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風のように去ったアルゼンチン人ボスとの思い出
「日本にいないエッセイストクラブ」とは?
世界各国に住む物書きがリレーするエッセイ企画です。これまでの記事は、こちらのマガジンをどうぞご覧ください。
2巡目の今回のテーマは「忘れられない人」です。記事の最後には、前回走者と次回走者の紹介をしております。
「やあ、君が噂の日本人だな。俺と一緒に働いてくれよ」
出会って3秒くらいだろうか、とにかく数秒でマルセロは僕をスカウトした。
マルセロは40歳近い男で、マット・デイモンによく似ている。本人が言うには、映画『テッド』の熊の相棒の男に似ているそうだが、あまり大きな違いはない。
彼は車修理工場を一人で営んでおり、一緒に働いてくれる相棒を探していた。
「どうして僕なんですか?車の修理経験がなければ、運転さえできませんが」
「日本人は車に強いだろ。俺はアルゼンチン人を信頼してないんだ。奴らは遅刻と無断欠勤が多いくせに、退勤時間はきっちりと守る。でも、日本人は働き者と言うじゃないか」
「まあ、めったに遅刻はしませんけど」
「ほら!数年来のアルゼンチン人よりも、俺は初対面のお前の方を信頼できる」と言いマルセロはガハハと笑った。
それでも僕は彼の提案を断るつもりだった。日本人だから車に詳しい、そんなわけない。日本人全員が車に精通しているのではなく、単純にトヨタや三菱がすごいのだ。だが、マルセロの次の言葉が僕の意思を変える。
「給料は1万3千ペソ支払うぞ。できる仕事が増えてきたら、給料も上げよう」
当時の僕は地元の園芸店で働いていたが、給料に不安があった。インフレのせいで物価が上がる一方、僕の給料は働き始めた1年前と全く同じだった。そのため、僕達はぎりぎりの生活を送っていた。
でも、今マルセロが提案した最低賃金は、当時の僕の収入の2倍以上。これだけあれば、妻と息子も少しは楽な生活を送れるし、家にワイファイをつけて、毎週日本の家族にテレビ電話することもできる。
「分かりました。明日、園芸店のオーナーに辞めることを伝えてきます」
マルセロはパンッと一回手を叩き、僕達は力強く握手を交わした。
*
新しい職場は、コンクリート作りの小さな工場。毎朝9時に出勤すると、僕はライターで暖房に火をつけて、マテ茶を準備する。
初めの頃、僕が作るマテ茶は渋すぎて、何度も作り直しさせられた。僕が初めに学んだのが、車の修理技術ではなく、美味いマテ茶の淹れ方だった。
マテ茶の準備が整うと、マルセロは隣で働く3人の大工を呼び、共にトルタ・フリータ(揚げパン)やファクトゥーラ(菓子パン)を食べる。
「彼は日本人で、今日から働くことになった。シュン、これは俺の兄貴ゴメス。こいつは大工の棟梁で、隣で家を建てている」
僕は3人と握手を交わした。ゴメスはサングラスを外し、じろりと観察するように僕を見ている。
「よお、なんでアルゼンチンに来たんだい?」坊主頭で太っちょのゴメスは、見た目通り口が悪い。
「えっと、妻と一緒になるためです」と答えると、みなが笑い、誰かが口笛を吹いた。
「こいつはやばいな!女と一緒になるためにアルゼンチンまで来たのか!シュン、ここの女たちと幸せな関係を保つ秘訣を知っているか?」とニヤニヤしながらゴメスは言う。
「分かりません」
「セックスだよ。どんな手を使ってでも、喜ばせるのさ」とひそひそ声でいい、一同は笑いに包まれた。笑いが収まったころ、マルセロが真剣な顔をして言う。
「シュン、でも本当だぜ。昔、理容師だったんだが、俺を神父かなんかだと勘違いして、客はペラペラと何でも喋るんだ。旦那が下手で、浮気してる奴もいたんだ。それも一人じゃないんだぜ。なにより、こいつが元カノに浮気されたのが証拠さ」
再びみんなが大笑いした。彼らは、これまでの人生で出会ったことのないタイプだった。粗暴で口も悪いが、僕は彼らを好きになった。
*
仕事に関して、マルセロはとても厳しかった。どうやらアメリカ合衆国で過ごした数年が、彼に大きな影響を与えたようだ。
アルゼンチンが財政破綻してすぐ、マルセロは家族を残して、単身アメリカ合衆国へ渡った。いわゆる出稼ぎだ。
「英語も一切話せない、ゼロからのスタートだった。だから、お前の立場は良く分かるよ。仕事さえ見つけるのに一苦労したんだ」
僕も同じだった。履歴書を送っても返事は一切返ってこない。毎日、自転車で手当たり次第、「仕事はないか」と尋ねまわり、断られる日々。
最初は心が痛んだが、痛みも次第に慣れていく。断られても痛みを感じなくなった頃、園芸店での職を見つけた。
「ようやく車修理工場で職を見つけたんだ。自分で車修理したことはあるが、しょせんアマチュアだよ。遅刻や技術不足が原因で首になる同僚がたくさんいたし、昔は俺も時間にルーズだった。でも、仕事を失わないため、生きるために変わったんだ」
車修理は僕にとって未知の領域だった。まず専門用語が一切分からないから、スペイン語で車のパーツを学ぶ必要があった。毎日帰宅してはスペイン語学習、出勤前の一時間はユーチューブで車修理や塗装に関する動画を見た。
「お前には感心するよ。ちゃんと勉強して、遅刻もしないで働いてくれるからな。ずっと一緒にいてくれよ」
「はは、ずっとは難しいかな。まあ僕は真面目だからね」
「まじゅめ?どんな意味なんだ?」
「えーと、トラバハドール(働き者)やシンセロ(誠実な)、コンフィアブレ(信頼できる)とかかな」
「最高にクールな単語じゃないか!俺もお前もまじゅめだ!」
僕とマルセロは初めから真面目だったわけではない。日本にいた頃は、仕事と真剣に向き合わなかったこともある。それは僕が日本人であり、仕事を見つけるのは、それほど難しくなかったからだ。
でも、外国人になると違う。一度捕まえた仕事とは、真摯に向き合い、絶対に手放さないようにしなければいけない。外国人としての経験が、僕とマルセロを真面目にした。
*
ここは職場環境が良かった。すでに述べた通り、毎朝の朝食に加え、参加自由の毎週日曜日のアサド(炭火焼肉)、家族の誕生日の休暇、数時間のシエスタなどなど。とりわけ、僕の心を惹きつけたのが卓球である。
マルセロは台を工場に置くほどの卓球好き。仕事がひと段落すると、音楽をかけながら卓球をする。リフレッシュするために、ひたすらラリーを続けることもあれば、真剣勝負をすることもあった。
「シュン、お前はこれまで雇った奴の中で、トップクラスに卓球が上手だ!これまで29人雇ったが、俺に勝った奴は2人くらいかな」とマテ茶をすすりながらマルセーロは言う。
「嬉しい言葉だけど、疑問もあるなあ。君は29人も雇ったのかい?今の仕事を始めて、どれくらいなんだ?」
「合衆国から戻ってきて、最初の数年は理容師をしていたから、6年くらいか」
「なるほど、一年で約5人のペースなんだ」
僕とマルセーロは約3か月ほど共に働いた。そう、車修理の仕事はたったの3か月で終了し、僕は記念すべき30人目の解雇者となってしまった。厳密に言えば首にさえならなかった。
いつもの通り、工場に向かうと、あるはずのマルセロの車がない。アルゼンチン人には珍しく、時間厳守のマルセロが遅刻するのは珍しい。3か月で初めてのことだった。電話をかけてもつながらない。
それは6月の冬の寒さが肌を突き刺す冬のことだった。僕は忠実な犬のように彼を待ち続けた。1時間以上待ってもこないので、一度自宅に帰った。しばらくして再び戻っても、大きな工場の扉は閉まったまま。午後の仕事が始まる4時30分に向かっても、マルセロはこない。翌日も、翌々日も、一週間後も彼は来なかった。
仕事を失ったショックはあったが、それほど驚きもしなかった。数日前から、なんとなく違和感があった。隣で働くマルセロの兄ゴメスは、家の完成間近になっておそらく2人の大工に別れを告げていた。ゴメスは黙々と一人で働き、家を完成させた。
異変があったのはマルセロも同じだ。マルセロは真剣な面持ちで僕にこう尋ねた。
「シュン、お前はこの仕事が好きか?ずっとこの仕事を続けるつもりはあるのか?」
僕の答えは決まっていた。ノーである。マルセロが6年間で29人首にした話しを聞いてから、いずれ僕も首になると分かっていた。確かに同僚に問題があったのかもしれない。だが、3か月共に働いてみて分かったが、マルセロは一人で仕事をするタイプの人間だ。
彼は人の手助けなどいらない。仕事量も多くはなく、器用なマルセロは一人で何でもできる。別に人を雇う必要はないのだ。おそらく、彼は孤独が嫌だから、人を雇ったのだろう。それとも、一人でマテ茶を飲みたくなかったか、卓球相手が欲しかったかだ。
あの日以来、僕は将来について考え始めるようになった。マルセロと働くのは楽しいが、車修理や塗装が好きか問われると、好きではない。
「正直に言うと、ずっとこの仕事をするつもりはない。今はプログラミングとか勉強していて、将来は自分で働けたらと思っている」
「そうか。それならよかった」とマルセロは優しく笑い、僕の肩を強く握った。それはマルセロと過ごした最後の金曜日の出来事だった。
僕達はいつものように安ビールを飲みながら卓球をした。1時間以上も熱中し、最後に勝利を収めたのは、マルセロだった。
遅くなったからとマルセロは車で僕を自宅まで送ってくれ、車の中で僕に少し早い給料を渡した。
「少し早いけど、今月もありがとう。前よりもできること増えたから、少し多めにいれといたぞ」
僕とマルセロはいつものように固く握手を交わした。それは、僕が彼と働くと決めた時にした握手と、同じくらい強くてぬくもりがあった。
家に帰宅すると、「遅かったのね」と妻が言った。
「ほら、金曜日だから卓球していたんだ。でも、マルセロは少し変だったよ」と笑い、現金の入った給料袋を開けた。1万3千ペソのはずが、2万ペソも入っていた。喜びよりも驚きの方が強かった。そして、その驚きは僕に嫌な予感を植えつけ、月曜日にその予感は的中した。
*
この話をすると、マルセロを恨んでいるのかと聞かれるが、そんなことは絶対にない。僕は彼ほど人情味があって優しい男を知らない。
移住2年目で友人もいなかった僕には、アルゼンチンは未知の生物と同じだった。しかし、マルセロは僕とアルゼンチンをアミーゴにしてくれた。
アルゼンチンという国で迷子になっていた僕にとって、彼は手書きの地図のような存在だった。
知っておくべきアルゼンチンの国民的音楽、マテ茶の淹れ方、政府を信用してはいけないこと、アルゼンチン人流の悪口(これはゴメスにも感謝だ)、シエスタの時間は静かにするという暗黙のルール。
保守的な人が多いこと、少ない数の信頼できる人々を大切にすること、ここではメティード(なんでも干渉する人)が多いこと、メティードの助言は聞かないこと、アルコールや薬物依存症の危ない住人、現金で貯金しないこと。
たったの3か月だが、僕とマルセロはいつも会話をし、僕はたくさんのことを学んだ。いつの間にか、未知の国アルゼンチンが親しみやすい存在になっていたのである。
彼との3か月があったからこそ、今でも僕はアルゼンチンで生きられている。
*
後日談になるが、マルセロの居場所を知ることになる。知人の誕生日パーティーで、一人の男が声をかけてきた。彼は車の部品やペンキを販売しており、マルセロとは数年来の付き合いだったそう。
一度、彼が工場に部品を届けに来た時、僕を見かけたそうだ。
「マルセロが最後に店に来た時、君のことを話していたよ。どう伝えればいいのか分からないって悩んでいたね。君も彼がいなくなって驚いたろ?」
「そうですね。でも、なんとなく様子はおかしいなと思ってもいました」
「そうかい。私はマルセロに、あの日本人が心配なのかと尋ねたら、彼はノーと言うんだ。そして、俺が外国で生きられたから、あいつができないはずがないと」
「確かに、マルセロがいなくなって、数か月経ちますけど、今もここで生活できていますからね」と笑いながら僕は答えた。
「彼がもう一緒に仕事できないと言った時は、私も驚いたよ。でも、私も君もマルセロを止められないよ。突然目の前に、チリに住む夢を叶えられるチャンスが来たのだから」
そうだ、マルセロの夢はチリで車工場を開くことだった。かつてチリに住んだ時、言葉では説明できない居心地の良さを感じたそう。そして、アルゼンチンには疲れたとも言っていた。
ついにチリで車工場を開いたのか。僕とマルセロは別々の道を歩んだが、いずれ彼とは再会しそうな気もする。その時は、マテ茶でも飲みながら、長い旅で積もった話しを語り合いたい。
*
前回走者、チリのMARIEさんの記事はこちら。
マルセロが移ったチリに住むMARIEさんのエッセイ。短く読みやすい文章で、面白くて心拍数が上がる内容です。個人的には、記事の締めが最高!妄想が個々人の世界を作る、本当にその通りですね。
次の走者、イタリアの「すずき」さんが一週目に書いた記事はこちら。
イタリア・ミラノ在住のすずきさん。僕はすずきさんの淡々と日常や思い出をつづった文章が好きなんです。そんなすずきさんの「忘れられない人」、とても楽しみです。
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