君をのせて
コロナのワクチンを打ちに近所の病院に行った。受付を済ませ、待合室の隅のソファに腰掛ける。
その時ふと、待合室のBGMが「さんぽ」のオルゴールバージョンであることに気がついた。『となりのトトロ』の主題歌の「さんぽ」である。
あるこう あるこう わたしはげんき
あまり子供は来そうにない小さな胃腸科クリニックで、待合室には僕と爺さんと婆さんとおっさんしかいないが、みんなどんな思いでこの曲を聴いているのだろう。自分の子や孫、あるいは幼い頃の自分のことなんかを考えているのかもしれない。どの世代の胸にも響くのが、長く愛されてきたジブリの凄さだ。病院で聞く「さんぽ」はどこか悲壮的にも思えるけれど。
まもなく「さんぽ」が終わり、今度は『天空の城ラピュタ』の主題歌「君をのせて」が流れてきた。
あの地平線 輝くのは
どこかに君を かくしているから
メロディーを聞けばすぐに歌詞が浮かんでくる。小学生のころに音楽の授業でこの歌を唄った。その記憶が今なお僕の中で生きている。
たくさんの灯が なつかしいのは
あのどれかひとつに 君がいるから
『ラピュタ』のさまざまな場面が脳裏を駆け巡る。空から落ちてきた女の子。青く光る飛行石。目玉焼きをのせたパン。盗賊一味との出会い。暴走するロボット兵。木々生い茂る天空の城。ムスカとの対峙......
さあでかけよう
ああだめだ。胸がうずうずしてくる。僕はこの言葉に弱い。冒険心が掻き立てられて、大きな世界に飛び出したくなる。
さあでかけよう ひときれのパン
ナイフ ランプ かばんにつめこんで
なんてワクワクする言葉だろう。僕も40秒で支度して出かけられるようになりたい。トランクひとつだけで浪漫飛行へIn The Skyしたい。
診察前にこんなに興奮するなんて初めてだ。大丈夫なんだろうか。脈拍が早すぎるのでもう少し落ち着くまで注射はできませんとか言われたらどうしよう。もしかして注射が怖いんでちゅか?とか煽られたらどうしよう。怖いのは本当だけれども。
いや、それだけならまだいい。だが待合室には他にも人がいる。「君をのせて」を聴いて気持ちを昂らせているのは僕だけではないだろう。爺さんや婆さんが危ない。お年寄りには負荷が大きすぎる。冒険心が騒ぎたして過度に興奮してしまえば、最悪死だ。
父さんが残した 熱い想い
母さんがくれた あのまなざし
やはり病院の待合室でこの曲はよくない。頼むから早く終わってくれ。もう少しリラックスできる曲にするんだ。
そう願っているうちに爺さんが呼ばれ、診察室の方に消えていった。
地球はまわる 君をかくして
輝く瞳 きらめく灯
みながワクチン目的ではないから、そうスルスルとは進まない。僕は胸の高鳴りを抑えながら、自分の名が呼ばれるのを待った。
地球はまわる 君をのせて
いつかきっと出会う ぼくらをのせて
* * * * *
「君をのせて」が終わり、待合室には曲間の静寂が訪れた。
受付の女性が紙をめくる音。誰かの咳払い。衣擦れ。遠くの足音。外を走る車。
その静けさの隙間を満たすようにスピーカーから「ひこうき雲」が流れてきて、僕は爺さんの死を悟った。
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