美しい自然を目にした時の、恍惚とした一体感の様なイリョウの姿
あまりにも細分化され、organizedされた今の医療はまるで、継ぎ目の多いちぐはぐな一枚の風呂敷の様に感じることがある。良いとこどりをしようと色んな生地を縫い合わせた結果、全体として脆く頼りない。
古くても伝統的で、地味でも素朴で、風変わりでも個性的な一枚の布で、フワッと包まれる様な温かみのある風呂敷の方が、持っていると安心するし、丈夫だと感じる。
そんな「全体性」を帯びた医療の復興が、なんだか今求められている気がする。でもそれって、癒しを生業とする優れた感性を持つ人たちが、以前から世の中に発信していることではないだろうか。
直感や個性、その人の持つ主観は、臨床で時に大きな武器になると思う。医療は常に客観的であることを強制的に求められるが、主観的でも良い場面はある。
客観的であり過ぎるが故に、主観的であることの強みを犠牲にしている。
患者に感情移入してしまう「転移」の危険性は確かにあっても、主客一体、渾然一体となった時に得られる感情的な結びつきは、患者のレジリエンスにもなれば、医療者の励みにもなり、新たな危機を乗り越える両者の強い動機づけにもなる。
そんな強い絆から生まれる、患者の「この人なら安心して委ねられる」と言う関係性は、何にも代え難いものである。人生誰しも一度は経験する「この人のこの言葉に救われた」「あの時の対話がなければ今の自分はなかった」という感覚に近い。
医師としてふと感じることのある、「目の前の患者との境界が曖昧になるような心地良い感じ」「自我を意識しない自由で透明な感覚」「自分も患者も何か温かいものに包まれ、正しい方向へ導かれている感じ」も、それに近いのかもしれない。
あるいは、少し極端だが、美しい自然を目にした時の、恍惚とした一体感にも似ているかもしれない。
一方で、患者に時々ある「医師に申し訳ない」という遠慮、「不利な対応をされるのではないか」という損得感情、「嫌われたくない」「見捨てられたくない」という恐れはあってはならないが、ないことの方が少ないのが実臨床。
未だ根強く存在する、このような「医師-患者間の非対称性」から多くの無駄や不幸が生じていることに、医療者も患者も気づいていないことは少なくない。本来シンプルな問題が、このような関係性から複雑になることが時々ある。
愛や許しは、このような非対称性を超越する。あらゆる医師-患者間の距離感、客観と主観という次元を超越し、良い意味での渾然一体を成すものだと信じている。
医師は「人生の良きパートナー」であるという安心感が、時に疑心暗鬼に満ちた診療に取って代わって欲しいと願う。病院に行くのに少なからず不安や緊張を伴うことからもう少し解放される可能性が、臨床にはいまだ存分にあると思っている。
愛は宗教とは違う。
主観であり客観。
実践でありプロセス。
笑顔でありユーモア。
複雑ではなくシンプル。
自分に正直で、自分を愛し、恐れを手放していさえすれば、自ずとそうなる可能性を全ての医療者が有していると信じている。
再会開催された僕の所属する学会の講演を見て、優れた感性を持つ癒し手やスピリチュアルな人たちが以前から語っていることに、最近の医療(少なくとも家庭医療の分野だが)が言葉は違えど追随しているような気がして興味深かった。