自分がいない世界
100年後を思い描く人はどれだけいるだろうか。
少なくとも、老後と、せいぜい遺産相続(エンディングノート)まで考えれば御の字の、自分の人生サイズの時間しか考えず死んでいく人が大半ではないだろうか。
そりゃ煩悩は消えず、遺恨を残し、家族は解体するよなぁ。。
なんでわからないのだろう。
というかもしかして世界は“自分が居ない世界”を隠そうとしているのだろうか?
グラフティーアーティストをはじめ、作品を世に問うアーティストたちは、少なくとも“自分が居ない場所”の事を考えて、作品という分身を通じて世界を常に解釈しようとし続ける。
だが、消費する事しか行ってこず、誰かに、何がしかの、不確かな保護や保険を委ねて、愚痴や腐った自慢話を垂れ流し、世界を恨んでいるような老後は間違っても『幸せ』とは呼べないだろう。
孤独である事を受け入れられず、身体の劣化や苛立ちや不満を他人や社会のせいにする老人が溢れて、孤独を愛して、心穏やかに綺麗に仕舞っていく老人は稀有。
後者であるために、
100年後を常に想うこととする。
屍となりて焼かれ土に帰るイメージを繰り返し、
惨めで迷惑な死に方を残された若い命に晒すのは、
ある意味“夢を奪い、未来を殺す、罪深き行為”だ。
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