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運命は、糞だ
午前一時。
仕事が僕の頭の暴走の舵を切ってくれる。一つの完全を決めつけ、それを再現するために、つながりある不完全の連鎖を敢えて認識して作っていくのは心地いい。方向が決まれば考えなくても進み進む済むなんて、極楽だ。
でも、さっき終わった。地獄の始まりだ。方向なんて決まってない宙ぶらりんの空っぽを適当に振り回して。僕はまた結局言い訳を始めるんだ__
人生の意味なぞ存在するか?
目線が宇宙の外側になると、人生は、結局というのがあるなら、無意味だ。結びは局。部首は屍。すなわち無。
地球もいつか終わるし、太陽もいつか終わるし、宇宙も終わる。
すべての事実はなかったことになる。そういう意味で存在しないと断言する。
ただ、一人の人間の目線で見ても無意味かというと、そうではない、と思いたい。
死んだ人は確かな意味を僕に見出させた。もしくは僕は見出した。
死んだじいさんばあさんも、中学生の時に脳出血で突然死んだあの子も、半年前に自殺した先輩も、今死にそうなじいさんも、僕を意味される。もしくは意味する。
そして、これを読んだあなたがいる限り、また意味するでしょう?
そう考えると、はるか外側の遠くの時間から見れば無意味だろうが、僕と僕の付近の人には、ある意味、意味なので、満足を覚える。
ただ、意味は、自分で決めるものだろう?
だから、運命とは、違って。さらに言うと運命ってのは大嫌いで。
自分が自分に、「これは運命だ」というのは、畢竟それは意味なのだ。だから嫌いではない。
しかし、他人から別の他人に「これは運命だ」ってのは、つまり、他人から見た妥当性の最もなこと、だと。腹の底から憎い。その他人から見た妥当性のもっともなこと、は気持ちが悪いので、嫌い。
身の程、身の丈、というのも同じく嫌いだ。
何か特別な力がその運命にあり、変えられない定められたものだとしたら、残酷すぎやしないか。例えばそれは生か死だ。ほら、どちらも嫌か、嫌そうだろう?糞だ。
自分で決めたこと以外は糞だ。
僕は自分で決めて生まれてきたわけじゃない。糞だ。
僕は死にたいと思って死ぬわけじゃない。だから糞だ。
自分で決めたことは意味だ。宝だ。
決めさせられたことは、受動的能動だ。いわゆる運命だ。糞だ。
糞の箱の中に宝と糞を敷き詰めて、忙しなく糞の中を走り続ける。それが人生だ。糞まみれなこの世界のせいで結局宝も糞の一部になっちまう。
糞の中から誰かが宝を掘り起こしても、そいつも糞まみれだ。糞がどんだけ頑張って宝を集めてきれいにしたって、結局、みんな吹き飛ぶんだ。すべての事実はなかったことになる。
救いようのない運命ってのはこういうことだ。
__おもむろに僕は部屋から出て、空を見上げた。想像を、遠くに、遠くに飛ばして。ビックバンの先を超えたいと。目を凝らした。誰かいてくれないか。宇宙の外側にあなたがいるのなら、運命があってもいいのだが。