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医師として向き合う死、家族として向き合う死

妻の祖母が最近発症した脳梗塞で寝たきりとなった。


数日前、医師からの提案で鼻から経管栄養が始められたことを知った。大切な家族に迫りつつある人生の最期を前に、医師として、家族として向き合いたいと思い、今、妻の実家の兵庫にいる。


医師として9年、いくつもの看取りを経験し、「これで本当に良かったのだろうか」と思える死を何度も目にしてきた。結局最期は「それで良かった」と思えるような「納得」で終わっていないだろうかと、自問自答することがあった。


人生の終末期ほど、医療者と家族の間で、ミスコミニケーションが生まれやすい場面はないと思う。知識や頭だけでは、決して埋めようのない隔たりが、両者の間には存在すると感じてきた。


「望ましい最期を迎える手助けをする」ことは、「誰かの命を救う」ことと同じくらい価値のあることだと思う。終末期のゴールを本人や家族と共有することは、命を救う手立てをじっくり相談することと同じくらい大切なことだ。


だからこそ、経管栄養や点滴といった一見「当たり前」と思える医療行為でも、「医者が勧めているから」「社会一般はそうしているから」「本人に悪いと思うから」といった理由で、安易に始めないで欲しい。


「自分はそうしたい」という願いと、本人の願いとを混合しないで欲しい。


鼻から管を入れて栄養を注入することは本来、不快なことである。点滴を続ける場合、特に終末期においては何度も差し替えなければならず、その度に苦痛を伴う。そうやって生きながらえる分だけ、合併症が増え、苦痛もさらに増す。


本人はそのような苦痛を表明することはできない。やめて欲しいと思っても、言葉にすることができない。


たとえ寝たきりになっても、少しでも長く生きながらえることが本人にとって価値あることなら、それは正しい選択だと思う。でも、ただ生かされているだけの人生は虚しいと思う人にとって、経管栄養や点滴は「拷問」かもしれない。


ある医療行為を、「始める」のと同じくらい、「始めない」という選択にも慎重であって欲しい。このことについて、医療者はもっとオープンであるべきだし、本人や家族ともっとフラットに話して良いと思う。


ただ、それがうまくいかないこともあるし、適切でない場合もある。


未熟な時の僕は、医療と、本人・家族の間の隔たりを、少しでも相互に超えられるよう何度も挑戦してきたが、「挑戦することそのものが失敗だった」と思うことを、何度も経験した。


家族に終末期に起こり得ることやケアの選択肢ついて一つ一つ丁寧に話し、「よく話してくれた」と感謝されることもあれば、「縁起でもない」「早く死なせるのか」と言語化されない怒りを買うことがあった。


頭では分かっていても、感情として受け入れられないことは当然ある。それを言葉にして選択を迫ることは、大切な人の死を目前にした家族にとって残酷かもしれない。


その残酷な現実と、正面から向き合ってもらうために、本人や家族へ話すことは必要かもしれないが、そのタイミングを焦ってはいけない。あえて言葉にしない、あえて選択肢を与えない方が良いこともある。


その見極めはとても難しく、人間に対する深い理解と愛が要求される。


そんなことを考えながら、満開から少し散り始めた桜の木の並ぶ、川沿いの美しい小道を妻と歩いた。


医療者として向き合う死と、身近な家族として向き合う死。両者が交わるところに、自然体な医療の姿があるかもしれないとふと思った。


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