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ぶらりくり -松本編-

 そんなこんなで立山黒部アルペンルートを通り無事長野県側に降り立ちました。このまま昔から行きたかった松本を観光しようと思います。


1日目

 信濃大町駅からは松本駅まで電車で来た。ここは米澤穂信の小説『追想五断章』の舞台になった場所です。

 

 バスが着いたのは、松本駅にほど近いバスターミナルだった。眠っていた芳光は、乗客の中で最後にバスを降りた。ステップを下りて外気に触れると、ふっと涼しい風が吹き、疲れが軽くなる。日は登っているのに、東京よりもずいぶん気温が低い。

『追想五断章』(米澤穂信)

 可南子の住所はわかっているが、まずは公衆電話を探す。木曜は家にいるとの言葉通り、電話をかけるとすぐに、可南子が出た。

『追想五断章』(米澤穂信)

 三十分あるならと、彼は駅の中でサンドウィッチを買って昼食にした。  ブルーの車で可南子が現れたのは、だいたい一時間後のことだった。

『追想五断章』(米澤穂信)

 来るときは、疲れや運賃を考えてバスに乗ってきた。しかしいまは、さっさと引き上げて引っ越しの準備を始めたかった。特急列車で帰ることにした。二階建ての駅舎をエスカレーターで上り、改札前で時刻表を睨む。次の新宿行きが出るまでには、まだずいぶん時間がある。

『追想五断章』(米澤穂信)

 これは散策した途中で見付けたよさげな橋。

松本市時計博物館

 古時計の研究者であった本田親蔵が収集した古時計が展示された博物館。外見が面白そうだったので入ってみることにしました。

 エジプトで発掘された紀元前1500年の日時計。日陰俸は「グノモン」と呼ばれ、この陰から昼間を一定の時間に分けた「時」を読み取る時計。

 こっちは同じ「ひどけい」でも「火時計」。物の燃える速さによって短い時間を図る時計。奈良の東大寺の「お水取り」は現在でも香盤時計が使われている。

 砂時計は水時計の改良品として古代エジプトで発明された。腐敗や凍結等の水時計の欠点が克服され、更には携帯もできるようになった。

砂時計 (スイス/20世紀)

 機械時計が発明されたのは13世紀終わりの北イタリアか南フランスの修道院と言われている。この頃の時計は錘の重力で歯車を動かす仕組みなので非常に大きくて高価だった。ここに展示されている初期の機械時計は18世紀オランダのもの。

初期の機械時計 (オランダ/18世紀)
フランス枕時計 (フランス/19世紀)

 近代から現代にかけて水晶発振時計や音叉式時計の発明により時計の制度は格段に進歩し、現在最も精度が高いセシウム原子と系の誤差は30万年~150万年に1秒という制度になった。

400日巻置時計 (ドイツ/19世紀)
マリン・クロノメーター (イギリス/19世紀)
鉄道用懐中時計 (スイス/20世紀)
八日巻置時計 (日本/大正)
金魚時計 (日本/大正)
文字盤回転時計 (ドイツ/19世紀)
グランドファザー・クロック (イギリス/18世紀)

夜ご飯 (松本山賊焼)

 夜ご飯は鶏肉をショウガやニンニクを利かせたタレに漬け込み片栗粉をまぶした郷土料理「松本山賊焼」を食べてみることにした。松本駅ビルの中に「松本からあげセンター」という非常にわかりやすい名前のお店があったのでここで鶏肉を食べることにした。ムネ肉とは思えないほどジューシー。

2日目

 2日目は松本市最大の観光名所と言っても過言でない松本城に行ってみることにした。

松本城

 松本城は深志城とも呼ばれ、歴代の城主は石川氏(1590-1613)、小笠原氏(1613-1617)、戸田氏(1617-1633)、松平氏(1633-1638)、堀田氏(1638-1642)、水野氏(1642-1725)、戸田氏(1725-1869)と移り変わってゆく。

 天守の1階は柱が立ち並んでいるけれども多くの柱に小穴が残っているため、柱の間は壁だったと推定されている。1階は食糧や弾薬などの倉庫として使われていた。

 天守一回の四隅には壁から張り出して下方に開口する構造がとられている。「石落」とよばれているが、ここから的に石を落としたり弓矢鉄砲を撃った。

 松本城天守の千鳥破風と入母屋破風には「かぶら懸魚」が取り付けられている。

 天守の二階は8室に部屋割りされており、有事には武者たちの営所に充てられていた。

 天守の三階は天守二重の屋根裏に設けられているので窓が全くなく、明かりは千鳥破風の木連格子からわずかに入るだけであり、当時は「暗闇重」と呼ばれていた。「外部からの遮蔽力が強いので有事には武者溜に充てられていた」という説もあるが、普段は倉庫として使われていた。

 天守四階。このフロアは天井が高くて採光もしっかりしているので広々としている。

 天守六階は3間の一部屋になっており、有事には城主の座所となった。松本市街が一望できる。

 窓の上方が尖ったアーチ形の「花頭窓」。禅宗寺院の建築に見られる形式で、元々は中国のデザイン。

 月見櫓。徳川家光を迎えるために増築された場所。月見櫓が現存するのは松本城と岡山城の2つのみ。

城山公園

 松本城を見学した後は城山公園に登ってみることに。お城からは歩いて30分くらい。

 画家・いわさきちひろの碑もあった。

 展望台もあるよ。

花さかり山は日ごろの朝ぼらけ

松尾芭蕉

ナワテ通り・中町通り

 城下町に戻ってきたのでついでの中心街であるナワテ通りと中町通りを見学。

お昼ご飯

 おひろご飯はクラシカルな店内が印象的な「レストラン鯛萬」に。使われている家具はすべて松本民芸家具。

深志神社

 お昼ご飯の後は町の南部を見学。深志神社は1339年に創建されてから城下町の鎮護の神として歴代の城主らに厚く敬われてきた。現代でも市民に愛される天神様として親しまれている。

あがたの森文化会館

 さらに歩いて「あがたの森」へ。文化会館は1919年に創立された旧松本高等学校の校舎をそのまま利用している。大正時代の代表的な木造洋風建築で国の重要文化財に指定されている。 

 これは『orange』に出てきたベンチ!

 あがたの森いいところやね。

珈琲美学アベ

 松本はレトロ喫茶の聖地でもある。というわけで小腹が減ったので喫茶店へ。バニラアイスとモカアイスと自家製のコーヒーゼリーがたっぷりのった「モカパフェ」はすごいインパクト。内装もレンガの壁と使い込んだ家具が調和していてまさにレトロ喫茶。

 中央西公園、別名花時計公園。

旧開智学校

 時間が余ったので町の北部にある開智学校に行きました。松本藩では藩校崇教館を整備して朱子学を奨励していた。近代になると崇教館は松本藩学、松本県学と名前を変え、1871年に松本を中心とした筑摩県が成立するとその翌年に筑摩県学が設置され、永山盛輝のもと学校教育の普及が一気に進んでいった。
 1873年5月6日に開口した開智学校は筑摩県学の校舎として使われていた元全久院の建物を校舎に利用していた。開智学校は開港当初っから英語課を設けて、筑摩県内ではいち早く英語の勉強に取り組んでおり、英語そのものだけでなく世界史や経済学などの内容を学んでいた。

 開校当時から1,000人を超える児童数がおり、県下一の大規模な学校として盛大な開校式が開催された。多くの学校に先生が1人しかいなかった当時、正教員だけで30人以上の先生がいたという。

 現在の開智学校がこっち。めっちゃ近代的!!

夜ご飯

 松本と言えばお蕎麦! 信州随一の名店が並んでいる松本瀬そばを食べないわけにはいかない! ということで御蕎麦屋さんへ。信州木祖村の玄そばを石臼挽きした二八蕎麦をいただきます。細めでコシが強い!

 芳光は腹に手を当てた。小腹が減っている。
「そういえば、そばが有名だったな」

『追想五断章』(米澤穂信)

 というわけでおそばを食べたらちょうど電車の時間が来たので東京に帰ります。北陸を2週間ほど旅しましたが楽しかったです。それでは~~~

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