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Love Based Medicine
医療という世界ほど、愛が過小評価されている世界はないと思う。「正しいこと」に盲信的であり、「正しくない」ことに対して非寛容である。
医療という世界では、エビデンス(根拠)という測定可能なものに強い関心が払われることがあっても、愛という目に見えないものへ関心が払われることは意外と少ない。
このような非寛容さや、人への関心の欠如は、時として大きな矛盾を医療に生む。
医学的には最善と思える治療を行っても通院が途絶えてしまう患者、病気が良くなっても人生は好転しない人、穏やかな老衰に対する有無を言わさない延命治療。。
愛は「想像力」だと思う。
アルコール依存症で栄養失調となり、四肢の筋力が低下し、最近僕が紹介して入院したある50代男性は、あらゆる検査を受け、内臓に異常はないとの理由で十分なリハビリを受けないまま退院し、離島に帰され、自宅でほぼ寝たきり状態となった。
その後、同居しているパートナーの献身的な介護にもかかわらず、年末の急激な冷え込みで低体温症となり、再び入院となってしまった。自宅はトタン屋根の簡素な造りで、隙間風が多くとても寒い環境だった。
入院中は、栄養欠乏に対して教科書通りの点滴治療が行われ、食思不振に対して癌などが隠れてないか、胃カメラや大腸カメラといった検査は全て行われた。「正しい医療」は十分なされたが、その「人」に対して十分な関心は払われたのだろうか。退院後の生活がどうなるか、想像できなかっただろうか。。
僕は研修医時代、ひたすら「正しいこと」を頭の中に叩き込まれた。同期や先輩医師は皆、優秀で要領が良く、そのような医師の姿が理想だった。でも、「病気」や「治療」に関心を持つ医師は大勢いたが、それと同じくらい「人」に関心を持ち、人生を想像して治療にあたる医師は多くはなかったと思う。
想像力は、心が愛に満たされていないと湧き出てこない。僕たち医療者は、「正しいこと」を追求するあまり、愛を脇に置いていないだろうか。想像力を犠牲にしていないだろうか。医療にはもっと「余白」があっていい。そのための余裕が、僕の知る現場ではあまりに少ないと感じる。
愛は「信じること」である。
病気を薬でコントロールすることは簡単だが、それはコントロールしていると自己満足に浸っていることに、無自覚な医師は少なくないと思う。
健診で高血糖を指摘されて来院した患者に、血糖を下げる薬を出すことは「正しい」医療だ。でも、薬を出す前に、その異常が、その人の人生において何を意味するのかを問いかけ、人生と向き合う手助けをすることは、時間がかかり、忍耐の要ることだがとても意義深いことである。
耐えるためにはその人を信じる必要がある。信じていると示す必要がある。親が子どもの自立を願って信じるように。でも実際は、患者が自ら良くしようとする努力を信じることができず、薬を半ば一方的に押し付けるていることがある。それは血糖という数値を良くしても、その人の人生を良くするとは限らない。
愛は「自己犠牲」とは違う。
研修医時代は、自分の時間を犠牲にして働いていることを良しとしている自分がいた。そのことで、患者のために精一杯やっていると錯覚していた。
本当の思いやりは、自分が愛に満たされていないと発揮できない。気力も体力も使い果たしながら、患者のために良かれと思って出る言葉や行動は、実は自分のためであり、患者のためではないことがある。そのような言動は想像力が乏しく、患者のもつ可能性に配慮していない。
思いやりのある医療を実践するには、まず自分を大切にすること。自分と向き合うこと。そのための余白をもつこと。家族との大切な時間を犠牲にしないこと。
自己犠牲の上に成り立つ医療の時代は、もうそろそろ終わって欲しいと思う。人を大切にする仕事だからこそ、まずは自分を大切にすることの尊さを、研修医時代から示してもらう空気が当たり前になって欲しい。
僕たち医師は、研究によって積み重ねられたエビデンス(根拠)を拠り所にしている。そのような医療の実践を“Evidence Based Medicine”(根拠に基づく医療、通称EBM)と言う。
EBMは、「科学的根拠」だけではなく、「医師の経験」、「患者の価値観」、「現場の状況」という4つの軸を大切にする。ある病気に対して効果があると証明されている治療を、患者が希望し、経験のある医師がそれが適切だと思う状況で行うことが正しい医療の実践、EBMである。
でも、それだけで十分だろうか。
その治療が科学的に有効だと証明されていて、患者が希望したとしても、そこに愛がなければその人を幸せにするとは限らない。
誰もが「正しい医療」を受けたいと願うだろう。「優しいヤブ医者」よりは「無愛想な名医」に診てもらうことを望むかもしれない。
でも、多少やっていることは荒削りでも、愛や想像力のある医師の実践は、EBMだけを忠実にこなす医師の実践を凌駕することだってあると思う。それはプラセボであったり、思いがけない出会や、生きがいの発見だったりする。
医療に限界を感じて、ヒーリング(癒し)に走る現代人が求めているのものは、もしかすると「正しさ」よりも「愛」なのかもしれない。愛のあるヒーラーは想像力があり、その人を信じ、その人が人生と向き合う手助けをする。
両者の役割は違うのだろうけど、人を幸せにするという共通の目的からもう少し手を取り合っても良いと思う。僕たち医療者は、目に見えない価値に対してもう少し寛容になってもいいと思う。
愛が医療で語られることは少ないが、愛ほど過小評価されているものはない。そんな愛について、最近感じることをつぶやいてみた。