択捉島と国後島は日本領、北千島はロシア領、サハリンは日露の雑居地とすることが確定した (なお、後に1875年の樺太千島交換条約により樺太はロシア領、千島列島は日本領とすることが定められることになる)。
1856年8月には日本初の米国総領事としてタウンゼント・ハリスが通訳のヒュースケンを伴い下田に着任。貿易商人出身の外交官であるハリスの任務は米国との通商の道筋をつけることにあったが、着任当時は幕府に開国・通商の意志は固く、将軍謁見や幕閣との交渉要請は幾度も拒否され、交渉を重ねた結果江戸出府に成功したのは下田着任から15か月後のことであった。
1857年12月、下田から江戸まで350名の大名行列を仕立て天城を超え7日間かけて将軍に謁見。幕閣に世界の情勢を解き、1858年7月29日に日米通商条約の締結に成功。横浜、長崎、新潟、神戸の港が開かれ、江戸、大阪の開市が約束された。
ハリスは1859年に公使に昇任し、6月に玉泉寺の領事館を閉め江戸麻布の善福寺を公使館とした。なお、通訳のヒュースケンは4年5ヶ月を日本で過ごした後に29歳の誕生日を前に路上で攘夷派浪士に襲われ没した。
宝福寺
開国博物館から下田駅に向かって歩いて行ったところにある浄土真宗の寺。日米和親条約で下田が開港された際に仮奉行所として使われた寺。プチャーチンと筒井正憲と川路聖謨との協議が行われたのもこの寺。また、1863年に勝海舟が土佐藩主に坂本龍馬の脱藩を懇願し許可された寺でもある。境内にはハリスの世話係を務めたお吉の墓や『下田年中行事』を記した平井平次郎の墓、お吉記念館がある。
白浜神社
下田駅からバスで15分ほど東に行ったところに2400年以上の歴史を持つ伊豆の国最古の歴史を誇る白浜神社が建っている。
御神木「薬師の柏槇」樹齢は何と2000年。
こっちは「白龍の柏槇」。枯れてから1300年が経っている。
拝殿の横にある鳥居をくぐると本殿に行くことができる。主祭神は伊古奈比咩命。
神社の南側の駐車場からは東の白浜海岸に出ることができる。沖合に浮かぶ島の神々を遥拝するために設けられた大明神岩の上に立つ赤い鳥居が映える。
徐々に日が暮れてきたの海岸でしばらく休んだでせっかくなら日没まで見届けようと海岸でしばらく休んだ。おそらく日の出前に行けば朝日が昇ってくる様子を見ることができてとてもきれいなんだろうと思う。
白浜神社前から下田駅まではまたバスで買えることになるけれども、時刻表の直近のダイヤが「休校日運休」と書かれている。果たして今が休校日なのか違うのか、そもそもどこの学校の休校日のことを指すのか、さっぱりわからないので祈るようにしてバスを待ったけれどちゃんと時刻通りにバスが来たので今日は休校日ではなかったらしい。よかったよかった。
ちなみに下田駅の改札は関所風になっている。
3日目
スイートハウス わかば
3日目は宿の朝食をとってから10時のおやつを食べようと喫茶店へ。1948年創業なので伊東で75年も愛されている喫茶店ということになる。昨今ありがちなモダンなお洒落さとは縁遠い、ノスタルジックな古き良き喫茶店。
ここはソフトクリームが売りらしく、季節によって配合が少し違うらしい。プリンやソフトクリームを盛り合わせたスペシャルホットケーキを注文した。
東海館
松川沿いに建つ文化施設、東海館。1928年に建てられた温泉旅館で、1997年に閉業してしまったが内部を見学することができる。内部の温泉は『テルマエ・ロマエ』にも登場したもので、500円で入浴することができる。
桔梗の間
蘭の間
葵の間
葵の間の欄間には鳳凰の透かし彫りが。
牡丹の間
ここから2階の客室で個人的に東海館の客室で一番好きな部屋。
書院障子の組子細工に、魚を捕るための投げ網と杭のような文様、欄間には麻の葉の文様が施されている。
廊下にある竹の模様の照明器具
橘の間
廊下
飾り窓
ビャクシンを用いた肘木
大広間
お昼ご飯 (うなぎ)
昼食は東海館の真正面にあるうなぎ屋さんに駆け込んだ。おいしかったのでよかった。
松月院
お昼ご飯を食べた後は昨日いけなかった大滝温泉にリベンジしに行こうと思っていたけれども、電車の時間まで少し余裕があるので伊東駅の北にある松月院へ。1183年に開創した真言宗の寺院で、伊豆七福神の一つ「弁財天」としても親しまれている。1月には大寒桜、4月にはソメイヨシノ、10月には十月桜が咲き、なんt1年で3度も花見が楽しめる。そのため別名「桜寺」とも。
魚もいる (当たり前)
松月院の南にある伊東公園の路地があまりに良かったので何枚か写真を撮る。こういう光景には目がない。
伊東公園の展望台から見た景色。
電車の時間になったので伊東駅から電車に乗って南下する。大川温泉から稲取のあたりの景色は見ごたえがある。
大滝温泉 天城荘
伊東駅から河津駅まで行き、そこからバスで30分ほど北上したところに、大滝温泉がある。海辺に温泉地の多い伊豆では珍しい山間部の温泉で、歴史のある宿屋が名湯を守り続けている。
今回行こうとしている天城荘は2023年1月の火災の影響で泊まれなくなってしまい、外湯の日帰り入浴だけ営業している状態。
入り口は極めて分かりにくい。探すのに少し時間がかかった。
階段を下った先にある河津七滝の一つ、大滝。大滝とかいて「おおだる」と読む。素晴らしい。様々な景勝地を訪れてた気を見てきたけれどもこんなに美しい滝は初めて見た。大きい滝も迫力のある滝も他に山ほどあるけど、美しさが五感から染み入ってくる。まさに見ているだけで感極まって踊りだしそうな滝だ。これは本当に来てよかった。
こんな滝を見ながら入る風呂が気持ちよくないはずがあろうか。いやない (反語)。
入浴時間は40分ほどしかなかったがそれでもかなり満足できた。帰りのバスまでは時間があるので、大滝以外の滝も見学しようと河津七滝をめぐることにした。
河津七滝
出合滝
2つの流れが出会って一筋の流れになるから出合滝。合流地点の水がとても青い。
カニ滝
河津七滝の3つ目の滝、カニ滝。
これは滝のそばにあった七滝七福神、蟹布袋。家庭円満の神様。
これは途中にあった大願成就ならぬ大岩成就の岩。3個の願い石と呼ばれる小石を投げ、1つでも岩の上に乗れば願いが叶うといわれている。
初景滝
伊豆の踊子のブロンズ像が目を惹き、川端康成の叙情を生み出している撮影スポット。
七滝七福神は初景寿老人。
蛇滝
5つ目の滝は蛇滝。玄武岩の模様が蛇のうろこに見えるから蛇滝。
次の滝に向かっていく途中に通るええ感じのつり橋。
エビ滝
6つ目の滝はエビ滝。名前の由来は一目瞭然、滝の形がエビの尾ひれに似ているから。
ここにもちゃんと七福神
さて、七滝も残すところあと一つだけれども、これ以上先に進むとバスの時間に間に合わないと判断しバス停に戻ることに。7つ目の釜滝は次来たときに取っておこう。
河津駅の前にも踊り子の像があった。
というわけで、このまま電車に乗って東京まで戻る。一通り行きたかったところはいけたので、次回伊豆に来るときは西伊豆の景勝地を巡りたいと思う。あと、漁港めしをもっと味わいたい。それでは。