新たな年の朝、厳冬
歳を重ねていく毎に、人というのは、何かしらの習性が、性格という周りに肉付いていくようになるらしい。
私の場合、年末年始や、何か物事の一区切りの後には、下記のことを行う習性がどうやらついていたようだ。
①可能な限り、人生においてこれまでお世話になった人や、思いついた限りの人の顔を見にいく。
②生まれ育った故郷の息吹を感じることができる場所に1人で訪れ振り返る。
③②の後にこれからの理想をざっくり想像し考える。
①について、これは可能な限り継続してきたが、ついに、どこぞのアーティストの東名阪ツアー並みの巡業を要する規模になってきたな、と今年思い至った。
連絡すれば済む話ではあるが、やはり会って、顔を見て、直接対話することで源の様なパワーを頂いたり、自分の現在の立ち位置を確認し客観視することができたり、相手の視点から教示頂けるというものだ。
そして、期間を考慮せずとも、今まで出会ってきた人を振り返ると、やはり、何一つとして、無駄な出会い何ぞは一つもなかったし、むしろ、感謝でしかないのである。
皆、その人しか持ち得ない視点や考え・感覚・表現というものがあり、それを少しでも他人である私に顕し、少しの時間でも共有してくれることは何にも変え難く、また、時間が流れた後も、その人自身が新たな時間を過ごしていたことを話してくれる時が訪れる。
これほど有り難く、素晴らしいことがあるのだろうか。
最近は、時間をいかに効率よく使うかということを重視しすぎて、その時間を費やした物事の密度というものが薄くなりがちである。
更には、安価で代替可能な物が溢れかえっている。
ワンタッチでお金を出して購入することができる優れ物があることで、時間もお金も物も消費している。
何かしらの形で、自分が大切にしてきたもの・していきたいものを、何かに還元もしくは生産する為の代替にならないかと、外気との温度差で窓に霜がつく朝に外を見ながら考える。