① 日本で70年隠された “海の武士道” // ② 金子堅太郎 // ③ HSBC=香港上海銀行
(これらの記事は、Direct出版から転載をしている方よりの転載です。 🐧💦)
この方の記事には出典元が書かれていないのですが、アヘンについての記事は、、たぶん西鋭夫氏情報に少々手を加えた転載のような気がしますが…どうでしょうね? 転載だろうとなんだろうと、内容はとっっっても面黒いです。拡散されるべき情報だと思いますので、転載の転載をしました… σ(^_^;)
しかしまぁ〜、この香港上海銀行(HSBC)って、未だにメチャメチャ怪しいマネーロンダリング銀行のようですね〜。。。🐧💦 。。 ただここで言われている西鋭夫氏の「長州5とグラバーの関係」についての考え方ですが、どうやら上島嘉郎氏は幾分否定的なんですよね。 本当はどうだったのでしょうね? やはり、真実は闇の中なのでしょうか。その他の転載記事も、下記に転載しました。転載の転載ですが、教科書には載っていない興味深い内容です。
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日本で70年隠された“海の武士道”
「もう、助からない…」
太平洋戦争真っ只中の1942年3月。
イギリス海兵のサミュエル・フォール少尉は、先の日本軍との海戦で乗っていた駆逐艦を爆破され救命ボートで脱出。
ジャワ島近海を仲間の400名と共に漂流していた。
赤道付近の炎天下の中、飲まず食わずで20時間も海を漂い、中には自殺を志願する者もでてきた。
フォールが死を覚悟したその時、目の前に巨大な船が現れた。
「おおーい!ここだ!」
必死に叫び助けを求めたフォールだったが、船が近づいてくるとフォールは絶望した。
なんとその船は、敵国である日本の駆逐艦「雷(いかずち)」だった…。
一方…
「雷」の船員は220名。
イギリス海兵の数は、そのおよそ倍。
「雷」の艦内は一気に緊張が走る。
「こっちはいつでもいけます!」
敵兵を目の前にいきり立つ部下たちに対し、「雷」の艦長は冷静だった。
「取舵いっぱーい!」
身長185cm、体重90kgの堂々とした体格から、風格のある声が艦内に響き渡る。
この声の主こそ雷の艦長 工藤俊作である。
そして「雷」はゆっくりとイギリス兵の元へ近づき、ついに工藤はイギリス兵を射程圏内に収めた。
フォールを含む、イギリス兵全員が
「殺される…!」
と覚悟を決めたその瞬間だった。
なんと「雷」に救難活動中の国際信号旗が掲がった。
工藤はイギリス海兵を救うと決断した。
同時に、艦内にはどよめきが走った。
「敵を助けるだと!」
「艦長は正気なのか?400名以上もいるんだぞ」
「助けたあと元気になったら、俺たちがやられるかもしれない!」
部下たちがそう叫ぶのも無理はなかった。
そんな大人数の救助をすれば長時間の作業を要し、敵の潜水艦、航空機の格好の的になってしまう。
しかし、工藤は己の中の武士道を貫き通した。
そして、漂流乗組員422名を救助し、さらには大変貴重な真水やミルク、食料などを惜しげも無く与えました。
当時は漂流中の敵兵を助ける国などどこにもなく、むしろ発見した場合、これを殺していましたが、工藤は翌日にオランダ海軍の病院船に捕虜全員を引き渡しました。
戦後、日本軍の行動に感銘を受けたフォール元中尉が、自分たちの倍以上の敵兵を助けた工藤の勇気ある行動を世界中に広め、日本の「武士道」は世界で賞賛を受けました。
1987年には、米国海軍の機関紙「プロシーディングス」に、1998年には「英タイムズ」に工藤艦長の偉業が掲載されました。
なので「日本の英雄」は、アメリカ海軍やイギリス海軍には太平洋戦争の英雄として広く知られています。
そして2003年、フォール氏の来日をきっかけに日本人ジャーナリストも工藤の偉業を広めるため活動を開始。
まず、日本海軍の伝統を引き継ぐ海上自衛隊に手がかりがあるのでは、と彼らに取材協力を求めました。
しかし、返答はまさかの取材拒否。
彼らの回答はこうでした。
「帝国海軍と海上自衛隊が繋がっていると誤解を受けてしまう」
つまり彼らは、戦後「悪」とみなされた帝国海軍と海上自衛隊を「一緒にされたくない」として、これを拒んだのです。
ちなみに、海上自衛隊は戦後、帝国海軍が使用していた兵学校を引き継いで、今なお使っているにも関わらず…。
校舎に残っていた東郷平八郎など、日露戦争で日本を救った英雄たちの資料をすべて破棄しています。
一体なぜ、海上自衛隊は日本にとって誇りある先人たちを隠そうとするのか。
実は、そこには自衛隊のみならず、我々日本人全員を洗脳したGHQの占領政策WGIPにより、武士道につながる日本文化はことごとく消し去られ、日本人は祖国の英雄さえも戦犯扱いし、誰も教えなくなってしまいました。
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日本史上最高の"外交官"
皆さんはこの男が誰か、分かるでしょうか?
ヒント①明治政府の大物政治家・教育者
彼は「司法大臣」「農商務大臣」を務め、かつハーバード大学名誉法学博士号も取得。
・日本大学の初代校長
・東京大博覧会会長
など、教育の分野でも活躍した。
ヒント②元米国大統領との親密な仲
彼は、元米国大統領セオドア・ルーズベルトと同じハーバード大学の卒業生で、いわゆる同窓生だった。
お互いがお互いの家に行き来して歓談したり、彼が日本へ帰国後も毎年クリスマスには互いにカードを交換し合ったり、手紙を書き送ったりし続けるほどの親密な仲だった。
ヒント③日米友好に最も貢献した男
彼は、米国最大の音楽堂であるカーネギーホールを3000人の超満員にし、たった一人で英語で2時間、米国人の観客を泣かせるほど素晴らしいスピーチを行った。
有色人種への差別が色強く残っていた時代にも関わらず、彼の演説に感銘を受け、多くの米国人が"親日"になった…。
享年89歳で息を引き取った時には、米国ニューヨークタイムズ紙の死亡欄トップに彼に宛てた長文の追悼記事が掲載され、
「セオドア・ルーズベルト大統領の友」
「日米間の友好を説いた平和の唱導者」
と最大の賛辞が呈された。
※なんとなく分かりましたか?
ヒント④日本史上最高の"外交官"
彼は、人付き合いにおいても天才的だった。
武士道を体現した"生き様"に多くの米国人が魅了され、次々と人脈を広げていった。
そして最終的に、彼の「人脈」が、日本の命運を決めることに...。
日本の歴史を語る上で、欠かせない偉人です。
皆さんはこの偉人が誰かわかりますか?
教科書にすら載っておらず、 日本では忘れられた存在のこの男の名前は……。
詳しく書き綴った記事を明日アップする予定です。
P.S.
「外交下手」とよく言われる日本。
特に、戦後日本の外交は重大な問題を"棚上げ"にして、根本を解決することなく、金を出して許してもらうことで隣国との関係を維持するような姿勢が長く続きました。
現在でも、
・ロシアとの北方領土問題
・韓国の徴用工・レーダー照射問題
・北朝鮮との拉致問題
・米中経済戦争に翻弄される問題
など、そのツケが回り、一向に解決の糸口が見えない状態です。
そんな状況だからこそ、戦前、日本も一流国に負けない強かな外交力を誇っていたという歴史を知り、そこから現代につながる「教訓」を学んでほしい...。
そう思って今回は書き綴っています。(👈DIRECT出版PRメール作者?🐧💦 )
明日アップする予定の記事を見て頂ければ、上記の男の「勇気」「行動力」「したたかさ」に日本人として深く感銘すると思います。
ーーーーーーーー高橋是清(上の写真)と、金子堅太郎(下の写真) ーーーーーーーー
日本史上最も優れた"天才外交官"~たった1人で米国人を"親日"に変えた男の偉業
1942年5月16日
享年89歳、1人の日本人が息を引き取りました…。
なんと、その翌日…、大東亜戦争の真っ只中にもかかわらず、米国ニューヨークタイムズ紙の死亡欄トップに、彼に宛てた長文の追悼記事が掲載され、
「日米間の友好を説いた平和の唱導者」
「セオドア・ルーズベルト大統領の友」
と、最大の賛辞が呈されました。
教科書にすら載っておらず、日本ではほとんど忘れ去られた存在のこの男の名は、日露戦争で「宣伝工作」の黒子に徹した金子堅太郎。
当時、ロシアとの国力差は面積60倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍…。
これは、大東亜戦争開戦時の日米の差よりも遥かに大きく、日本は滅亡の危機にありました…。
日露戦争では「坂の上の雲」の影響からか、艦隊戦や軍隊の活躍ばかりがクローズアップされますが、何の肩書も持たない金子がたった1人で成し遂げたことは、実は十数万の軍隊に匹敵するほどの偉業でした。
日露戦争開戦…、伊藤博文から授かった“密命”。
1904年2月4日
枢密院議長を務める伊藤博文は、日露戦争の開戦を決めた御前会議を終え自邸に戻ると、ロシアとの戦力差をよく分かっていた伊藤は、すでにこの時、戦争をいかに上手く“終わりにするか”を考えていました…。
そして、すぐさま腹心の金子堅太郎に電話をかけ、自邸に呼びつけます。
ハーバード大学のロースクールを卒業。
時の米国大統領であるセオドア・ルーズベルトとも同窓生だった金子は、米国内に多くの友人がいましたが、その人脈に目を付けた伊藤は、米国世論を味方につける“対日工作”と、大統領による和平という密命を金子に託すつもりでいました。
緊張した面持ちの金子を前に、伊藤は重い口を開く…。
「ついにロシアとの開戦が決まった。この戦争は何年続くか分からぬが、もし勝敗が決しなければ、間に入って調停する国がなければはならぬ。頼むところは米国ただ一国だけである。君が大統領と懇意なのは私も知っている。直ちに米国に渡り、説得してくれないだろうか。加えて、米国民が日本に同情を寄せるよう、広報活動もしてもらいたい。」
伊藤の密命を聞き、金子は躊躇します。
なぜなら、長く米国に留学していた金子は、ロシアと米国の関係の深さを誰よりもよく知っていたからです…。
米国が独立後間もなく英国と戦争をした際、ロシアだけが米国を助けたことがきっかけで、両国は非常に親密な国交を保っていました。
さらに、米国の富豪たちもロシアの貴族と結婚するなど、あらゆるところで関係が深かった。
そこで、金子はすかさず、
「そのようなところに私が行っても見込みがあまりにも薄いです…。」
と、断りを入れました。
しかし、
「いざとなったら私も鉄砲を担いでロシア兵と戦う覚悟でいる。」
という伊藤の強い決意に押され、金子は大役を引き受けることを決めました。
この時、外交官でも大使でもなく、特別な肩書を持たない身だった金子に対し、桂総理は
「“特命全権大使”“枢密顧問官”など希望があれば、どんな官職でも授けよう。」
と提案してくれました。
しかし、金子はその申し出に対し、
「自分がもし官職を持って米国に行けば、金子の行動・演説は全て政府の差し金だと思われる。何かミスを犯した時には、政府にとってダメージになる。私1人で責任を負うので、官職はいらない。」
と言って、その提案を断ります。
さらに、
「米国の新聞や記者を買収するための費用を全て支給する。」
と提案してくれた総理に対し、
「私は一文の費用もいりません。」
と言い放ち、肩書も資金も一切持たないまま、小さな旅行カバンだけを携え、2月24日、金子は日本を発ちました…。
1904年3月10日
金子が米国に到着するちょうど1日前、とてつもない逆風が吹きます…。
なんと、ルーズベルト大統領が「局外中立の布告」を発表。
全米の新聞に掲載されたのです。
その内容はというと、
「日本とロシア、どちらもアメリカの修好国である。よって、どちらか一方を応援し、贔屓をするような言論行為は一切禁止とする。」
というものでした。
「小国日本が巨大なロシアに立ち向かう」
米国内でにわかに起こりつつあった同情の念は、これで断ち切られました。
翌日、サンフランシスコの土を踏んだ金子は、
「いくら同窓生とはいえ、あんな布告を出した張本人に援助を頼んでも無理に決まっている…」
と、この布告の知らせを聞いて絶望します。
とはいえ、もう後戻りはできない…。
残るほんのわずかな望みに賭け、金子はホワイトハウスへ向かいます。
しかし、そこで金子を待っていたのは驚くべき光景でした。
ホワイトハウスに着くや否や、なんと玄関の奥の官房から、先に待っていた3,40人の訪問者をかき分け、大統領自ら廊下を走ってきたのです。
そして、金子に向かって、
「なぜ君はもっと早く来なかったんだ。僕は待っていたのに。」
と、肩を抱き合って大喜びし、執務室へと招き入れてくれました。
そこで、金子が恐る恐る訪問の事情を話すと、中立の布告を出した直後にもかかわらず、
「金子の頼みなら」
と、二つ返事で快諾。
これはまさに、金子が20数年の歳月をかけて育んできた大統領との親交の賜物でした。
そして、日本文化に興味を示した大統領に対し、金子は名著『武士道』を贈りました。
すると、その内容に感激した大統領は、自ら『武士道』を30冊も取り寄せ、自分の子供、親戚有力な大臣や議員に配り、
「これをもって処世の原則とせよ」
と命じ、熟読させました。
それからというもの、なんと官邸の一部屋に畳を敷き柔道の稽古をするなど、一層日本贔屓になった大統領は、「日本の最良の友」として努力することを金子に約束してくれました。
伊藤の期待通り、大統領を味方につけ一層波に乗った金子は、その人脈をフル活用して全米各地を駆け回り、世論工作に獅子奮迅の活躍を見せます。
英語スピーチの達人で、抜群の社交性を誇った彼は、政治家・財界人・弁護士・大学関係者らのパーティーに引っ張りだことなり、各地で講演依頼が殺到。
米国に滞在した2年間で、大統領との直接の会見や晩餐会、私邸への招待は計25回以上。
高官、VIPとの会談、晩餐会、午餐会への出席は60回以上。
日露戦争、日本の立場についての演説・スピーチを全米各地で50回以上。
ニューヨークタイムズなど、有名新聞への寄稿5回。
またある時は、米国最大規模のカーネギーホールを3000人の超満員にするなど、大観衆を前に「日本軍の強さ」「武士道精神」を説明して感銘を与え、日本贔屓の米国人を日に日に増やしていきました。
そんな金子の活躍を見たロシア人から
「明日の演説では覚悟しておけ」
といった脅迫状・投書が何度も届いていたため、米国の警察は警備を打診するも、彼はこれを拒否し、
「もし私1人の死が米国人の同情に変わるなら、私は喜んで死にます。」
と、2年間一度も護衛をつけませんでした。
まさに『武士道」を体現したような金子の姿は、ますます米国人の心を掴みます。
ちなみに日露戦争では、「戦費調達」にも大きな問題を抱えていた日本だが、ユダヤの大財閥をも味方につけた金子の宣伝工作のおかげで全て解決。
彼が起こした波に乗って、日銀副総裁の高橋是清が大財閥を説得。
当時の日本の国家予算の5倍ものカネを集めることができました。これは、現代のカネにすると450兆円にも上る金額です。
さらに、戦況が進むにつれ、その都度ルーズベルト大統領は金子に対し、軍事の戦術面・外交面からアドバイスをくれましたが、その姿は、まるで“日本の参謀役“のようだと言われるほどでした。
1905年3月10日
しかし、「連戦連勝」の日露戦争も長くは続かず…、奉天までの勝利が限界でした。
日本は弾薬も尽き果て、兵士の戦費もなく、戦争継続はもはや困難に…。
一方のロシアは強大な兵力と武器を温存。これ以上長引けば日本は終わりという瀬戸際にありました…。
そんな時、日本を救うため、ここでも一肌脱いでくれたのはルーズベルト大統領でした。
国難を極めるとされたロシアとの講和を仲介し、ポーツマスでの会談をセッティング。
さらに、交渉が始まると、大統領はまるで“日本側の弁護士”のようだ…と言われるほど、交渉の秘密文書さえも金子に見せるなど、日本に逐一情報を渡し、その1つ1つにアドバイスをくれました。
明らかにロシアが有利な交渉であり、何度も決裂しかけたところをなんとか和平にこぎつけることができたのは、ルーズベルト大統領と大統領と、そして大統領と米国の有力者・世論を味方につけた金子がいたからでした。
こうして、日本はロシアの脅威を退け、日露戦争に勝利することができたのです。
それからしばらく経った後…、莫大な戦費を借り、ギリギリだった講和の仲介までしてもらい、大恩ある米国に対して、ある男が金子の努力を踏み躙り日本を破滅に追い込むという信じられない裏切り行為をします…。
この一件以降、ユダヤの財閥は日本を敵対視するようになります。
そして、あれほど日本贔屓だったルーズベルト大統領まで反日へと転換…。
日英同盟を破棄させる工作など、日本を国際社会から徹底的に排除する動きを見せていき、それが真珠湾攻撃への誘導、日米大戦、マッカーサーの占領へと繋がっていきました…。
さらに驚くべきことに、日本はこの時ユダヤの財閥から借りた莫大なカネをその後も国民の血税から延々と返し続け、1987年になって、ようやく返済したのでした。
日露戦争では、あれだけ大恩のある米国に対し、1人の男が日本を破滅に追い込む“大失態“を冒した一方で、卓越した英語スピーチと社交性を活かして、ホワイトハウス・大財閥・米国世論への広報・宣伝工作を大成功させた金子堅太郎。
ユダヤの大財閥を巻き込んで、たった1人で日本の国家予算の5倍もの金を集めた高橋是清。
203高地の戦いを指揮し、『武士道』精神で世界中から尊敬された乃木希典など、日本の教科書・歴史から消し去られた“誇り高き日本人”がたくさんいます。
そのような良い面も悪い面も含めて、日本という国を形作ってきた歴史の歩みを正しく知り、自国に誇りを持って生きていって欲しい。
日本人ひとりひとりが、そこから教訓を得ることで、正しい判断軸を持って希望ある新たな歴史を創っていってほしいと願いつつ、今回はこのあたりにしておこうと思います。
(👆 この記事は、まるで、ダイレクト出版からの、PRメールのようだ。🐧💦)
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アヘン中毒にさせられた中国とされなかった日本:
運命を分けた大英帝国の侵略術
幕末の志士が涙を呑んだ事件がありました。1858年、開国した日本はアメリカ・イギリスと条約を結びました。不平等条約の締結です。その内容は、
1.領事裁判権の承認
日本国内で外国人が罪を犯した時に、日本の法律ではなく、その外国人の出身国の領事が自国の法律で裁く。。。というものや、
2.関税自主権の放棄
他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本では決められない。。。というものなど、日本には不利なものばかりで、当時の志士たちは涙を呑むほかありませんでした…。
この不平等条約には教科書では教わらないもう一つの重要な事実がありました。それは、条約の第4条に明記されている歴史的にも重要なことなのに、大河ドラマや歴史の教科書では、決して表にはでてくることはない「日本へのアヘン輸入」が明記されていたということ。
「新しい国を作るんだ!」「腰抜けの徳川幕府を潰せ!」
そう息巻き、薩長土佐の15、16歳ほどの若い志士たちが中心となり起こした、日本が世界に誇る無血革命…明治維新。これより8年前のこと。
お隣の清国がアヘンイギリスに潰されていく中、危機感を覚えた日本が革命を起こし、近代化を進め欧米列強の支配を逃れた…
これが通説となっている明治維新ですが、皆さんはこう疑問に思ったことはないでしょうか?「隣の国がアヘンでボロボロにされているのに、日本にだけは本当にアヘンが入らなかったのか?」開国のとき、日本はアヘン中毒でボロボロになり負けていく清を間近で見ていました。実は…あの当時、確かに日本にもアヘンが入っていました。日英で交わされた不平等条約には、「日本へのアヘン輸入許可」がしっかり明記されていたのです。
「アヘンで国をボロボロにして立ち上がらせなくしてしまえばいい」そう考えたイギリスの戦略にはまってしまったのです…。イギリスの圧力でアヘンを吸わされ、日本も国をボロボロにされてしまうと、当時の江戸幕府は怯えていました…。
しかし、皆さんもご存知の通り、日本はアヘン中毒になることはなく、その後、明治日本はたった数十年で列強の仲間入りを果たすほどの急成長を遂げることになります。なぜ日本はアヘン中毒にならなかったのでしょうか?
その理由は、隣国の失敗から学んでいたからでも、日本人の規律がしっかりしていたからでもありません。理由は、私たち日本人ではなく、アヘン輸入を決めたイギリス側に存在していました。なぜイギリスは輸入を決めておきながら、清とは違って日本をアヘン漬けにしなかったのだろうか?日本を生かして利用したい“何か”があったのだろうか?明治維新に残る3つの謎を見ていくと、イギリスの日本侵略作戦の全貌が見えてくることになります…
・明治維新の謎①
明治維新の数年前から、中国のアヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”が、続々と日本にやってきて活動をしています。その中の代表格がイギリスのアヘン商社「ジャーディン・マセソン商会」彼らこそが、中国に大量のアヘンを売りつけたことで中国をボロボロにした当人です。そして、注目すべきは「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバーという男。皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。彼は当時、日本最大級の武器取引を手掛け、薩摩と密かに繋がりを持ち、薩摩・英国間で武器取引を斡旋してきました。そして、この密貿易の仲介者として、グラバーの代わりに表舞台で活躍したのが、かの坂本龍馬です。薩摩、長州、英国間の三角貿易を龍馬が表で動くことにより薩長同盟を成立させていました。これにより薩長同盟は無事に成立し、倒幕の流れに移っていきます。もし、このイギリス側の支援がなければ、志士たちの倒幕は叶わなかったかもしれません…。一体、アヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”は日本で何を企んでいたのでしょうか?
・明治維新の謎②
「長州ファイブ」と呼ばれるようになった男たち。男たちの名前は伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三。全員有名ですが、中でも伊藤は初代総理大臣を務め、知らない方はほとんどいないでしょう。この5人は、明治政府でとてつもない権力を持ち、要職に就いた男たちです。彼らは当時、最も栄えていた国、イギリスの大英帝国から近代化を学ぶ必要性を悟り、死罪を覚悟してまで密留学で渡英を決意し鉄道、工学、造船、金融などの最新技術を学び尽くしました。そして彼らは、文字通り「命がけ」で掴み取った功績を日本に持って帰り、日本近代化へ大きな影響を与えることとなったのです。
でも、ここで一つ疑問があります。そもそも、ほとんどが下級武士であった彼らがなぜ、イギリスに密留学することができたのでしょうか?今では考えられませんが、当時の日本は現代と違い鎖国に近い状態で、密留学は違法でした。さらに、留学をするには莫大な費用が掛かりました。実際に、彼らの掛かった費用は現代のものに直すと、約11億円。1人あたり2億円以上も掛かっていたことになり、かなり贅沢な留学であったことは明らかです。なぜ、このような贅沢な留学ができたのでしょうか?彼らが優秀で選び抜かれた人たちだったのでしょうか?いえ、決してそういうわけではありませんでした。
実際、長州出身の5人は下級武士。下級武士といえば武士の階級でも一番位の低い「足軽」と呼ばれた存在でした。常識的に考えれば、服装も貧相で留学に行くお金などあるわけもなく、間違いなく不可能であったイギリス留学。そんな状況にもかかわらず、なぜこの5人は留学することができたのか…。実は、そこには彼らを支援していたバックがいたのです。それこそが大英帝国の武器商人トーマス・グラバーです。彼が密留学の手引きをしていたのでした。
当時、“死罪”にもなり得る違法な蜜留学ですが、武器商人であるグラバーはいかにして彼らを手配したのか…しかし、それでも疑問なのは、なぜ一介の下級武士ごときにグラバーが支援をしたのか?金持ちの道楽でしょうか?ボランティアでしょうか?彼がいい人だったのでしょうか?いったい、彼にどんな見返りがあったのか…
また、さらに不可解なことは、長州ファイブの伊藤博文と井上馨は、もともとイギリスのことが嫌いでした。事実、彼らは蜜留学の4ケ月前、攘夷を叫んで英国公使館を焼き討ちしています。そんな英国を毛嫌いした放火犯たちが、わずか4ケ月後に英国本国に密航するという豹変ぶり…これはいったいどういうことなのでしょうか?グラバーは、彼らに何を吹き込んだのでしょうか?ちなみに、この蜜留学に掛かった11億円もの渡航費の出所は今も不明です。この5人の留学の裏側はいったい何だったのでしょうか?
・明治維新の謎③
HSBC(香港上海銀行)はイギリスの銀行で、もともと中国とのアヘン密輸で儲けた金を、本国へ送ることを目的として作られた銀行です。当時、日本では大量のお金が動くほどのアヘン貿易は行われていなかったはずですが、なぜか横浜支店が開設されていました…このHSBC銀行にはいったい何の役割があったのでしょうか。ここで面白いことに、HSBCホームページには「明治政府に相談され、お金の作り方を教えた」との記載があります。これはどういうことでしょうか?
実は、明治新政府になってから、新円を鋳造するため大阪に英国式建築の立派な「造幣局」が新しく作られています。その造幣局では20円金貨が作られていました。その重さは「20円金貨=31.3g」でイギリスの「1オンス=31.1g」とほぼ同じ重さ。その金貨は日本国内で出回ることなく、英国やアメリカへの輸入支払いのためだけに使われていました…それによって、12万トンにも及ぶ日本の大量の純金は、20円金貨へと形を変え、湯水のごとく国外へと流出していました…
造幣局100年史でも確認できますが、驚くべきことに20年以上にわたって、この造幣局の局長を入れ替わり立ち替わり務めていたのが「長州ファイブ」の男たちだったのです。イギリスがお金の作り方を教え、そのカネを自由に操れる場所にイギリスが支援した5人の男たちが入れ替わり立ち替わり務めている…これは偶然なのでしょうか?
ただ1つ確かなことは、薩長の若い藩士たちが成し遂げた「明治維新」をきっかけに、12万トンもの莫大な純金が、全て国外へと消えてしまったということ…ちなみに、今でもロンドン大学には「長州ファイブ」の功績を称える顕彰碑が建っています…
これらの謎をまとめてみると、イギリスが支援した幕末の志士たちが作った明治新政府は、イギリスからお金の作り方を教わり、さらに蜜留学した5人の男たちが、その造幣局でカネを自由に操っていた、ということになります…。アヘンを使い、自国の兵隊を消耗して敵国を滅ぼしカネを巻き上げなくても、狙った国の内部から政権転覆を謀り、利益を得るという手口を使えば、自国に犠牲を出さずともたくさんの利権を得ることができる…
これが全てイギリスの戦略通りだったとしたら…?
日本でアヘンが蔓延しなかったことにも繋がってくるのではないでしょうか…
ちなみに、一番最初に明治の新政府を認めた国はイギリスでした。もし、明治政府がイギリスにとって都合の良い政府なら、そう考えると見方が断然変わってきますし、全てが腑に落ちます。
例えば、明治維新には他にもこんな謎が残っています…
・実は「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバー…なぜ、薩長土佐の大物たちはこぞって長崎を目指したのか?
近年、グラバー邸で発見された隠し部屋で、いったいどんなやりとりがなされたのか?
・江戸無血開城を成し遂げた男:勝海舟と坂本龍馬のグラバーとの黒い繋がり…
なぜ、江戸幕府の大物である勝海舟が斬首にならず、逆に明治維新の重鎮にのし上がることができたのか?
・英国公使として来日した第二次アヘン戦争の首謀者:ハリー・パークス…
大阪城で行われた徳川慶喜との会見で一体何を話したのか?なぜ、その直後に慶喜は上野に逃げ帰り、突然お寺に謹慎してしまったのか…。
100万の幕府軍があっさり戦闘を放棄した本当の理由とは?
・造幣局、東京駅、日銀など、日本を代表する建物が、なぜ全てイギリス製なのか?なぜ、いまだに日本の新幹線ではイギリス英語が使われているのか?なぜ、江戸城の中、しかも石を投げたら半蔵門に当たるような特別な立地にイギリス大使館が作られているのか?
等々…
明治維新を日本国内だけの狭い視点からではなく、大英帝国=イギリスが目論んだ世界征服の一部という“広い視点”から見ることで、バラバラだった点と点が全て綺麗に繋がります。日本国内での出来事だと教わってきた明治維新が、実はイギリス大英帝国が世界征服をするための「明治維新・大作戦」だったとしたら、巨大な帝国の手のひらの上で転がされていただけの単なるフィクションだったとしたら…
もし、皆さんが明治維新の美しい面だけに目を向けていたとしたら、本当のことは理解できないかもしれません…そして、日本近代史の基軸である明治維新を間違って理解していたならば、常識だと思っていた歴史の全てが、いつの間にか間違いに間違いを重ねたものになっている…そんなことにも気付かないかもしれません…。
日本の近代史の根底となる明治維新が本当はどのようにして起きたのか?本当の歴史を知れば、皆さんの日本を見る目、日本人としての考え方は変わり始めるでしょう…大河ドラマや時代小説で語られている美しい虚像ばかりを信じさせられるのではなく、日本ではほぼ語られない本当の歴史を知ることも、一つの知識になり得るのではないでしょうか。
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○○○○さんの記事よりの転載です。こちらは山岡鉄秀氏からの転載ですね…。○○○○さんがUPされる記事は大変面白いのですが、残念な事に出典元がいつも書かれていないのです。どなたが書いたのか?わかりにくいので、なんだか紛らわしいのですよね…。下記も転載記事の転載ですので 👇 👇 👇 あしからず…。
日本は世界の変化について行けるか?
6月30日、ついに香港国家安全維持法が成立してしまいました。
これで、香港の民主主義的統治を担保していた一国二制度が事実上崩壊しました。
昨年の大規模なデモの発生から、いよいよ危うくなるだろうという予想はしていました。
香港がイギリスから中国に返還された後、香港はずっとサイレント・インベージョンを受け続けて来ました。
その手法は外国に対する浸透工作と同じで、じわじわと実質的なコントロールを奪うものでした。
香港が自発的に犯罪者引き渡し条例を可決するなどして、大陸化が進むことを画策したようですが、香港市民の強大な反抗に遭って、とうとうなり振り構わず強引な手法で香港の民主主義を殺してしまいました。
誰の目にも中国の脅威が明らかになった瞬間でした。
香港以上に、サイレント・インベージョンで散々やられたオーストラリアでも、今大きな変化が起こっています。
南半球(Down Under)の平和にうつつを抜かしてきたオーストラリアですが、ここにきて軍備拡張を決定しました。
全国紙のジ・オーストラリアンに、モリソン政権が2013年以来維持してきた防衛費のGDP比2%レベルを超えて、長距離ミサイル防衛システムを構築する計画を発表しました。
対象は明らかに中国に対してです。
ジ・オーストラリアン紙に載っているモリソン首相の言葉を和訳すると、
「私が知っていることは、世界が変わったということだ。
世界は1930~40年代以来、このような経済的、戦略的に不確かな時代は経験していない。
このことは我々が当該地域に対する意識を高め、能力を向上させることを要求されている。
我々は潜在的な敵をより遠ざけなくてはならない。
我々の態勢見直しの一部は敵を遠方に固定し、複数のパートナーと共闘することで、地域の平和と安全と安定というゴールを達成することだ。
オーストラリアは、新型コロナのパンデミックと戦いながら、同時にコロナ後のより貧しく、より危険で、より混乱した世界に備えなくてはならない」
と述べています。
チャイナマネーで中国寄りだったドイツやイタリアも香港の一件で、今の中国がどのような国かを認識し、世界の構図はどんどん変わり始めています。
30年前は「ボーダーレスワールド(国境無き世界)」という言葉が格好良く響き渡った時代を覚えている方もいるかもしれません。
20年前は通信技術の発達と共に、国際化がグローバル化という言葉に取って代わりました。
10年前はというと、世界のトップ100社から日本企業がほとんど姿を消しました。
そして2020年は、新型コロナウイルスによるパンデミックでサプライチェーンの世界分散、特に中国への過度な依存が危険であることが明白になりました。
グローバル社会における経済合理性と繁栄は、世界中が基本的に平和で安定を好むという大前提があることを人類は忘れていました。
このグローバル社会は、日本人にとっては適応が難しい社会でした。
世界は平和を好む国ばかりではないことがはっきりした今、ポストコロナの時代は大きく2つの陣営に分かれた上で、更にいくつかの陣営に分かれ、安全保障を第一に考えざるを得ない、より不安定で混沌とした世界に逆戻りしてしまいそうな気配が漂っています。
時代は刻々と変わっています。
香港の落日、そして平和国家だったオーストラリアの軍備拡張が、太平洋圏の来たるべきタフな時代の到来を物語っています。
果たして日本はこの変化にどのように対応し、危機を乗り切ることができるでしょうか?
今サバイバルに必要なのは、知識よりも強靭な思考力です。
日本の政治家に、オーストラリアのモリソン首相と同じことが言える議員がいるでしょうか?
確実に今言えることは、もはや遺憾砲をどれだけ東シナ海へ向けて撃っても、自国を護ることができない時代に突入してしまったということです。
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(こちらも、ダイレクト出版の宣伝メールなどからです…。なかなか良い話でした。津田梅子さんの事が良くわかりました。ダイレクト出版の記事とか宣伝動画から引用・転載されているこの方って、もしかしてダイレクト出版で働いている人なのかなぁ?と、妄想してしまいました。念の為お名前は伏せときます…。)
「 新5000円札の顔、津田梅子の目指した理想と成した偉業 」
2019年4月、新5000円札の肖像として選ばれた「津田梅子」。
現在の「津田塾大学」を創立し、現代の女子教育の礎を築いた女性なのですが、現在の日本には600近い私立大学がある中、なぜ彼女が新5000円札に選ばれたのでしょうか?
実は、彼女は単なる大学の創立に留まらない“偉業”を成し遂げていたのです。
彼女が成し遂げた“偉業”とは、どのようなものだったのか?
今回は、現代日本にも通ずる彼女の成功の秘訣と共に、津田梅子の生涯を紐解いてこうと思います。
1882年11月19日。サンフランシスコを出港したアラビック号が、横浜港に入る直前の船室で梅子は手紙を書いていた。
“もうあと1日です。到着は目の前です。
到着は昼間ですから、願っていた通り、船が東京湾に入る景色、近づいてくる日本の土、富士山が見えるはずです。
目を閉じて、ああ、こんな日が本当にやってくるなんて、こんなことが今までにあったかしらと、明日のことを想像しています。
あんなに夢見ていたものが、あれこれ想像していたことが、今、目の前にやってくる。
明日、私の人生の新しいページがめくられます。
どうか、素晴らしいものでありますように!”
6歳にして別れを告げた故郷、日本。
当時18歳の梅子は憧れにも似た期待に胸を膨らませ、日本に降り立った。
欧米諸国の成功の秘訣や進んだ技術を日本に取り入れるため、50名以上もの留学生が国費で送り出された「岩倉使節団」。
当然、帰国した留学生たちには、外務省のイスや専門性を生かせる職場、現在の東大である開成学校でのさらなる研鑽など、国のために欧米への留学で学んだことを生かす道が待っている。
・・・はずだった。
しかし、11年の留学を終え、帰国した梅子を待っていたのは日本の男尊女卑の現実。
男子留学生たちに待っていたエリート街道は、梅子をはじめとする女子留学生たちには用意されていなかった。
「幼くては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」
そんな儒教の教えが浸透していた明治日本。
「男性を支え生きること」
それが女性の価値とされた当時、女性の学問は「指導者たる男性の妻」として社交の場に出るための教養にしか過ぎず、女子留学生たちに“働く”ことは求められていなかった。
そんな明治日本の男尊女卑の洗礼を身を以て体験した梅子は、日本女性たちの地位を引き上げたい。
そんな思いを日増しに強くしていった。
しかし、帰国から1年足らず…
梅子の前途を揺るがす大きな事件が起こる。
梅子と共にアメリカ留学から帰国し、共に日本で女性のための学校を作ろうと計画していた同志の“捨松”が結婚してしまったのだ。
梅子より8歳年上で、アメリカ留学中に大学まで卒業していた捨松に対し、高校までしか教育を受けられなかった梅子。
女性のための大学設立は捨松が中心となり、梅子は彼女を助ける形で進める心算だった。
そのため、捨松の結婚は梅子にとって非常に大きな痛手となった。
さらに、結婚をせず、男性と対等な女性の地位と個性的な生き方を夢見る梅子には周囲から批判が集まり、梅子は孤独を深めていく。
働き口もなく、同志も失い、周囲からは批判の目に晒される…。
それほどの困難の中、彼女の決断を支えたのは、たった1つの想いだった。
「梅子一人が使ったお金で、日本では贅沢をして優に一家族を養える。国がそれを支払ってくれた以上、働いてその負債を返さなければならない」
そう父親に語って聞かされていた梅子。
国民のお金を使って11年もアメリカで学ばせてもらった以上は、母国のために尽くし、恩を返さなければならない。
梅子は20歳にも満たない若さで、そんな覚悟を痛烈に抱いていた。
それからおよそ20年…。
紆余曲折を経て、梅子は大学設立を果たした。
その名も「女子英学塾」。
普通の日本家屋を校舎として、わずか10人の塾生で始まった。
1900年9月14日。
大学の開校式で、梅子はこう語った。
「英語の専門家になろうと努力するにしても全い婦人『allround women』となるように心がけねばなりません」
身を立てるための専門性“英語”の習得だけに留まらず、広い視野を持ち、人間としての奥深さを磨くことも学生に求めた。
男尊女卑の元となっていた儒教の教え…、そんな呪縛から塾生たちを解放するためキリスト教を伝える一方で、書籍『武士道』を講義に導入したり、講師として『武士道』の著者である新渡戸稲造を招いたりと、日本の精神を説き、
「英語をしゃべっても、日本人Spiritを忘れるな」
と学生たちに教え続けた。
洋装の女性たちが「新しい女」ともてはやされた文明開化の時代の流れの中、梅子はほとんど和服で過ごし、手紙は巻き紙に毛筆でしたためるなど、日本人らしい美しさを体現し続けた。
梅子が掲げた教育理念は「自助」。
女性自身が努力し、自分の人生を切り開くための教育を目指した。
実際、第一回卒業式での卒業生8名のうち5名が、女学校などでの教職に就き、更にそのうちの1名は後にボストンの大学へと留学。
まさに、女性たちが自らの足で立ち、自分の人生を歩めるように育て上げることに成功した。
女性の学問を「上流階級の奥方の身だしなみ」から、「女性が自らの人生を生きるための武器」へと変えたのである。
女子英学塾、現在の津田塾大学を設立した津田梅子。
彼女は単に「女子のための大学」を作っただけに留まらず、明治日本の「男尊女卑」という価値観と戦い、女性活躍のための礎を築いていきました。
そんな彼女の下地を作ったのは、アメリカでの生活。
英語をはじめとする学問やキリスト教の信仰、そして実際にアメリカの女性の在り方を見て、その中で生きてきた経験でした。
そして、「何もかもアメリカのようになること」を目指すのではなく、愛国心を原動力とし、日本の精神や文化に対するリスペクトを抱きながら、アメリカから学ぶべきところだけを取り入れる。
そんな形で実践したからこそ、「女子英学塾」は「津田塾大学」と名を変えながらも100年以上の時を超え、“女性が自立するための教育”も日本にしっかりと根付いたのではないでしょうか?
梅子が生きてきた時代と同様、現代も女性の地位向上、女性の活躍が課題となっています。
出産や育児のための退職は後を絶たず、女性の管理職は全体の1割に満たないばかりか、つい最近では医学部入試で女性の受験生が減点されていたことが発覚するなど、女性の活躍には高い壁が立ちはだかり続けています。
その解決策と言わんばかりに、最近ではまるで男女の差がないかのように考える「ジェンダーフリー」という欧米の思想が声高に叫ばれているものの、実際的に女性の社会進出には繋がらないどころか男女の対立を生み、日本人が本来持つ「男らしさ」「女らしさ」という人間の美学すら失われようとしています。
日本の持つ文化を一切無視して欧米の思想を真似するのではなく、日本の魂を土台に欧米の学ぶべきところのみを取り入れる。
現代の日本に必要とされているのは、まさに、津田梅子が実践した女性の地位向上なのではないでしょうか?
もしかしたら、それこそが令和になって彼女がお札に選ばれた理由なのかもしれません。
少子化で人材不足が問題になりつつある日本。
人口の半分を占める「女性」を活躍させることができないまま、近年ではとうとう人材不足の解決を外に求め、2015年には世界4位の移民大国になったばかりか、2019年4月には「移民法」を制定。
気付けば、コンビニに飲食店にスーパーにと、外国人労働者を見ない日はないほどになってしまっていますが、移民で人材不足を補うことは大きなリスクを伴います。
実際、日本よりも先に人材不足を移民によって補おうとしたドイツでは、ドイツ人自身が少子化に伴い人口を減らしていく一方で、移民の背景を持つ人々は2世、3世などの出生や新しくドイツに移住してきた人などで年々増加。
文化の違いからくる摩擦や「生活保護」のような補助金の悪用、治安の悪化などの問題が起きています。
とくに、2008年以降から日本に来る移民は中国、韓国という反日国の出身者が大部分を占めているのが現状です。
もしも、このまま移民の受け入れが続けば、子供や孫の時代には治安が悪化し、国の税金は移民2世、3世のために使われ、日本の美しい文化は破壊され、現在の日本は跡形も無くなってしまっているかもしれません。
人材不足を移民に頼らないためには、人口の半分を占める女性の活躍が欠かせないのではないでしょうか。
それも、出産と育児が両立でき、決して少子化が進まないような形で。
男尊女卑が強かった明治時代、自らの道を切り開いた津田梅子に学び、日本人としての持ち続けたい大和魂と学ぶべき欧米の利点を知ってほしいですし、現在の日本が失いつつある「男らしさ」「女らしさ」、人間の美学を取り戻してほしいと、拙生は切に願っています。
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「 プーチンが粉砕した大富豪の希望〜見え隠れする覇権国家と名門財閥の影 」
2006年2月 G8首脳会議
「今、世界には3つの大問題がある…。『不安定なイラク』『核兵器を持つイラン』そして、『プーチンのロシアだ!』」
中東やイスラムと一見関係がないにも関わらず、目をつけられたプーチン。
そして、ソ連崩壊で終わったと思われた米露の対立。
今になって、これほどまでにアメリカがロシアを敵視する理由は一体何なのか?
日本のメディアでは、ほとんど取り上げられていないが、その発端はプーチンが大統領に就任した直後、ロシア国内で起きた大富豪粛清事件まで遡る。
1991年12月 ソ連崩壊
2,600%もの強烈なハイパーインフレに襲われ、ロシアの通貨は紙クズ同然となった。
ほとんどの国民が一文無しとなる中、密かに富の半分を独占した7人の男たちがいた。
彼らは、国営企業が軒並み民営化されるタイミングを見計らい、その株式を格安で買い漁っていった。
いつしか彼らは“新興財閥”と呼ばれるようになり、新生ロシアのメディアや銀行、石油、ガスなどのインフラ、さらには次の大統領さえも自由に決められるほどの力を持つようになった。
しかし、その栄華も長くは続かず、2000年にプーチンが大統領に就任するやいなや状況は一転。
欧米式の資本主義を嫌うプーチンは、彼らの粛清に着手する。
まずは、最大の大物2人を国外へ追放することに成功。
その次に目をつけたのが、国内最大手の石油会社『ユコス社』を保有し、新興財閥のNo.3として君臨する“ミハイル・ホドルコフスキー”だった。
後にプーチンは、この男を脱税などの罪で監獄送りにし、ロシアの石油利権を取り戻すことに成功するが、この行動が欧米の支配者たちを激怒させる引き金を引くことになった。
当時、相次ぐ大物の粛清に「明日は我が身」と怯えていたホドルコフスキーは、イギリスへと渡る。
ユダヤ系だった彼が支援を求めたのが、あの『ロスチャイルド家』だった。
ロシアの資源を見返りに、世界最大の財閥からお墨付きを得た彼は、欧米の支配者たちと共に“ある財団“を設立する。
その名も『オープン・ロシア財団』。
理事にはロスチャイルド卿の他、アメリカの大物政治家たちも名を連ね、その名の通り、これは欧米からプーチン・ロシアへの宣戦布告を意味していた。
ロスチャイルドの支援により、欧米の支配者層が集う社交界への伝手を得た彼はアメリカに渡る。
2003年6月には、アメリカの研究機関主催の国際会議に、ロシア人として唯一参加。
アメリカ副大統領と関係を構築した彼は、ついにユコス社をアメリカ石油大手に売り渡す交渉を切り出した。
当時、“10年以内に国内の石油が枯渇する”との調査結果が出ていたアメリカ政府の高官たちは、中東をはじめ、国外の石油資源確保に血眼になっていた。
そんな中、ロシア最大手の石油会社が持つ利権が手に入るとは、これ以上無い申し出だった。
プーチンと戦うため、世界の覇権国家アメリカを味方につけたいホドルコフスキーと石油利権を求めるアメリカ政府の思惑は見事に一致。
ロスチャイルド家、アメリカ政府を味方につけた彼は、
「これでプーチンも手が出せまい」
と安堵したことだろう…。
しかし、その予想に反してプーチンは売られた喧嘩を買う。
2003年10月、彼を電撃逮捕し、その全ての財産を凍結。
あっという間にユコス社は解体され、ロシアの石油の大半をプーチンが掌握。
莫大な石油利権を握りたい欧米の支配者たちの思惑は、脆くも崩れ去った。
これに対し、もちろん彼らは黙っていなかった。
「ホドルコフスキーはロシアの政治的な理由で利用された!人権侵害だ!」
とプーチンを痛烈に非難。
すぐさま反撃の手立てを用意する。
ホドルコフスキーが逮捕されて間もなく、ロシアと国境を接する旧ソ連諸国で、次々と不可解な革命が勃発する。
そして、もともと新ロシアだったほとんどの政権が倒れ、“親欧米政権”へと姿を変えていった。
ちなみに一連の革命の背後には、アメリカの情報機関NGOがいたことが分かっているが、この革命の結果、2006年にはロシア勢力圏の頭を超えて、欧州へと石油が輸出されるルートが完成。
資源頼みのロシア経済に、大きな打撃を与え続けることとなる。
この一連の事件によって再開されたロシアとアメリカの戦いは、その後のリーマン・ショック、中東での戦争、中国を巡る同盟など、現代までずっと続いている…。
表向きは単なるロシア国内の権力争いのように見えたじけんでしたが、その実態は、世界の支配者同士が争う“石油利権争奪戦”でした。
イラク戦争、中東紛争、シリア内戦など、日本ではその意味や背景がほとんど報じられない戦争も、事実を追っていけば、ほとんどが大国の支配者たちによる石油などの“エネルギー資源”を取り合う争いだということが分かります。
最近まで多くの日本人は、その事実を教えられず、すっかり忘れ去られてしまいましたが、日本が戦うことになったあの日米大戦も、石油などのエネルギー資源を巡る争いでした。
米英をはじめとする大国に、石油供給を止められた日本は、ついに耐えきれなくなりアメリカを攻撃。
一方で、有り余るほどの石油を持っていたアメリカは陸・海・空、あらゆる場面で日本を圧倒したのです。
このように、今まで報道を見ていただけでは一見意味が分からなかった戦争や事件も、大国の支配者同士のエネルギー資源を巡る争いという観点から見ると、全ての点が線で繋がり、スッキリと理解ができます。
実際、この世の中には、大多数の一般大衆とほんの一握りの支配者層が存在しています。
その中には、大国の指導者や政府高官もしくは国を牛耳るほどの超富豪がいて、世界の次なる覇権の座を狙って水面下で激しい闘いを繰り広げています。
このような戦いは、何も今に始まったわけではなく、15世紀の大航海時代から現代まで、主役とライバルが移り変わりながら絶えず続いています。
はっきり言って、彼らにとっては日常茶飯事のようなものですが、そのとばっちりを受けて火の粉を被るのはいつも私たち…。
本当のことは何も知らされず、単に彼らが流す情報を鵜呑みにする庶民なのです。
こういった支配者層の思考やモノの見方を知らなければ、事が起きる段階になって初めて気付き右往左往します。
しかし、支配者の彼らにしてみれば、それは全て想定の範囲内。
何年も前からの計画を只々実行しているだけなのです。
大事件や戦争さえも事前に計画だなんて物騒な…、陰謀論か?
と反射的に抵抗を示してしまう人もいるかも知れませんが、身近な例に置き換えれば、どの会社も業界への生き残りをかけ、シェアで1位を取るため社長はじめ経営陣がいろいろな施策を計画し、実行しているはずです。
たとえ経営状態が良かろうが悪かろうが、一般社員は実際に起こるまで知る由もありません。(実際、リーマン・ショックの後、いきなり解雇を命じられたり、会社が倒産した人もたくさんいましたので。)
たくさんの会社や個人が集まって“国家”という集団を作っているわけですから、国家も同じように運営されていると考えても何もおかしくはないでしょう。
支配者たちの考えていることや見ている世界は、私たち一般人とは全く違う。
しかし、彼らと接したり、彼らに近しいものと接したり行動する中で、そこには一定の法則があることに気付きました。
支配者の中には良い人悪い人、極悪人と色々なタイプの人がいますが、不思議とその思考やモノの見方は共通しています。
拙性が今から支配者になることは難しいですが、その法則さえ分かってしまえば情報の読み解き方が分かるので、世の中で起きている本当のこと、これから何が起きるのかという未来のことも自然と分かってきます。
それを元に行動すれば、危険や損を事前に回避することも逆に利益を得ることもできるようになります。
そして、その法則の1つが“経済覇権”。
通貨とエネルギーの確保です。
基軸通貨を握るものが世界を制し、エネルギーは平和よりも重要。
これを得るためなら謀略や情報操作、戦争さえも辞さないというのが、支配者たちに共通する思考パターンの1つです。
現代ではテレビ、新聞、雑誌、さらにはインターネットで膨大な量の情報が手に入ります。
しかし、
「昔より世界のことがよく分かるようになったか?」
と言われると、必ずしもそうとは言い切れないのではないでしょうか。
むしろ、取れる情報が多くなった分、
何が真実で何が間違っているのか?
一体誰を信じたら良いのか?
と、逆に混乱してしまう…。
そんな事が起きているようにも思えます。
世界情勢を読み解くにあたっても、たとえ手に入る情報が昔の何十倍、何百倍に増えようと、それを読み解くための法則や分析の仕方を知らなければ、何が重要かは全くわからないまま。
ただ膨大な情報が右から左に流れていくだけで、分析も予測もできず、昔と何も変わらない状態になってしまうでしょう…。
でも、一度正しいフィルタを手に入れれば、たとえ今と同じようにインターネットや新聞で情報収集していたとしても、その見え方はガラリと変わります。
意味ある情報だけが目に入るようになり、今起きている本当のこと。
これから世界がどうなっていくのかをメディアやコメンテーターに頼るのではなく、自分自身である程度分析できるようになるでしょう。
もし、この法則を知らないまま闇雲に情報を取っていても、正しく有益な情報を取捨選択できずに、宝の持ち腐れになってしまいます。
さらには、点でバラバラで背景が分からず、全く面白く感じられないばかりか、一向に本当のことが分からず、むしろたくさんの情報で混乱は深まるばかり…。
そして、私たちの生活に影響を及ぼす重大な事件や戦争が実際に起ってから、ようやく気付いてあたふたさせられることになり、時には投資で大金を失くしたり、会社の給料が減ってしまったり、最悪の場合はクビになったりと、いざという時に大切な家族を守れません…。
しかし、当時このような法則を知っていて、情報を分析することで事前に危機を察知していた人たちは、何年も前からそれに備え、被害を最小限に抑えることができました。
賢い人たちは株を事前に売却して、暴落後にまた投資をしたり、経営者なら大きな投資は控え、堅実な収益の柱を作るなど、そこから利益を得ることもできました。
皆さんには、今までと同じ間違いを繰り返し、余計な損を被ったり、不利な思いをしてほしくはないですし、正しく世界の動きを把握することで、事前に危機を察知して回避するだけでなく、あわよくば賢く利益を得られるようにもなって欲しいです。
そして、漫然と流れてくる情報を受け取るのではなく、その裏も表も見通すことで、ただのテレビや新聞でさえ、毎日、情報を取るのが楽しくなるよう、一生涯をエキサイティングで、彩りある日々に変えるようなきっかけを得て欲しいと思います。
(こちら👆も、ダイレクト出版よりの情報ですね。)
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「 満州国とユダヤ人計画 」
1931年9月18日22時20分…
静寂を爆破音が貫き、暗闇が一瞬、赤く染まった。
「南満州鉄道が爆破された。中国軍による不法攻撃だ」
「今すぐ出撃せよ」
闇の中で始まった中国軍との銃撃戦は明け方まで続き、翌日までのわずかな時間で満州南部の3都市を占領。
その後も関東軍は止まるところを知らず、日本の国土の5倍にあたる満州の地をたった5ヶ月で制圧。
満州事変のきっかけになった南満州鉄道の爆破。
これが中国軍の犯行ではなく、関東軍の自作自演であったことは後に発覚しますが、実はこの爆破工作は、日本政府の指示で行われたものではありませんでした。
それどころか、
「満蒙といえども、外交に関しては外務大臣に一任するべきであって、軍が先走ってとやかく言うのは甚だけしからん」
と、昭和天皇をはじめとする宮中からの牽制すら受けていた中での独断でした。
その後も、閣議決定された戦線不拡大の方針を無視して関東軍は暴走。
昭和天皇が「まかりならん」の一点張りを通す中、司令官の独断で行われた朝鮮軍の増援など、満州事変は命令違反、現場の独断、暴走の連続でした…
この満州事変を画策した男こそ、帝国陸軍の異端児と呼ばれた謀略の天才、石原莞爾です。
昭和天皇の意向を無視し、独断で満州事変を進めた石原。
彼は、満州に未来を託していました。
世界恐慌に端を発する昭和恐慌と、凶作に苦しんでいた当時の日本。
都市部では失業者が溢れ、農村部では餓死者が続出、娘の身売りが横行。
石原は解決策を満州に求めました。
満州に進出すれば、軍事産業で雇用は回復。
不景気で「モノが売れない」日本に代わる新しい消費市場も、農業のための広大な土地も手に入る。
日本が抱える国内問題を一掃できる、そう考えていました。
それだけではありません。
「第一次世界大戦は『準決勝』に過ぎない。『最終決戦』として日本と米国が衝突し、勝者が世界を統一するべきだ」
そんな野望を抱いていた石原は、来たる米国との決戦に備えるため、主要なエネルギー源であった石炭、砲弾を作るための鉄、戦闘機に不可欠なアルミニウムなど、豊富な資源が眠る満州を日本の国力・軍事力育成の基盤にしようと目論んでいました。
「人口が膨れ上がり、食料問題でも行き詰まりを見せている日本は、せっかく獲った権益を守り、これを足掛かりに、満蒙で活路を開こうとするのは当然のことではないか」
石原はそう語っていたといいます。
満州に目をつけた日本人は、当然、彼だけではありませんでした。
例えば、
現在の日産自動車、日立、損保ジャパンを作った鮎川義介
安倍首相の祖父であり、自身も戦後の総理大臣として活躍した「昭和の妖怪」岸信介
ヒトラーやスターリンとの提携、日独伊三国同盟を結んだ外務大臣、松岡洋右
日米対戦中の内閣総理大臣、東條英機
日中戦争の司令官を務め、陸軍大臣まで上り詰めた、板垣征四郎
などといった日本の中心人物が揃い、
「日露戦争の損害を満州での稼ぎで埋めよう」
と国内予算と同等の金を満州に費やしました。
商売人たちも、関東軍のバックアップのもと、莫大な利権を手にしていました。
そして彼らは、満州を日本の「金のなる木」にするため、ユダヤ人を利用しようと計画します。
ユダヤ人といえば、金儲けや学問に秀でた一方で、世界中から恐れられ迫害される民族。
上手く使えば富をもたらすが、間違えば国を乗っ取られるという猛毒に晒される…
そんな背景から、その計画は「フグ計画」と呼ばれていました。
迫害に苦しめられていたユダヤ人は、唯一歩み寄った日本のために、続々と満州に集まり力を貸していきます。
(うまくいけば、ユダヤ人国家イスラエルは満州にできていたかもしれません)
全てが順調に見えていた日本。
しかし、
「すべては満州から狂っていった。」
「日本は、満州という魔物の中に入って行って、前後不覚になった。」
莫大な利益を見込める満州を狙っていたのは日本だけではありませんでした。
中国も豊富な資源を求め、領土拡大を狙っていました。
ロシアは大陸南下政策のために満州を支配する日本が邪魔で仕方ありませんでした。
また、アメリカは世界の覇権を握るためユーラシア大陸に支配を広げようと、日本を通じ、満州へ出資を行おうとしていました。
そんな中、莫大な利権に目が眩んだのか…、関東軍は暴走を始めます。
様々な国家の思惑が絡み合う危険な地、満州の利権を、すべて自分たちで独り占めしようとしたのです。
そのことで日本は、世界中から睨まれる存在となっていきます…。
そして、関東軍がある事件の対応を間違えたせいで、ユダヤ人でさえも満州から去っていく羽目になります。
明治維新後、先進国の仲間入りを果たし、順風満帆に見えていた日本は、満州に手を出したせいで、元は友好関係にあったアメリカとも対立し、日米全面戦争に向かい、国家滅亡の危機に立たされることになります。
事実、日米開戦の争点となったのは満州でした。
アメリカは、最後通牒と言われるハル・ノートに「満州を完全放棄しろ」と書いて送って来たました。
そして、日本は真珠湾攻撃を決行することにります。
日本の生命線に思えた満州。そこは、各国の思惑と利権が絡む、危険な場所だったのです…。