欠けている、と感じるか
午前一時。
最近少し、本を読んだ。だから、少し、賢くなった気がする。自分じゃないものを取り入れたから。傍から見れば、自分から発さない限り、変哲もないただの僕だというのに。
そしたら、話す相手のいない僕にとって、それはまた無駄な時間な気もした。そうしないために、また僕は必死に言い訳を探す___
僕には、手が2本、足が2本、目が2つ、耳が2つと、いった具合に構成されている物体だ。おそらく、そういう物体は多い。そうじゃない物体もいる。物体の分類として人間に属している僕は、その分類の中で一般的で、欠けたものがない物体だ。
何も不自由がないだろう。なぜなら、自由の範疇が自分の身体によって制限された範疇の中でを満たしているからだ。
そして、僕が腕を失ったり、足を失ったり、声や音や光を失ったすると、欠けたと感じるだろう。知っている自由の範疇を知っていて、それが狭まったから。
制限の範疇と自由の範疇がイコールにあるとき、不自由ないと思うわけか。
でも、
僕は、いろんな物体にあこがれる。ほかの人間にも僕のように、もしくは憧れる人は当然いる。
空を見上げて、僕にはなぜ翼がないんだろう、と欠けた気になる。
僕にはなぜ、腕がもう一対ないんだろう、と欠けた気になる。
なるほど、自由の範疇は外からの影響によって広がるわけだ。そして制限の範疇は変わらない。途端に不自由だ。
自由を感じる、それは、ただの無知にすぎないのかもしれない。
自由の範疇は、外からの影響で広がる。詳しくは、目で見た、耳で聞いたことを記憶し、想像することで広がる。
でも、僕という物体は結局そうでしかないから
翼が生えていないことを悔やみ続けることは難しい。欠けている感覚を常に保つのは、つらいことだから。腕がもう一対ないことも、同じだ。
僕は幼いころ、生まれつき耳が聞こえない人に、「耳が聞こえないってどんな感じなん?」と書いたことがある。その人は、「普通」と書いた。
「そっか」と書くと、「でも、不便」
「やっぱ不便?」と書くと、頷いて「僕に便利なように、普通は作られてないから」と。
「耳が聞こえるようになりたい?」と書くと、強くうなずいた「でも、別に。鳥を見て、自分に羽がないからって、嫌じゃないでしょ?」
その人は、「ダイジョウブ」と、言ったんだ。
その人は、クラクションが聞こえずに 、 。
人間の普通というのは、そういうように作られていると、知った。
その人は、人という物体上の分類だったから、その分類の上で、生きてくしかなかった、ことを、悲しく思った。物体はただの物体だと理解して、文化も文明もなければよかったと、心底普通と過去を恨んだ。でも僕はその普通に加担していた。便利を感じて、今もこうして、人間の普通に加担し続けて。許してくれ。人間の普通という自由の範疇と制限の範疇の歪さを。
鳥に、翼があるってどんな感じ?
魚に、水中で息ができるってどんな感じ?
木に、ずっとそこにいるってどんな感じ?と聞いても、
みな、「普通だよ」と鳴くか、泳ぐか、さんざめくだろう。
それは、その物体が鳥に分類されたからでも、魚に分類されたからでも、木に分類されたからでもなく、その物体が、その物体だから。
でも、そして、また、人間の普通に轢かれていくだろう。許してくれ。そう思いながら僕はまた、その普通になるわけだ。せめてもの償いに笑って生きたい。いや、それは償っていないか。ただの自己中心に帰結するか。
なら、せめて、笑わずに生きてくよ。
無知の知という言葉がある。ソクラテスは嫌いだが、この言葉は好きだ。
それは、知識、という概念、という無限、の中で、 自分の知識、に対する知識、の自由、の範疇が広がっているけれど、制限の範疇とはイコールになっていない、と知っている、状態のことだ。
物体と違い、制限の範疇を広げていける。だから、知識がない、ということを受け入れてもいいが、受け入れなくてもいいという、奥行という意味での自由がある。
自由の範疇が広がらないなら、制限の範疇も広がる余地は当然ない。
それが、問いだ。
知識では、私は鳥に憧れ、空を飛ぶこともできる。魚に憧れ、水の中で息を吸える。木に憧れ、ずっとそこにいられる。また、あなたと書くこともできる。話すことだってできるさ。
だから、影響が必要なのだ。広げろ。
そうやって私は、また本を読むだろう。広げろ。
あの人や、あの人や、あの人を思い出し、捉えなおすだろう。広げろ。
誰かに会いたいと思うだろう。知らない人をよく観察するだろう。広げろ。
あなたは、ここまで見てくれたんだろう。
また欠けさせないと。
____僕は大きく伸びをした。体が軽くなって、空を飛べる気がした。高揚していた。困ったな。また眠れないや。でも今日はそれでもいいと思った。
イラスト:ノーコピーライトガール、さん
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