変わろう、変われない、その間の言い訳
午前一時。
やってしまった。また、昨日とおんなじ僕だ。
いたずらに寿命を減らした。ただおもむろに何かを感じていたいだけの何かしらの荒び。
ほんとに昨日と同じ、昨日の午前一時だ。
今日はダメだ、明日頑張ろう。
そしてまた今日が始まる。
ぐるぐる回っている。回っている間にねじ切れて、どこかへ吹っ飛んでいかないかと思う。
そんな後悔の中で、何かしら自分に言い訳をしようと思案を巡らせるのもいつも通り__
午前一時の反対とは午後一時か?
かもしれない。
時間は反対にならない?
なる。たぶん。物事には表と裏があるから。
ただ、時は一過性で不可逆だろう。
知っているだろう。
ただ、なんでか僕は繰り返しの中に生きている感覚。
時計に騙された。丸く、元の場所に戻る。
昨日と同じような、憎い自分がまるで、丸で抜け出せないように囲まれている。
数字だけを表すものでも、丸と同じ退屈さ。むしろもっと気味が悪い。
皆が従うその尺度は、ひとまずの便利性のもとに設置されただけと。
何かしらの不便も伴う。物事にはすべて表と裏がある。
時間は物事だから、表と裏がある。時の本質はたぶん違う。
囲まれた時間の中に、自分もとらわれていき、何度も、同じようなものが繰り返される錯覚に陥る。
昨日なんて物事も、明日なんて物事も8/22なんて物事も、2021というものも、ただの便利で。
そんな物事はどこにもない。でも、その一つ一つの尺度は、生み落とされて放置される赤子のような残酷なものであるよ。かわいそうだ、使ってあげる。
そういえば、昔から、誕生日で騒ぐ人が不思議だ。保育園のとき、誰かの誕生日と言って、皆が祝う。
やはり気味が悪かった。
その時の誰かが中心な感覚は僕も自覚したことがある。信仰というのは恐ろしいなと、感じた。
改まって区切るのに、なぜかまるで丸いような気がする、
時は、一過性だろう。表も裏もないものだ。
足すことはない。
どこからか始まり、一線に伸びて、各々止まる。集まるとちょうど、波のように。
当たり前のことが反映されない時計に意味はない、昨日と同じ憎き自分なんてものは昨日ごといない。
線は、ただただ、伸びるだけ。前しか向かなくていいんだよ。
そうだろう?
__そんなことを考えて、また、明日も後悔を重ねる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?