連想ゲーム
赤と言ったら『りんご』!
オレンジと言ったら『みかん』!
少年漫画実写化と言えば『〇〇〇人』氏!
くらいには、私の脳内は常に連想ゲームが行われている。
私の中で、年末=クリスマスくらいには、年末=有馬記念の方程式が成り立ち始めている(競馬はしたことがない)。
競馬と聞くと連想する人物がいる。
およそ1年半ほどお世話になった方である。
連日、競馬を連想させる広告を目にしたり、会話を耳にしたせいで、その人に会いたいという気持ちが強まり、耐えきれず、会いに行った。
すると、その当時の風貌と変わりすぎて「なんかあった?」と聞かれてしまう始末である。
髪色が青であったとて、失恋が理由であるという安直な私ではない。
私自身は髪型くらいの変化で、会いに行った理由はシンプルに『会いたくなったから』だけの何でもないのである。
ひとつ言うがここにはリスペクト以外の感情は持ち合わせていない。
この、連想ゲームから始まる『ああ、会いたいな…』と思わずの吐露に近い気持ちは、私の中ではとても大切で、何とも代え難い気持ちなのだと気づいた。それは、紛い物ではない、いちご100%ならぬ、純度100%の気持ちだからである。
これまで、幾度となく転機が訪れ、その度に環境を変え、その度に、ここ近年の夏から冬にかけての気候変動の様に精神の激しい移ろいに悩まされてきた。
思い起こせば、その転機に際して、私は確かお世話になった人を思い起こし、本能のまま会いに行き、パワーをもらい、次のステップに踏めたのだ、と。
毎回、会いにいく理由はシンプルで、『会いたい』。
かつそこを追求すると、おそらく『元気かどうか知りたい』、『あの人らしさにまた触れたい』というところだと気づいた。
そして、会って『ああ、この人の"らしさ"は変わっていないな』と感じたいのだ。
ある種のコレクターの様に私の中では、皆それぞれの個性が記憶されている。
そして、それが何より自分にとって、代替の効かない存在であることを理解している。
その人と交えた会話や時間は、過去で絶対的に不変的で、更にそこで築かれた関係性も修正や後付けができないからだ(自分の記憶は塗り替えられても、相手の記憶までは塗り替えられないだろう)。
そして、その存在がこの世界で唯一無二であることも泣きたいほど理解している。
偽善者もしくは当然の様に思うかもしれないが、私は、逐一、どこであった『誰それ』は、その人自身以外なり得ないのだと感じている。
故に、その人が『その人自身であること』を認知すると、最近は涙腺を緩ませることすらある。
それほど嬉しいことはないからに決まっている。
そして、その人自身であり続けている人と、出会って時間を経た後も尚、会って話ができること自体に感謝と嬉しさで感極まることがあり、この繰り返しが私の人生の楽しみかつエネルギーになるのだなと、夜道歩きほくそ笑みながら思った次第であるので、ここに綴る。
久しく飲んでいなかった日本酒を、ここで飲むんだ!と意に決して、電車でうつらうつらしながら向かい、久しい顔ぶれを眺めながら飲む日本酒はとても美味しかった。
短期間でこういう楽しみができる場所が少しだけ増えたことがとても嬉しい。
そして、人混みやうるさい場所は嫌いだけれど、東京という楽しく、個性あふれる場所を離れること自体に少し寂しさを感じた。