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いのちの通過点〜いのちの終わりと始まりと〜

妻の父親というもっとも身近な家族の一人を、医師として、また家族として初めて看取った。僕の人生の転換期に大きな意味をもつその軌跡を遺したいと思い、このブログを書いている。



義父の死は、医師としても家族としても全く悔いのない、穏やかで晴れやかな最期だった。「日常の延長」のような、寂しさも悲しさもないお別れだった。最期は点滴も酸素も一切の医療を必要とせず、自然な形で看取ることができたことは、医師としても家族としても誇らしかった。



義父の療養は、兵庫の田舎町の妻の実家で、義母と妻と僕で支えた。



義父を看病する傍ら、臨月となった妻の胎内に宿る娘の存在を感じながら、「誕生」も「死別」も、いのちの住む世界が変わる「通過点」という意味で同じように思えた。「いのちの始まり」と「いのちの終わり」という、対極にあるようでとても近い両者の相同性を見た気がした。



7月にNZから帰国し、妻の出産に備えて妻の実家で過ごした期間と、義父の死が重なったことは偶然ではないと思った。医療の現場を離れ、しばらくは戻るまいと思っていた僕が、医療人としての在り方を問い直す機会を父に与えられた気がした。




義父は悪性リンパ腫だった。今年4月に発症、診断までに1ヶ月を要し、その間に食欲は落ち、体は痩せ衰え、体重は20kgも減った。化学療法を開始したが治癒に至らず、その間も体重はさらに10kg落ち、寝たきり状態となった。



8月には治療の継続が難しいと分かり、当時療養先の病院で、最期をどこでどう過ごしたいか、担当する医療スタッフと私たち家族、本人で話し合い、最終的に父は自宅療養を選択した。そこには逡巡もみられたが、結果的に、父は自分に望ましい最期のあり方を知っていたんだと思う。



9月2日、自宅で療養できる万全な状態を整え、父は療養先の病院から退院した。エアマット付きの電動ベッドが用意され、酸素濃縮器や吸引機、口腔ケアセット、排泄や清拭に必要な介護用品の一式を準備した。築100年経つ古民家の一室に、わりと最新の機器が並んだ。



義父は最初、首を振って「うん」や「いや」と意思表示できていたが、数日するとできなくなった。意識は混濁し、昼と夜の境がなくなり、開眼と閉眼を短時間に繰り返すようになった。



なんとも言えないしんどさを振り払うようにうめき声をあげることが頻繁にあり、義母はそれを見て心配したが、それは終末期に見られる現象の一つで、本人は苦痛として感じていないことを知っている僕は、そのことを義母に伝えた。



終末期に訪れる特徴的な呼吸様式(呼吸が止まっては再開することを繰り返すこと)やせん妄(昼夜の境がなくなることや意味不明な言動)にビックリし、不安を覚える家族は多い。それぞれについて義母に説明し、安心してもらった。



手足がむくみ始めたため、点滴は1日500mlと最小限に絞った。その他入院中から継続されていた薬を徐々に中止した。入院中から酸素マスクをつけて少量の酸素を流していたが、本人が嫌がって外したためそれを機に中止した。



義父がこの世から旅立とうと、体の状態が刻一刻と変化するのを見るにつれて、人の体はこの世での終わりに向けて、実に巧妙に創られていることを思い知らされた。赤ちゃんが、奇跡のようなプロセスを経てこの世へ誕生するよう創造されているように。



終末期を迎える人は、衰弱が進むにつれて呼吸が荒くなるが、周囲が心配するほど本人は「息苦しい」と感じていない。血中の二酸化炭素濃度が増すことで、脳が既に混濁状態となっているからだ。そのような人の死は目前に迫っており、酸素を与える意義はもはや乏しい。



余命が1週間を切ると、点滴は必要なくなる。栄養状態が悪くなると、血管内に水分をとどまらせることができなり、全身の循環に回らなくなるからだ。点滴で無理に水分を与えようとすると、血管から漏れ出た水分によって手足が浮腫み、気道の分泌物を増やして呼吸を苦しくさせる。



余命が数日になると、ときおり目が見開いて宙を泳いだり、この世とあの世を行き来するような言動がみられることがある。夜になっても寝ないで声をあげたり、宙にあるものをつかもうと手をしきりに動かすことがある。



この「せん妄」という、脳の機能不全状態に対して、無理に寝静ませようと薬を投与することは、泣いている乳児を黙らせようと怒鳴るのがいかに乱暴か、ということに似ている。



このようなときは、家族が優しく声をかけたり、手をさすったりして、家族がそばにいることを伝えるだけで十分である。点滴や酸素マスクは、感覚のみ残された体にとっては、違和感や不快感しか与えかねない。



赤ちゃんが生まれながらに何が必要か知っているように、この世を去る者は何が必要でないかを知っている。必要でないものは体で訴えることがあるが、それをこの世の言葉に置き換えて家族へ伝えるのは、医療者の大切な役割だと思う。



体からのメッセージを「翻訳」できず、自然に抗って人為的な処置を施し、望ましくない結果を生むことは、特に終末期という場面でときどき目にしてきた。



メッセージを無視したり、誤解したりして、家族や医療者の心配という理由で不必要な投薬を継続したり、酸素を増量することは、いのちへの冒涜に感じられてしまうことがあった。



「いのちの始まり」が特別な医療を本来必要としないように、「いのちの終わり」もまた特別な医療を必要としない。そのような「当たり前」の認識が忘れ去られやすいのは、人が科学を拠り所とし、自然や信仰から遠ざかってしまったからかもしれない。



この世で終わりを迎える者が五感を失う順番と、この世に誕生する者が五感を獲得する順番が逆である事実にも、いのちの終わりといのちの始まりという、両者の相同性を感じることができる。



胎児の触覚の発達は最も早く、妊娠3-4ヶ月から胎内で指しゃぶりをし始め、産後すぐの吸啜に備える。聴覚は妊娠5-6ヶ月から発達し、外界の音を徐々に聞くことができるようになる。視覚の発達は最も遅く、出産直後は明暗しか判別できないが、生後3ヶ月して色を識別できるようになる。



これに対して、終末期を迎える人では、亡くなる数日前には意識がぼんやりとし始め、見えている世界をそのまま視認できなくなる。触覚や聴覚は最期まで保たるため、家族の手のぬくもりや、言葉に込められた想いを、死の瀬戸際まで感じることができる。



人の体は、生まれてすぐだけでなく、死ぬ直前までも、「触れる」ということを求めるように創られている。私たちは、大人になるほど視覚情報に頼りがちだが、触覚というより原始的な感覚に意識を向けると、いのちとのより深い対話が可能になるかもしれない。



父は退院して3日目の9月5日未明、静かに息を引き取った。そこには、まるで潮が満ち引きを繰り返すような、自然の摂理を一人の人間にみているような心地だった。



終末期に訪れる特徴的な呼吸様式のおかげで、母は、父との別れを何度も予行演習しているようだった。亡くなる日の深夜2時、いわゆる「下顎呼吸」が始まった。父の呼吸が少しの間止まり、母が「お父さん」と言いながら優しく父の体を叩いている間に再開することを繰り返した。



「これが最期だろうか」という場面が何度もあった。その度に父は息を吹き返した。このような呼吸が始まると余命は数時間のことが多いが、父も3時間ほどして、息が止まったのち戻ることはなかった。



止まっては、始まり、また止まる。



別れては、再会し、また別れる。



二酸化炭素と酸素に対する脳の感受性の変化によって生理的に訪れるこのような呼吸は、それ自体が合理的であり、自然の摂理を象徴しており、愛する人との別れを惜しまなくても済むように用意された仕組みとしか思えなかった。




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在宅看取りという選択や、不要な医療処置の中止という選択は、僕という元医療者がそばにいたからできた部分が多々あると思うと、本来できるはずなのにできない選択が、現場ではたくさんあるだろうという事実に改めて気付かされた。



それは、今の医療の普遍的な問題に通じている。医師の説明不足、医師-患者間のコミュニケーション不足、医師-患者関係の非対称性、家族の遠慮、日本人特有の死生観、医療への依存。



終末期という特殊な場面では、目に見えないこのような要素が、患者にも医療者にも無意識に幾層にも働らき、身動きを取りにくくさせる。



父が退院を予定していた9月2日の朝、病院から「危篤状態だから帰れそうにない」と連絡を受け、すぐさま病院へ駆けつけた。病院に着いた頃には、父の容態は少し落ち着いていたが、退院できるかどうか医師の許可を求めている義母の姿に、僕は違和感を感じざるを得なかった。



人は、死の間際でさえ海や畑に出かけたっていい。その場所がその人にとって特別で、そこで死んでも良いと望むのなら。赤ちゃんを産む場所や方法を選ぶことが、基本的に自由なように。



「いのちの始まり」では比較的自由に選択できるのに、「いのちの終わり」において難しいのは、死は悲しいもの、苦しいもの、避けるべきものという観念や、少しでも長く生きることが良いことという価値観が強いからではないかと思う。



僕は医師として、何人もの看取りを医療的にサポートしてきたが、家族として看取るのは今回が初めてだった。家族として望ましいと思っていた父の最期と、医師として思い描いていた理想の看取りが結果的に一致したことは、純粋に嬉しかった。



父が亡くなるまでの間、「医師としての自分」と「家族としての自分」を何度も行き来しながら、両者の間の超え難かった「壁」のようなものが自然となくなっていくのを感じた。



終末期という「正解」のない世界で、正しいケアを選択しようと懸命に努力しても、「上手くいかなかった」ともやもやすることの多かった、医療人としての在り方に対する一つのこたえを、経験として与えられた気がした。



通夜を終えた後、納棺された父の晴れやかな顔を見ながら、僕のこれまでの実践を肯定し、次に進む勇気を与えてくれた父に感謝した。医の道に戻ることを躊躇っている僕に、自信をもって戻っていいよと言われている気もした。



いのちの「通過点」から、誰よりもそばで父を見守ってくれた娘にも感謝している。この世の「入り口」に最も近い娘と、この世の「出口」にもっとも近い父は、たぶん誰よりも互いの存在を感じ合っていたと思っている。


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