私は人が怖い。心の中はいつも喜びで一杯だ。 【非二元、ストア派哲学】

私は人が怖い。
「人が怖い」「あー死にてぇ」が私の自然に漏れ出す口癖だ。
たまに人前でも言ってしまうことがあって焦る。でも幸い私の声は小さいので、相手には聞こえてなかったり、なんとか誤魔化せる。

自分がネットでコンテンツを発信したり、現実で何か発言する時に、それは取るに足らないものだと言われたり、思われたりするんじゃないかと思って、怖くて怖くて堪らない。
無価値感を突きつけられるのがどうしてこんなにも恐ろしいんだろう。
どんなに気にしないようにしよう、と思ってもそれは無理だった。
気持ちの持ちようなんかでは何も変わらなかった。

でも最近は、"私はそれで良いんだ"と思えるようになった。
例えば昨日の出来事。
バイト先で挨拶ができなかった、あー消えてしまいたい。人の目が見れない、声が出ない、なんとか絞り出した私の声はなんと不快な声質なんだろう。
私の「お疲れ様です」に対してのあの人の返し、なんだか含んでいるところがあった気がする。人が怖い、他人の記憶から私の存在を消し去りたい。

そんなことが私の頭の中で瞬時に渦巻いた。
その時、「またいつものか。騒がしいな」と他人事のように見れてる自分がいて。
私が上記のような自己嫌悪に至ることを避けようとしたり、なんとか辞める必要なんてなかったんだ。
そういったネガティブなことを思う自分をただそのまま受け入れれば良かったんだと、私は気づけた。

私が「消えてしまいたい」とか、思うことは別に問題なくて。それを思わないようにしようとか、そんなことをする必要が全くなかったんだ。
「あー、自分の心が消えたいとか恥ずかしいとか思ってるなあ。まあ気にしないでおこう」
みたいな要領で、感情に深入りしないことが簡単にできるようになってきた。
精神の鍛錬の成果だろう。

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私は依然として人が怖い。帰宅してベッドに横たわり一言目は「はぁ、死にた」。
動画にコメントやいいねが付くと「やべ恥ずかしい、消えたい」。
でもそれの何が問題なのか。
そういったことを思うことに善も悪もないだろう。

私という人間が上記のように日々色々なことを思うことが何か自然法則に反しているだろうか。
別に反していない。
自然はあるがままにあるだけだ。
どこに問題があるのだろうか。
私は大いなる自然の一部。でも切り離された一つの自我として人生を生きていることは事実。
私はあるがままに私を生きていくだろう。悩んだり喜んだり。
だがそこには当然、善も悪もない。

もしかしたら、一部の人からは
「所詮言葉遊びだろ」「なんか悟り開いてるやんw」
ぐらいに思われるだけなのかもしれない。
でも、伝えたいんだよね。
言葉の性質上、体験をそのまま伝えることはできない。どうしたって言葉というフィルターにかけないと何も伝えられないからもどかしい。

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人生の中で頑張らないといけない時、踏ん張りどころというのは人によってはあって、善も悪もないなんて言ってられないんだ、という人はいるだろう。
そういう人には、それで良いんですよ、と言いたい。
全てはあるように存在しているだけですから。
あなたがそのようにするということは、そのようにすることが自然の意思だった。

あと、善悪も区別も何もないから、別に頑張る必要なんてないとか、そんなことは決して言わない。
そんなつまらない冷笑思想でとどまるものではない。
人が自分の大切な価値観に基づき主義主張をすることも、大切な人を守りたいと頑張ることも、夢や目標のために一生懸命になることも、全て尊い。
私たちはそれぞれの自我を精一杯生きていく。
それ自体はそれぞれ尊くて、決して本質である自然の側面のみが尊いのではない。 

大いなる一つの存在である状態が正しくて、現実は夢まぼろしだから価値がないとかではなく、どちらも同じというか、そもそもが一つのものだから"どちらも"なんて使うのもおかしいんだけど。
この世界のさまざまな価値、とりわけというのは、とても大切にしなければならない。
それも確かに自然(宇宙・唯一存在)が内包する要素の一つだから。
自然の一部である人間にとっての大事な要素だから。

少なくとも、ストア派はそういったことを主張したかったんだと私は思うんだ。
だから神の理性=徳=善になるんだ。人間が運命に従うことがすなわち道徳的・倫理的行為と紐づくんだ。

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情念を克服するストア派のアパテイアは決して消極的なものではない。
人間がより人生を楽しく幸福に生きていくための最適なツールだ。
人間の権内にある"意思"によって、人間は常に自分の心をどうしておきたいか選択できる。

外部の情念(心象)に私は支配されない。それは絶えず私をたぶらかそうとする。
「恥ずかしい」「死にたい」「苦しい」
ストア派ではそういった情念が起こらないように鍛錬せよ、なんて言わない。
その情念を受けて、私の意思は決して侵されることがないことを見極めろ、ということだ。

私は人を怖く感じた。でも私は穏やかな心持ちでその瞬間を楽しんでいた。
静かな喜びが、心の川の中をぴちぴちといっぱいに跳ね回っているんだ。

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