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ドビッシーはゆるキャラか

昨日の土曜日の朝放送されていたミネアポリス空港の街角ピアノで誰ぞがドビッシーのアラベスクを弾いていた。この曲を最初に聞いたのは冨田勲のシンセサイザーだった。そのせいか、宇宙空間のイメージでパピプペポの音がピアノよりあっていると思ってしまう感覚はなかなか覆らない。出会いの影響はこういうかたちであるのかもしれない。ドビッシーというゆるキャラがいなかったかな、と思ったら、ふなっしーだった。
昨日22日は亡き父の生誕90年だった(最後に迎えた誕生日が平成22年2月22日だった)のだが、とある川柳会の創立者(初代代表)なので、それにちなんだ記事があるかとウェブサイトを見てみたがそれらしい記事は無かったが、サイトの体裁がかなりマトモになっていて感心した。独自ドメインも取って公式ホームページ然とした。それはそれで良いのだけれど、句や文の質はどうかというと、特に言わないでおく。
ところで、投稿というかコメントというか、私のXでの発言に反応される方がいつもより多かったのだけど、税金についてちょっと考えることがあったのでメモる。
税金は基本的に収入か支出か保有かどれか3種類にかかるものなんだけど、公平って、何をもって公平というのかな、という素朴な疑問が湧いてきて、例えば累進だとか逆進だとかそれを根拠のように主張している人が多いけど、累進税制って公平なのか?稼いだ金は何に使おうと勝手だし、使おうと貯めようと勝手なのに、昔の日本の極度の累進課税のように9億円納税して手取りが1億という税率は、「お前は1億も手元に残るんだから十分だろう」という自由のお仕着せに見える。公平なのか?「収入の多い者からより多くの税金を取る」というのがかつての「公平」だった。
また、消費税を代表とする支出にかかる税金は、支出だけでも痛いのにさらに税金を上乗せされる理不尽な税金だと見られがちなんだけど、本当にそうか?税金は何のために納めなければならないかというと、支出できない人々を救うために使う金を集めるためで、消費税は一般財源だけどその主な用途は社会保障のために使われている。高齢化で社会保障費が膨らむので、みんなで助け合うために納税するのだから、買い物ができる人すべてが少しずつ負担してそれを集めて買い物ができない人を助けるのが消費税だから、生活に余裕があろうがなかろうが、一定の行為(購入という行為)に比例して納税する仕組みは公平だと思うんだけど、ちがうのかな。「高所得者と低所得者では余裕率がちがうから、消費税の負担感が異なり不公平だ」と主張する人はあるけど、収入の高い低いの違いがあるのだから、消費税に限らず食料を得るにも、衣類を得るにしても、住居を確保するにしても、その費用は低所得者のほうが負担感が高いのは当たり前のことで、余裕を持ちたいなら収入を上げる工夫と努力をするしかないのであって、働けない人を助けるための互助会費なのだから収入に対して負担割合が高いとか、関係ない。消費税は消費しないものにまで課税されないのだから、無駄な消費をやめて節税したら良いではないか。
たしかに収入の多寡は運によるところが大きく本人の努力ではどうにもならないのだけど、せっかく努力して工夫して収入を増やしたのに、努力したほうが多額の納税を強いられる所得税や法人税の仕組みのほうが、よっぽど不公平ではないか。努力した人ほど罰をうけるんだから。
いずれは少し整理してから書こう。

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