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ぶらりくり -高岡・氷見編-



1日目

お昼ご飯 (1日目・お寿司)

 高岡駅に到着するや否や速攻でお寿司屋さんに駆け込む。お店はここ

 うますぎ。最近毎日寿司を食べないと生きていけない体になってしまった気がする。寿司を食べ終えると腹ごなしに駅前を散策。「銅器のまち高岡」を象徴する12体のブロンズ像が並んでいる。

 駅中には藤子・F・不二雄氏生誕80周年を記念して製作されたドラえもんポストがある。投函するとドラえもん記念消印を押してもらえる。これも高岡銅器でできてる。

高岡古城公園

 駅前を散策したら藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーに行ってみたかったので通り道の高岡古城公園を見学。この公園は水濠が敷地の3分の1を占める濠に囲まれた公園で、加賀藩2代藩主前田利長が築いた高岡城があった地。

 高岡城は1615年の一国一城令により廃城となるが、3代・利常をはじめ代々の加賀藩主が藩の米や塩を蓄える蔵を置いたりするなどして城跡のみは保存された。明治初期には分割して民間に払い下げられ消失の危機を生む買えたが、服部嘉十郎らの努力により1875年7月に公園に指定され。1965年には高岡城跡として富山県指定史跡となった。

 園内には無料の動物園がある。

 

藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー

 高岡市美術館2階には高岡出身の漫画家、藤子・F・不二雄氏の原画や愛用品を展示するギャラリーがある。オリジナルのショートムービーなどもみられる。

 毎日小学生新聞で手塚治虫の連載漫画が終了することを知り、その後を引き継ごうと新聞社に作品を送った藤子不二雄のデビュー作「天使の玉ちゃん」の原画も展示されていた。天使の子どもの玉ちゃんがなくした天使の羽を探して下界で元気に跳ね回る4コマ漫画。

高岡おとぎの森公園

 高岡の南の方に大きな公園があるらしいので行ってみることにした。高岡駅から上黒田まではバスが出ているのでバスに乗り込む。

 これは公園に行く途中に見かけたショウワノートの本社。ドラえもん学習長を作ってるらしい。

 高岡おとぎの森公園は花と緑の総合公園。めちゃ広い。

 ドラえもんのキャラクターが並んだ広場。

 ドラえもんの日時計。

 おもろい形の遊具。

 これは帰りに見かけたあまりにも良い踏切。好き。

夜ご飯 (1日目)

 夜ご飯は洋食屋さんへ。どうやら「デザートと家庭料理の店」らしい。

2日目

 2日目は氷見漁港周辺を見学に。以前寒ブリを食べに行きたいと言いまくっていたが行けてなかったので、いつか食べに行く際の予習も兼ねて。

 エイチョウ!

 漁港!!

朝ご飯 (2日目)

 朝食は魚市場食堂で海鮮丼と漁師汁を食べたよ。朝から贅沢だね!

忍者ハットリくんカラクリ時計

 湊川の橋は毎時間ハットリくんと仲間たちが登場する4分間のショーがみられるカラクリ時計になっている。

 喪黒福造のベンチ!

光禅寺

 藤子不二雄Aが生まれた寺。

 鰤に乗ってる忍者ハットリくん。

 藤子Aキャラクターブリッジ

唐島

 氷見漁港沖に浮かんでいる島。富山県指定の天然記念物になっているらしい。

お昼ご飯 (2日目)

 お昼ご飯は氷見の北の方にあるお寿司屋さんに行ったよ。

 あとこれは帰り道の時にひみ番屋街で食べた竹炭を練り込んだチョコレート味のソフトクリーム。

 この後は雨晴海岸に行こうと思っていたけれども次のバスの時間まで少し時間があったのでひみ番屋街の足湯にずっと浸かっていた。

雨晴海岸

 日本の渚百選に選ばれた景勝地・雨晴海岸!

 こういう駅のそばにある駐輪場がメチャ好き。

 海が見える踏切っていいよね。

海王丸パーク

 雨晴海岸には1時間ほど滞在。ここで高岡駅まで戻っても良かったんだけどもう少し富山の街を散策したかったので加越能バスで米島口まで行ってそこから万葉線に乗って海王丸パークへ。

 新湊きっときと市場。昼セリを見学できるらしいので今度は12時ごろに来たい。

「日本のヴェニス」と呼ばれている新湊の市街地を流れる内川周辺を散策。

光山寺

 富山でも指折りのパワースポットと呼ばれる新湊大仏と3,000体を超える仏像がみられる。

夜ご飯 (3日目・富山ブラック)

 高岡に戻り、夜ご飯は富山のソウルフード、富山ブラックをいただく。戦後に労働者のご飯のおかずとして濃い味付けの中華そばを作ったのが始まりとされていて、その名の通り黒いスープが特徴のご当地ラーメン。お店は高岡駅の側にあるらぁめん 次元

3日目

 3日目は午前中に高岡の見学しきれていないスポットを見学し、お昼には富山に移動する算段。高岡鋳物発祥の地である金屋街地区の街巡りをしようと思う。

 高岡は1609年に前田利長によって高岡城の城下町として開かれた。利長は当時の「関野」を『詩経』の「鳳凰鳴矣于彼高岡」から引いて「高岡」と命名し、武士とその家来562人を連れて入城。町人は越中・能登・加賀三国の藩内をはじめ、愛知・滋賀・福井・新潟・長野の各県から630人余りが集まり、利長は町人らに無償で土地を与え租税は免除とした。高岡開町当初の戸数は武士・町人とその家族併せて1,200個5,000人前後と考えられている。

高岡大仏

 高さ16mの大仏にしてはやや小さめの青銅製の大仏。奈良、鎌倉と並び日本三大仏と称される高岡を代表する観光名所らしいけど、町の名物としてはややさみしい気もする。源義勝が二上山麓に造成したのが造立起源と言われている。この大仏は元々は木造であったが1821年に焼失し、30年間かけて中野双山により高岡銅器で再建されたらしい。

金屋街地区

 千本格子造りの建物が並ぶ石畳の美しい通り。鋳物に関連した町のカルチャーを感じられる。もともとは二代藩主前田利長が城下の産業発展を図るために1611年に砺波群西部金屋から7人の鋳物師を招き、千保川左岸に土地を与えて鋳物づくりを行わせたのが鋳物の街の始まりといわれている。

高岡市鋳物資料館

 高岡鋳物発祥の地に建つ資料館。

 金屋町の氏社である有磯正八幡宮

 コークスを燃料とした金属を溶かすための炉、コークス溶解炉。坩堝の周りにコークスを配置し、底部の通風孔より送風して燃焼効率を高め、坩堝の中に入れた地金を溶解する構造で、現代でも使用されている形式。溶解炉はこの他に「甑炉」という煙突状の構造に燃料と地金を交互に投入するタイプも存在する。

 海水を煮て塩を得るための釜、塩釜。3代藩主前田利常の時代には能登における製塩事業を藩が管理するようになり、能登中居で製造された塩釜を藩が買い上げ製塩会社に貸し付けていた。しかし、底を浅く改良した高岡製の塩釜が進出すると熱効率が良く軽くて丈夫であることが評価され、製塩業者は競って高岡製を使用するようになった。このため、藩も江戸時代中期以降は高岡製を使用するようになった。

 ニシンを加工して肥料を作るために使われた鉄釜、にしん釜。高岡では江戸時代から昭和にかけてにしん釜が大量につくられ、北前船で北海道に運ばれた。北海道では当時ニシンの漁獲量が多く、「ニシンカス」と呼ばれる肥料づくりが盛んであった。北海道と富山は北前船でつながれており、にしん釜はその交流を物語るものの一つである。

 梵鐘。実は梵鐘製造の高岡のシェアは90%もあり、梵鐘づくりの名人と呼ばれた7代目老子次右衛門がその基礎を築いたとされ、高岡銅器を代表する製品の一つとして全国的に周知されている。

 金属の精錬や溶解、加熱に用いる火の熱量を高める送風機である「鞴 (ふいご)」。機密性の高い箱の中でピストンを手動で往復させて風を送り出すという仕組み。同様の機能を備えるもので足踏み式のものは「蹈鞴 (たたら)」とよばれる (「もののけ姫」に出てきたあれ!)。

 2代目藩主前田利家の愛用した兜、「銀鯰尾形兜」の再現。

 弥生・古墳時代の青銅製の銅鏡を再現

 蹈鞴の踏み板。両端を交互に踏んでシーソーのように動かして風を起こす。

 資料館の近くには「高岡鋳物発祥の碑」がある。

旧南部鋳造所・キュポラ煙突

 明治末期から有力な鋳物師らが近代化を競い次々と建造したのがこの新式溶鉱炉。新式溶鉱炉では木炭よりも高熱を得られるコークスが使われるようになった。
 キュポラにコークスと地金を入れて着火し、煙突の基部の送風口から風車で風を送る仕組み。風は煙突の中に通された鉄管を通ってキュポラに入り、コークスで熱せられた煙がキュポラ上部から抜けて煙道を通って煙突から排気される。排煙は鉄管を通ってキュポラに至る風を熱しながら煙突から出ていくため熱効率が増す仕組みになっている。

 与謝野夫妻の句碑もあったのはうれしい誤算。

山町ヴァレー

 文具商であった旧谷道家をリノベーションした飲食店などの入っている商業施設。山町筋地区には明治から昭和初期に建てられた蔵造りの商家などレトロ建築の魅力が詰まっている。

 これは高岡駅方面に戻るときに見かけた好きな街並み。

 片平町商店街というらしい。良き良き

 というわけで、高岡市観光は以上。この後はあいの風とやま鉄道に乗って富山に向かいます!

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