確かめない姿勢で
これは自己紹介としての物語です。
老婆のような顔をした柴犬が通りの向こう側で信号を待っている。隣にはバスローブ姿の裸足の女が立っていてその女がトイレのバッコンで柴犬の頭を固定しているから、印象としては女が犬の飼い主であるような感じがこの風景にはある。犬の表情はバッコンの圧力で頭皮にシワが寄りそのせいで老婆のように見えるのだけど、やっぱり犬は犬だから老婆ではないはずで、しかしそのことを確かめるには距離がある。女が犬を支配しているように見えて犬が女を支配していることはよくあることだから、どちらが飼い主なのか、どちらがほんとうの老婆なのか、確かめるすべがない以上、決めつけるのは危険なことだと思った。
少なくとも今は女と犬のあいだに主導権争いは感じられない。もう何日もわたしはここに立って女と犬、犬と女を見ているが、絵画のようにまったく動きをみせない時間がこれでもかと続き、その状況とそれを観察しているわたしはもはや異常といってよく、散歩の主体はどちらなのか、そもそも見えている風景がほんとうに散歩の一場面なのかについて考え続けている。
しかし尿意やマーキングという野生の本能まで封印して動かずにいることなどできるものだろうか。女と犬、犬と女は目の前に広がる世界に圧倒されて、あるいは生きることに絶望して硬直しているのかもしれない。たとえば森の湖畔の静寂に暮らす一頭のカモシカがある日突然渋谷にやってきたとしたら、環境への驚きから尿意やマーキングを忘れることはあるだろう。同じようにわたしが森に迷いこみ、湖畔で美しい佇まいのカモシカに出合ったとすれば、その神々しさに尿意はおろか体にそんな仕組みがあったことすら忘れてしまうにちがいない。とはいえ、わたしを含むこちら側の風景は美しい森の湖畔でもカモシカでも渋谷でもないはずだから、女と犬、犬と女が動かない理由はきっとほかにある。わたしとはまったくちがう価値観や精神状態でこちら側を見ているか、そもそも何も見ていないということだってあり得る。どれだけ考え続けても女と犬、犬と女の思いを確かめることはできない。何か特別な事情によってそこに立っているのかもしれないし、何らかの使命を帯びている可能性だってある。ただの思いつきだとしたらそれはもうわたしの手には追えない深刻な事態で、この通りのすべてが現代アートの範疇にあるのかもしれない。
このまちに引っ越してきて35か月。月契約のグミ工場で昼勤務と夜勤務を交互に更新するうちに1年という単位がよくわからなくなった。このまちに鏡がないと知ったときはうまれていちばんの驚きをみせたつもりだけど誰もわたしのことは見ていなかった。勤務先の工場や借りているアパートだけでなく、商店街の古着屋や美容院、墓地や銭湯にも鏡は存在しない。確かめないまち。引っ越してきた日にそう刻まれたゲートをくぐったような気がするけれど、検問所の芝生に寝転んでいた少年兵が自動小銃をもてあそぶ姿ばかりが気になって、そのときの記憶は今も震えたままよく思い出すことができない。そもそもあのゲートに文字が刻まれていたとしても、きっと内側からは確かめられないだろう。そういうまちにわたしは暮らしている。
ゆうべの雨がつくった沼のような水たまりにくし切りのれんこんが死んだ鯖みたいに浮かんでいて、その美しい背にのったチョコレートがあたたかい陽射しで溶けはじめている。春ですよね。ちがいますか。わたしの問いかけに応えるひとはどこにもいない。ここは確かめないまち。確かめられないまち。女と犬、犬と女は通りを渡る気配を一向に見せようとしないけれど、もうすぐ信号は赤に変わる気がする。もちろんそれはただの予感で、予感の大部分はプロパガンダよ、と姉が主治医のような小声で夕方になるとつぶやいていたあのころを思い出す。そう。姉はわたしの主治医といい感じだった。姉と主治医はよく似ていて、わたしはどちらが姉でもいいと思っていた。元気だろうか。主治医。
不意にわたしはわたしの姿を鏡で見たい。確かめたい。そうなふうに思ったけれど、握っているトイレのバッコンが小さな猫の頭に繋がっていてとても動ける気がしなかった。この小さな猫は今どんな表情をしているのだろう。そしてわたしとこの猫はどんな関係にあるのか。通りの向こう側で信号を待っている女と犬、犬と女にそのあたりの印象を聞いてみたいのにかける言葉が浮かばない。ふさわしい声量や表情もわからぬままわたしと猫は、猫とわたしは動けないでいる。(了)
たとえばこんな物語を生活の端々で書きながら過ごすのが好きです。次々に逸れていく思考に身をまかせるときと抵抗するときがあります。ここには新作旧作リライトしたものなどを静かに並べていこうと思っています。トイレのバッコンは正式にはラバーカップというそうですが、わたしは堀部未知と申します。野良です。どうぞよろしくお願いします。
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