「世界の4大文明」 は、 梁啓超👉中国人…による政治的【プロパガンダ】 だった。 あ〜、また騙された…
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( 田中英道氏 情報を転載します )
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「世界四大文明」説の知られざる起源…
「世界の四大文明は?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか? おそらく、かなりの日本人が「エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明」と答えるでしょう。なぜなら、中学の歴史教科書でそう教えているからです。
しかし、、「四大文明」説に「学問的根拠は無い」と言い切った方がいます。それが・・東北大学名誉教授の田中英道氏です。その根拠を引用すると・・
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「四大文明」は梁啓超(1873~1927)という中国人が唱えたもの。この人は歴史家ではなく、ただのジャーナリストであり政治家です。そんな彼が「20世紀太平洋歌」(1900年)と言う詩で触れたものに過ぎず、日本で定説になっている「世界四大文明」には学問的な根拠は無いのです。
日清戦争(1894~1895年)で敗れた後、梁啓超は日本に亡命、中国の近代化を目指し、日本に学び、言論活動を展開しました。そうした中で彼は中国を奮い立たせるために「四大文明」をこしらえ、そこに「黄河文明」を入れたのです。
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こうした人物の「意見」を日本で「定説」のように取り上げたこと自体がおかしいのです。・・・これにより、日本は「四大文明」である中国の文明的従属国だという認識を多くの日本人がもってしまったのです。
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( [ユダヤ人埴輪があった! 日本史を変える30の新発見] 田中英道:育鵬社より一部引用 )
中国大陸や朝鮮半島で作られた歴史のプロパガンダで自虐史観に陥る… これは、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」によって、私たちが戦後、常に謝罪をさせられてきたのと同じ構造ではないでしょうか…
しかし、その一方で、、史実をきちんと紐解けば… 日本には中国に勝るとも劣らない、独自の偉大な文化があったと田中教授は言います。
~文化遺産を読み解けば、日本の、日本人の起源がわかる~
中国から伝わった文献だけではなく、神社や遺跡。土器や土偶など、日本各地に残された様々な文化遺産を紐解き、それを文献と照らし合わせることで、日本の古代史の謎。日本神話の謎さえも読み解けるようになる。美術史研究のバックグラウンドを武器にした、独自の研究手法によって、田中教授はこれまで通説を覆す論文を多数発表してきました。
“「日本には文明がなかった」そう言われることがあるが、そんなことはありえない。遺跡を紐解けば、日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼がいたとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていた。その中心は、関東・東北であり、そこには大きな”国”があったのだ。」
事実、世界では普通、西欧・東正教会・ラテンアメリカ・ヒンドゥー・アフリカ・イスラム・中華・日本文明。
これら八つの地域が世界を代表する文明の発祥地とする「世界八大文明」説(「文明の衝突」サミュエル・ハンチントンが提唱)が一般的に教えられている。
遺跡を読み解けば明白だが、「世界四大文明」というのは全く根拠のない内容であり、学術的価値は無い。
「四大文明」を教えているのは日本だけである。
ただの文献だけに頼らず、先人たちが遺した神社や、文化遺産を丁寧に読み解けば・・
なぜ旧石器時代の遺跡は関東・東北地方に集中しているのか?
縄文時代の人々は、背が高く、顔の彫りが深く、アジア系ではない骨格なのか?
日本に定住してきた人々はどんな民族だったのか?そのルーツはいったいどこなのか?
そんな、日本だけにとどまらず、世界的な視点から、私たちの祖先を紐解くことだってできる、と…”
このようなことを無視した、【 戦後の左翼・マルクス主義に染まった 】従来の歴史観。文献だけの狭い研究が蔓延る中では、日本という国の本当の姿は、なかなか見えて来ない…
その結果、子供の頃から「日本は遅れていた」と学校で教わり、ただの年号や出来事を覚えるだけの歴史に全く面白さを感じられず、自国の歴史に興味を持たない…
本当のことを知れば、日本ほど神秘的でユニークな歴史を持つ国。天皇を中心に、脈々と文化・伝統が受け継がれてきた国は他にないのに、その素晴らしさに気付くことができない…
そんな状況では、当然ながら多くの日本人が自国に誇りを持つことは難しいでしょう。
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( by 田中英道 氏 )
今、現代のことばかりを考える人が多くなり、「過去はもう忘れていいの だ」、あるいは「過去というのは、進歩の前ではほとんど考えるに値しない のだ」というような考え方が非常に多くなっています。 このことは、今回のコロナウイルスに対する世界の反応にも大きな影響を及 ぼしているのです。
皆さんご存知の通り、コロナウイルスは2002年~2003年に感染爆発を起こ したSARSと同様、中国から発生し、今や世界中で死者30数万人を超える被 害になっているのですが、これはわずか100年前に大流行し、全世界で 4,000万人から9,000万人の死者を数えたスペイン風邪と比べれば、その規模 は全く小さなものなのです。
それにもかかわらず、まるで「歴史上初めての経験」のように世界がパニッ クになっているのですが、それは歴史に対する知識がないためで、この程度のことでパニックになる現代というのは、決して進歩しているとは言えない のではないでしょうか。
話は変わりますが、今回私は美術史のドクター論文をフランスで書いてまい りました。 これまでにもフランス、イタリア、ドイツに留学し、ヨーロッパについて理解することができましたが、同時に日本の素晴らしさについても分かったのです。
日本は今まで、世界の美術史の中で不当に扱われてきました。 例えばジャンソンの『美術の歴史』では、日本のことにはほとんど触れられていません。
同様に、世界の文化史においても日本はほとんど添え物のような存在でした。 それは、日本人が日本の文化をきちんと紹介、あるいは発表していないから なのです。
私はもう78歳になりましたけれども、いまだに現役のつもりです。 大学を辞めて以後、このようなある意味での啓蒙運動をやっているのですけ れども、それは「日本のことをもっと世界に知らせなくてはいけない、皆さ んにもその良さを知らせなくてはいけない」ということを私の使命として、 この生涯をかけてお話ししたいと思うからなのです。
先ほど述べたような、「現代が一番いいのだ」という戦後の考え方からすれ ば、「はっきり言って、過去なんてどうでもよい」というものの見方になっ てしまうのですが、これはとんでもない話です。
皆さんの中を流れている血というものは、日本の原初、縄文の時代から形成 されていて、それが皆さんの思考や精神性の中に今も残っているのです。
現代では血液検査が非常に発達し、DNAや染色体を分析することで、皆さ んがどこからやってきたのか、その起源がすべて分かってきているわけで す。
そういう観点から見ても、改めて歴史をわれわれの中に取り返さなくてはい けないのです。まず注意しなくてはならないのは、西洋人が書いた歴史をそのまま受け売 りしてはいけないということです。
日本人の歴史、日本の歴史というのは日本人にしか分からない部分があ り、中途半端な知識だけでは書けないのです。 これまでの世界の歴史の中で、日本がほとんど登場しないのはそのためで す。
たとえ登場したとしても、「明治以降、日本はアジアの中で珍しく近代化 し、そして西洋のまねをして帝国主義になった」などという部分だけが日本の評価につながっているのですが、それは全くの間違いですし、そもそも 「帝国主義」という言葉も西洋の造語なのです。
今から25年前、サミュエル・ハンティントンという人が『文明の衝突』と いう本を書きましたが、ここで「日本は8大文明の独立した1つだ」という ことを言っています。
今までは中国や朝鮮、大陸から来た文化を取り入れただけで、ある意味「中 国の属国」のように、あるいは「朝鮮からみんな来たのだ」というような ことを言われていたのですが、文化の研究が進歩することにより、これらは すべて間違いだということが分かっています。
またご存知の通り、日本人は朝鮮人や中国人と全く違うDNAを持っていま す。
それらのことから、日本が自立した文明を持ち、そのすべてがユニークで立 派なものであるということを、はっきり認識する必要があるのだろうと思うのです。
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「世界の4大文明」は中国人のプロパガンダ だった!
なんと、「世界の4大文明」はちゃんとした歴史学者が唱えたわけではなく、ただのジャーナリスト・政治家である中国人がプロパガンダとして言ったことだった‼️
伊勢雅臣氏のメルマガ・・・田中英道教授の「日本史を正す」戦い」から転載。
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地球史探訪: 田中英道教授の「日本史を正す」戦い
縄文文明、高天原、ユダヤ人埴輪、、、田中英道・東北大学名誉教授の既存の歴史学との戦い。
■1.「世界の4大文明」は中国人のプロパガンダ
「世界の四大文明は?」と聞かれたら、かなりの人が「エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明」と答えるだろう。中学の歴史教科書でそう教えているからだ。しかし「四大文明」説には「学問的根拠は無い」と田中秀道・東北大学名誉教授は最新刊『ユダヤ人埴輪があった! 日本史を変える30の新発見』[1]で断言する。
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しかしこの「四大文明」は梁啓超(1873~1927)という中国人が唱えたもので学術的根拠はありません。ジャーナリストであり政治家であった梁啓超が、「20世紀太平洋歌」(1900年)と言う詩で触れたものに過ぎません。日本で定説になっている「世界四大文明」には学問的な根拠は無いのです。
日清戦争(1894~1895年)で敗れた後、梁啓超は日本に亡命、中国の近代化を目指し、日本に学び、言論活動を展開しました。そうした中で彼は中国を奮い立たせるために「四大文明」をこしらえ、そこに「黄河文明」を入れたのです。[1, p13]
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なんの事はない、「四大文明」とは歴史家でもないジャーナリスト・政治家の中国人が政治的プロパガンダとして言い出したものに過ぎないと言うのである。
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こうした人物の「意見」を日本で「定説」のように取り上げたこと自体がおかしいのです。・・・日本は「四大文明」である中国の文明的従属国であるというような認識を多くの日本人がもってしまったのです。[1, p15]
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大陸や半島で作られた歴史プロパガンダで自虐史観に陥る、というのは、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」と同じ構造ではないか。現在の歴史学の歪みを端的に現すエピソードである。
■2.日本独自の縄文文明
「中国の文明的従属国」という自虐的自画像を打ち砕いたのが、近年、明らかになってきた縄文文明の実像である。
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他の文明では、少なくとも九千年、あるいは八千年以前はすべて石器時代と呼ばれています。ところが日本では、すでに一万六千五百年、あるいはもっと前に縄文文明と言う特殊な指標を持っているのです。[1, p17]
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縄文文明の代表的な遺跡が、青森県の三内丸山遺跡である。田中教授は、こう解説する。
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三山内丸山の広大な遺跡は約四〇ヘクタールの範囲に広がっています。祭祀用の集会場として使われたと考えられる大型集会場が建設され、「太陽信仰」を表すと考えられる、直径一メートルに及ぶ太い六本の柱で高い塔が建てられていました。そのほか、大型竪穴住居が十棟以上あり、広場があって、約七百八十軒にもおよぶ住居跡は、機能的に配置されていました。
人口も住居跡数から推測すると三千人はいたでしょう。高床式倉庫があり、道路が計画的に建設されています。・・・
クリを常食としており、DNA鑑定をしたところ、栽培されていたこともわかりました。クリ、クルミなどの堅果類、さらにマメ、ゴボウ、エゴマ、ヒョウタンなどが栽培されていたことがわかっています。・・・また黒曜石、琥珀(こはく)、漆器、翡翠(ひすい)などが出土しており、各地との交易もあったことがわかります。[1, p17] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
1万6千5百年以上前にこれだけ進んだ日本独自の縄文文明があった事が判った以上、せいぜい8、9千年前の「中国の文明的従属国」という自画像は書き換えられなければならない。[a]
■3.「高天原」神話には縄文・弥生時代の記憶が反映している
田中教授は、古事記・日本書紀で語られる「高天原(たかまがはら)」についても、既存の歴史学説をこう批判する。
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高天原は神話の世界の話で、垂直方向に天を想定して考えられた国とされてきました。いわば非現実的なフィクションに過ぎず、特に戦後になると高天原は幻想であるとして無視されてきました。
また、『記紀』についても、「天武天皇、持統天皇、そして藤原家によって、高天原に天皇の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨される前に多くの神々がいたと書くことで天皇家の正統性を示す根拠とするために捏造されたもの」と言われてきました。
しかし私は、高天原の物語は単なる幻想や作り話ではなく、縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた話だと考えています。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
田中教授は、縄文時代の日本には関東、東北を中心に多くの村落が共通の神道信仰・文化で結ばれたゆるやかな祭祀国家「日高見国(ひたかみのくに)」があり、これが大和朝廷の前身だった。『記紀』の「高天原」記述は、この日高見国を神話化したもの、という学説を唱えている。その根拠として、以下が挙げられている。[b]
・縄文時代の遺跡の95%以上は関東・東北に集中している。
・特に鹿島地方(茨城県鹿島市)では6,7千年前の縄文前期からの土器や遺跡が多数見つかっている。
・江戸時代までの天皇家に関係する神宮は3つだけであり、その一つ、伊勢の神宮よりはるかに古い鹿島神宮、香取神宮が二つとも常陸(ひたち)の国にある。
・鹿島神宮に祀られている建御雷神(たけみかづちのかみ)は、「高天原」に成った最初の造化三神の一柱であり、天照大神よりも先に生まれている。
・『日本書紀』『常陸国風土記』などに、この地方に「日高見(ひだかみ)国」と呼ばれた国があった事が記されている。
記紀に書かれた「高天原」を「幻想」とし、「天皇家の正統性を示す根拠とするために捏造されたもの」と断定するためには、こういう数々の根拠を否定しなければならない。そういう学問的努力をする歴史研究者はいないようである。
■4.ユダヤ人が古代日本に様々な技術をもたらした
従来の歴史学では、縄文文明や日高見国など日本固有の文明を無視して、朝鮮や中国からやってきた渡来人によって、文明がもたらされたかのように記述していた。この点を田中教授は次のように言う。
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これまで、日本の歴史学で、「帰化人あるいは渡来人と呼ばれる人たちが日本にやってきていた」と言う場合、もっぱら朝鮮半島からやってきた人たちのことを指していました。
つまり、「朝鮮半島から来た人たちあるいは中国から人たちによって日本は作られた」と言うような考え方がされていたのです。[1, p84] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
しかし、あきらかにユダヤ人としか思えない埴輪が見つかって、この「考え方」を大きく揺るがせている。
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埴輪の中には、異常に鼻が高い人物埴輪があり、飛鳥時代以降の日本人の姿とあまりにも異なっています。特殊な冠や庇(ひさし)のある帽子をかぶり、耳元には鬢(びん)、つまり美豆良(みずら)がついており、顎髭(あごひげ)をはやしています。これはつまり、日本の古墳時代にユダヤ系の人々がいたことを端的に示しており、こういった特徴を持つ人物埴輪は、千葉県や茨城県など主に関東で発掘されています。[1, p76]
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埴輪だけでなく、DNAや神社の構造にもユダヤ人の影響が見られることは[c]で指摘した通りである。
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日本に渡ってきたユダヤ系の人々が、機織りの技術や絹の生産技術、あるいは農業技術、灌漑施設の建設技術、そして、古墳を作る土木技術などを持っていたと考えられます。それらは中国や朝鮮にはない技術だからです。
同時に彼らは日本に渡ってくる途中で入手したアジア各地での技術や物品をもたらしました。これが、天平時代、8世紀中頃に始まった「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャに至る広い地域の様々な装飾品や物の方が多く収められているのか、ということの理由と思われます。[1, p90] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この発見は「朝鮮半島から来た人たちあるいは中国から人たちによって日本は作られた」という考え方を覆すものである。
■5.聖徳太子の仏教導入の決断の後、日本の芸術が生まれた
『日本書紀』には、「法隆寺が670年に焼けた」という記述があり、そこから「今ある法隆寺は焼けたあとに建った」と考える人が大勢いる。
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現在ある法隆寺が再建されたものなら、焼ける前にあった法隆寺も聖徳太子が建立したかどうかわからない。さらに言えば、「日本書紀に書かれている事自体が疑わしいため、聖徳太子も実在していたかどうかわからない」という学者も少なくありません。
こうした聖徳太子不在説を戦後の歴史学の成果のように言っている人たちがいます。『日本書紀』『古事記』を資料批判の観点から研究し、「『記紀』は天皇家、つまり天武天皇と藤原家が自分たちの権力を守るために作り上げたもの」という認識を持つ人たちです。[1, p107] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
しかし、樹木の年輪から年代を測定する正確な方法によって、法隆寺五重塔の中心に立てられている心柱は推古天皇2(594)年、すなわち聖徳太子が摂政をされていた時のものである事が明らかになった。焼けたのは法隆寺のそばの若草伽藍(がらん)という建物で、現在我々が見ている法隆寺は、聖徳太子が建てたものであることはまちがいない。
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聖徳太子は、日本人にとって神道という共同宗教だけでは不十分で、個人宗教の仏教を取り入れるべきだ、とお考えになりました。それで仏像を拝む精神を導入したのです。
聖徳太子のこの決断の後、日本の芸術が生まれました。埴輪と仏像の差を見れば、それは明らかです。共同の神道の風土の中で、個人の感情と精神により、芸術が表現されたのです。『万葉集』も『源氏物語』も、個人の感情と精神をうたい、叙述したものです。修行中の菩薩像にも、怒れる四天王像にもそれが見られます。「聖徳太子はいなかった」と言う人たちは、それが日本の芸術をも否定することになるのですから、いかに間違った考えかということがわかります。
聖徳太子は日本人に個々の感情と精神を表現させるようにしたのです。[1, p112] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■6.「日本のミケランジェロ」国中連公麻呂
聖徳太子が導入を決断した仏教が花開いたのは、第45代聖武天皇による奈良・東大寺の大仏(盧舎那仏)が建立された時だろう。大仏建立の動機を聖武天皇は詔(みことのり)の中で次のように述べられている。
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朕の志は広く人民を救うことであり、努めて人々を慈しんできた。国土の果てまで思いやりと情け深い恩恵を受けているはずであるが、天下のもの一切がすべて仏の恩恵に浴しているとは言えない。そこで三宝(仏・法・僧)の威光と霊力に頼って、天地ともに安泰になり、よろずの世までの幸せを願う事業を行って、生きとし生けるものことごとく栄えることを望むものである。[1, p114]
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大仏建立の仕事を担ったのが、仏師・国中連公麻呂(くにのなかむらじきみまろ)だった。中国の大仏は岩場を掘ったものだったが、東大寺の大仏は青銅で、大変な技術を要するものだった。
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大仏建立を成し遂げた国中連公麻呂は、大いに賞賛されて良いはずです。ところが、なぜか国中連公麻呂の名は歴史であまり語られていません。国中連公麻呂は、もっとクローズアップされていい存在です。
国中連公麻呂の作品は、東大寺法華堂の『日光・月光菩薩像』、東大寺戒壇堂の『四天王像』などが残っていますから、その見事さは容易に推測されます。それに加えて、その形象類似から唐招提寺の目を閉じて沈思する『鑑真像』、それとは対照的な法隆寺夢殿の目を見開いた『行信像』があります。・・・
これらの仏像は神々しさに加え、動と静を併せ持つ安定した姿をしています。「静かなる偉大さ」「高貴なる単純」と評される、ギリシアの古典彫像に共通する特徴が明らかです。[1, p115]
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「私は、この仏師を日本のミケランジェロと呼んではばかりません」と田中教授は断言する。[d]
■7.歴史を「自己を正しく写す鑑」とするために
以上、田中教授が考古学、文献学、神話学、美学、建築、技術などの多方面の知見を総動員して、従来の歴史学の「定説」を批判してこられた足跡のごく一部を辿って見た。その他にもまだまだ多くのトピックスがあり、全体については[1]を見ていただきたい。「日本史を変える30の新発見」という副題どおり、田中史学の簡便な総覧・入門書となっている。
こうして通覧してみると、現在の歴史学の偏向ぶりが判る。「世界四大文明」を持ち上げて、日本は中国文明の「従属国」であるかのように見せかける。中国や朝鮮からの「渡来人」が日本に文明をもたらしたと考える。日本固有の縄文文明、国中連公麻呂などは無視し、聖徳太子に至っては存在すら否定しようとする。『記紀』は「天皇家の正統性を示すための捏造」と切り捨てる。
このように人々を常に一定の方向に誘導しようとする論説は「学問」という名に値しない。政治的プロパガンダと呼ぶべきである。歴史を鑑(かがみ)とするためには、こういう歪んだ鏡ではダメだ。史実を精確公正に扱う真の学問としての「歴史学」が必要である。そのための戦いを田中教授は続けている。
(文責 伊勢雅臣)
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現在に続いている日本文明/世界7大文明 - やおよろずの神々の棲む国でⅡ
https://blog.goo.ne.jp/yaom/e/49976d86c0ae5bb4d02f95cf98576b10
「日本の常識は世界の非常識」って、実はけっこうあります。 最近、私はその一部(大部分?)は戦後、意図的に操作されてきたことに気づきはじめました。
例えば、学校の人文科学系の教科書。小学校社会、中学の歴史や公民、高校・大学の世界史など…
戦後の日本の学校の「世界史」では、「世界4大文明の発生」だけ教えられてきたと思いますが、これが「世界の非常識」なのです。
現代に続いている世界的文明は、7または8つに分類されており、必ず「日本文明」が入っているのです。
では、サミュエル・P・ハンティントンの有名な著書「文明の衝突」(集英社)から、一部抜粋・引用してご紹介しましょう。
P59~62
~~現代の主要文明は以下のようになる。
・中華文明: ~~紀元前1500年に、そしておそらくはその1000年前から一つの明確な中国文明が存在していたか、あるいは二つの文明があって~~
・日本文明:一部の学者は日本の文化と中国の文化を極東文明という見出しでひとくくりにしている。だが、ほとんどの学者はそうせずに、日本を固有の文明として認識し、中国文明から派生して西暦100年ないし400年の時期にあらわれたと見ている。 (この項は全文引用)
・ヒンドゥ文明:インド亜大陸には少なくとも紀元前1500年ごろから一つまたはそれ以上の文明が~~
・イスラム文明:~~西暦七世紀にアラビアアラビア半島に端を発して~~
・西欧文明:西欧文明はふつう西暦700年ないし800年にあらわれたとされる。一般に学者たちは、そこにヨーロッパ、北アメリカ、ラテンアメリカの三つの主要な構成要素があると見ている。 (この項は全文引用)
・ロシア正教会文明:~~ロシアを中心とし、ビザンティン文明を親とする正教会文明を~~
・ラテンアメリカ文明:~~ヨーロッパ文明から生まれたにもかかわらず、ラテンアメリカ文明はヨーロッパや北アメリカの文明とは異なる道をたどって発展した。~~
・アフリカ文明(存在すると考えた場合):~~主要な文明研究者のほとんどは明確なアフリカ文明というものを認めていない。~~
西欧社会では、きちんと学問的に西欧文明より日本文明が古いと認めて教えています。日本の学校で、「日本文明」という言葉をきちんと教えていない(と思いますが…)のは、いったいなぜでしょうか?
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世界四大文明というのは世界の非常識だった
https://www.no-dame.info/civilization/
昔学校では「世界四大文明」と習いました。
メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明。
しかし世界の常識は7または8つに分類されています。
「世界四大文明」と習うのは日本くらいだそうです。
「四大文明」は梁啓超(1873~1927)という中国人が唱えたもので学術的根拠はありません。ジャーナリストであり政治家であった梁啓超が、「20世紀太平洋歌」(1900年)と言う詩で触れたものに過ぎません。日本で定説になっている「世界四大文明」には学問的な根拠は無いのです。
日清戦争(1894~1895年)で敗れた後、梁啓超は日本に亡命、中国の近代化を目指し、日本に学び、言論活動を展開しました。そうした中で彼は中国を奮い立たせるために「四大文明」をこしらえ、そこに「黄河文明」を入れたのです。
日本以外の教科書は、
ハーバード大学のサミュエル・ハンティントン教授が提唱した
「7大文明」を教えているそうです。
「7大文明」の中には、日本文明があります。
日本文明は四大文明もよりも前、今から一万年前の縄文時代から続いています。
なんでこんなにハッキリしていることを教えないでしょうか?
( 「百害あって一利なし」の 文科省は、左翼の温床だから〜 💦 )
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( by 田中英道氏 )
あなたは、こんな歴史の“謎”をご存知だろうか?
卑弥呼の“謎”
「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。しかし不可解なことに、、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。
一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある)
また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と「魏志倭人伝」には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…
ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが、、
一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?
ユダヤ人埴輪の“謎”
長い帽子、伸びた髭、豊かなもみあげ。明らかに、日本人とはかけ離れた風貌の「埴輪」が、千葉県や茨城県など関東地域で出土されている。実は、これらの埴輪は、日本から遠く離れた場所にいたはずの、「古代ユダヤ人」に酷似しているのだ…
古代日本で、ユダヤ人そっくりの埴輪が見つかるのは、単なる偶然なのか? それとも当時の日本がユダヤ人と深い関係にあったことを示唆しているのだろうか?
「君が代」「ソーラン節」「相撲」など…実は、ユダヤ人の言語と日本語には、似たような共通点が多数存在。伝統・習慣でも類似点があるなど、両者には何らかの関係性があると見ることもできる。
果たして、遥か昔、ユダヤ人は日本にやってきていたのだろうか?
日本人の起源の“謎”
近年、最新のDNA分析によって、日本人のルーツとされる縄文人のDNAが、周辺アジアの民族とは“ほとんど一致しない”という事実が明らかにされた。
これまでの通説では、中国・朝鮮・東南アジアのいずれかの民族が縄文人の起源と考えられていたが、、それらとは全く異なるタイプの民族が、すでに日本に存在していたことがわかったのだ...
では、いったい縄文人とは何者だったのか? そして、われわれ日本人の祖先はどこからやって来て、どのような変化を遂げてきたのか?
古代史に残された数々の謎...
それらを解き明かす“鍵”とは・・これらの謎の答えは、従来の歴史教科書や、文献だけに頼る研究からは決して見つかりません。日本の古代史に残された「謎」の数々。それらを解き明かす鍵とはいったい何なのか?・・
「西洋美術史研究の第一人者」と呼ばれ、50年以上、歴史研究の最前線で評価を受ける田中教授は、こう語ります…
“教科書では、縄文から弥生時代まで、日本人は原始的な生活を営んでいた。そこに大陸や朝鮮半島から稲作や文化が伝えられ、日本はようやく発展の糸口をつかみ、日本という国家が形成された。という歴史だけが当たり前のように教えられています。
しかし、文献だけに頼る従来の研究ではなく、先人たちが残した文化遺産に光を当てると… われわれがこれまで信じさせられてきたのとは全く違う。壮大なストーリーが見えてきます。
元来、日本という国は外敵がやってこない島国であり、「信頼」を土台に共同体をつくってきました。よって、絶えず民族が移動し、争いごとの絶えない西洋や大陸とは違い、文字を必要としなかったのです。よって、当時の先人たちの生活ぶりや、思いを読み取るには、神社や文化遺産といった形あるものの解読が必須になってくるのです。
多くの学者は、文献だけに頼ることにより、この大切なポイントを見落としてしまいます。さらに残念なことに、美術の知識がないため、いざ実物を目にしても、そこから何を読み取ればいいのか?がわからないのです。
「日本には文明がなかった」・・そう言われることがありますが、それはありえません。遺跡を紐解けば、日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼がいたとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていた。その中心は、関東・東北であり、そこには大きな”国”があったのです…”
日本の古代史に残された「謎」の数々は、他にも・・・
・大陸の何倍もの旧石器時代の遺跡が残る… 中国・韓国よりも先に人類が存在… 古代の人々は、なぜこぞって日本を目指したのか?「日本」という名前に隠された秘密とは…
・“世界四大文明”説は中国人ジャーナリストの創作?「文明の衝突」著者が明かした八大文明説。世界で最も早い定住生活… 土器から読み解く縄文人の素顔とは…
・「東西神話の類似性」日本古代史に見え隠れする“ある重要民族”の存在…
・「実は世界各地で出土する土偶」なぜ異形が多いのか? 信仰の対象としての“土偶”に込められた秘密…
・「巨大なお墓が残したメッセージ」実はピラミッドより大きい仁徳天皇陵… 先人たちはわれわれに何を伝えたかったのか?
・日本神話で「神々が住まう場所」と記される「高天原」。“天”を表すという通説は真実か?… 「遺跡の数」「神話」「地名」・・奇妙な
符合をたどれば、地上の「高天原」が見えてくる…
実は世界の八大文明のひとつとされ(「文明の衝突」サミュエル・ハンチントンが提唱)他国と比べても、日本ほど神秘的でユニークな歴史を持つ国。天皇を中心に、脈々と文化・伝統が受け継がれてきた国は他にありません。
しかし、従来の文字だけの研究を元にした歴史教育では、その素晴らしさに気付くことができない… そんな状況では、当然ながら多くの日本人が自国に誇りを持つことは難しいでしょう。
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( その他いろいろ・・・)
下記は、ダイレクト出版情報のコピペをされている方の、コピペです〜。こちらは西鋭夫氏情報からのコピペだと推察します。。。🐧💦
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幕末の志士が涙を呑んだ事件がありました。
1858年、開国した日本はアメリカ・イギリスと条約を結びました。
不平等条約の締結です。
その内容は、
1.領事裁判権の承認
日本国内で外国人が罪を犯した時に、日本の法律ではなく、その外国人の出身国の領事が自国の法律で裁く
というものや、
2.関税自主権の放棄
他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本では決められない
というものなど、日本には不利なものばかりで、当時の志士たちは涙を呑むほかありませんでした…。
ここまでは教科書にも載ってあり、皆さんもご存知かもしれません。
しかし…、この不平等条約には教科書では教わらないもう一つの重要な事実がありました。
それは、条約の第4条に明記されている歴史的にも重要なことなのに、大河ドラマや歴史の教科書では、決して表にはでてくることはない「日本へのアヘン輸入」が明記されていたということ。
「新しい国を作るんだ!」
「腰抜けの徳川幕府を潰せ!」
そう息巻き、薩長土佐の15、16歳ほどの若い志士たちが中心となり起こした、日本が世界に誇る無血革命…
明治維新。
これより8年前のこと。
お隣の清国がアヘンイギリスに潰されていく中、危機感を覚えた日本が革命を起こし、近代化を進め欧米列強の支配を逃れた…
これが通説となっている明治維新ですが、皆さんはこう疑問に思ったことはないでしょうか?
「隣の国がアヘンでボロボロにされているのに、日本にだけは本当にアヘンが入らなかったのか?」
開国のとき、日本はアヘン中毒でボロボロになり負けていく清を間近で見ていました。
実は…
あの当時、確かに日本にもアヘンが入っていました。
日英で交わされた不平等条約には、「日本へのアヘン輸入許可」がしっかり明記されていたのです。
「アヘンで国をボロボロにして立ち上がらせなくしてしまえばいい」そう考えたイギリスの戦略にはまってしまったのです…。
イギリスの圧力でアヘンを吸わされ、日本も国をボロボロにされてしまうと、当時の江戸幕府は怯えていました…。
しかし、皆さんもご存知の通り、日本はアヘン中毒になることはなく、その後、明治日本はたった数十年で列強の仲間入りを果たすほどの急成長を遂げることになります。
なぜ日本はアヘン中毒にならなかったのでしょうか?
その理由は、隣国の失敗から学んでいたからでも、日本人の規律がしっかりしていたからでもありません。
理由は、私たち日本人ではなく、アヘン輸入を決めたイギリス側に存在していました。
なぜイギリスは輸入を決めておきながら、清とは違って日本をアヘン漬けにしなかったのだろうか?
日本を生かして利用したい“何か”があったのだろうか?
明治維新に残る3つの謎を見ていくと、イギリスの日本侵略作戦の全貌が見えてくることになります…
・明治維新の謎①
明治維新の数年前から、中国のアヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”が、続々と日本にやってきて活動をしています。
その中の代表格がイギリスのアヘン商社「ジャーディン・マセソン商会」
彼らこそが、中国に大量のアヘンを売りつけたことで中国をボロボロにした当人です。
そして、注目すべきは「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバーという男。
皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。
彼は当時、日本最大級の武器取引を手掛け、薩摩と密かに繋がりを持ち、薩摩・英国間で武器取引を斡旋してきました。
そして、この密貿易の仲介者として、グラバーの代わりに表舞台で活躍したのが、かの坂本龍馬です。
薩摩、長州、英国間の三角貿易を龍馬が表で動くことにより薩長同盟を成立させていました。
これにより薩長同盟は無事に成立し、倒幕の流れに移っていきます。
もし、このイギリス側の支援がなければ、志士たちの倒幕は叶わなかったかもしれません…。
一体、アヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”は日本で何を企んでいたのでしょうか?
・明治維新の謎②
上の写真はのちに「長州ファイブ」と呼ばれるようになった男たちの留学先の写真です。
男たちの名前は伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三。
全員有名ですが、中でも伊藤は初代総理大臣を務め、知らない方はほとんどいないでしょう。
この5人は、明治政府でとてつもない権力を持ち、要職に就いた男たちです。
彼らは当時、最も栄えていた国、イギリスの大英帝国から近代化を学ぶ必要性を悟り、死罪を覚悟してまで密留学で渡英を決意し鉄道、工学、造船、金融などの最新技術を学び尽くしました。
そして彼らは、文字通り「命がけ」で掴み取った功績を日本に持って帰り、日本近代化へ大きな影響を与えることとなったのです。
でも、ここで一つ疑問があります。
そもそも、ほとんどが下級武士であった彼らがなぜ、イギリスに密留学することができたのでしょうか?
今では考えられませんが、当時の日本は現代と違い鎖国に近い状態で、密留学は違法でした。
さらに、留学をするには莫大な費用が掛かりました。
実際に、彼らの掛かった費用は現代のものに直すと、約11億円。
1人あたり2億円以上も掛かっていたことになり、かなり贅沢な留学であったことは明らかです。
なぜ、このような贅沢な留学ができたのでしょうか?
彼らが優秀で選び抜かれた人たちだったのでしょうか?
いえ、決してそういうわけではありませんでした。
実際、長州出身の5人は下級武士。
下級武士といえば武士の階級でも一番位の低い「足軽」と呼ばれた存在でした。
常識的に考えれば、服装も貧相で留学に行くお金などあるわけもなく、間違いなく不可能であったイギリス留学。
そんな状況にもかかわらず、なぜこの5人は留学することができたのか…。
実は、そこには彼らを支援していたバックがいたのです。
それこそが大英帝国の武器商人トーマス・グラバーです。
彼が密留学の手引きをしていたのでした。
当時、“死罪”にもなり得る違法な蜜留学ですが、武器商人であるグラバーはいかにして彼らを手配したのか…
しかし、それでも疑問なのは、なぜ一介の下級武士ごときにグラバーが支援をしたのか?
金持ちの道楽でしょうか?
ボランティアでしょうか?
彼がいい人だったのでしょうか?
いったい、彼にどんな見返りがあったのか…
また、さらに不可解なことは、長州ファイブの伊藤博文と井上馨は、もともとイギリスのことが嫌いでした。
事実、彼らは蜜留学の4ケ月前、攘夷を叫んで英国公使館を焼き討ちしています。
そんな英国を毛嫌いした放火犯たちが、わずか4ケ月後に英国本国に密航するという豹変ぶり…
これはいったいどういうことなのでしょうか?
グラバーは、彼らに何を吹き込んだのでしょうか?
ちなみに、この蜜留学に掛かった11億円もの渡航費の出所は今も不明です。
この5人の留学の裏側はいったい何だったのでしょうか?
・明治維新の謎③
HSBC(香港上海銀行)はイギリスの銀行で、もともと中国とのアヘン密輸で儲けた金を、本国へ送ることを目的として作られた銀行です。
当時、日本では大量のお金が動くほどのアヘン貿易は行われていなかったはずですが、なぜか横浜支店が開設されていました…
このHSBC銀行にはいったい何の役割があったのでしょうか。
ここで面白いことに、HSBCホームページには「明治政府に相談され、お金の作り方を教えた」との記載があります。
これはどういうことでしょうか?
実は、明治新政府になってから、新円を鋳造するため大阪に英国式建築の立派な「造幣局」が新しく作られています。
その造幣局では20円金貨が作られていました。
その重さは「20円金貨=31.3g」でイギリスの「1オンス=31.1g」とほぼ同じ重さ。
その金貨は日本国内で出回ることなく、英国やアメリカへの輸入支払いのためだけに使われていました…
それによって、12万トンにも及ぶ日本の大量の純金は、20円金貨へと形を変え、湯水のごとく国外へと流出していました…
造幣局100年史でも確認できますが、驚くべきことに20年以上にわたって、この造幣局の局長を入れ替わり立ち替わり務めていたのが「長州ファイブ」の男たちだったのです。
イギリスがお金の作り方を教え、そのカネを自由に操れる場所にイギリスが支援した5人の男たちが入れ替わり立ち替わり務めている…
これは偶然なのでしょうか?
ただ1つ確かなことは、薩長の若い藩士たちが成し遂げた「明治維新」をきっかけに、12万トンもの莫大な純金が、全て国外へと消えてしまったということ…
ちなみに、今でもロンドン大学には「長州ファイブ」の功績を称える顕彰碑が建っています…
これらの謎をまとめてみると、イギリスが支援した幕末の志士たちが作った明治新政府は、イギリスからお金の作り方を教わり、さらに蜜留学した5人の男たちが、その造幣局でカネを自由に操っていた、ということになります…。
アヘンを使い、自国の兵隊を消耗して敵国を滅ぼしカネを巻き上げなくても、狙った国の内部から政権転覆を謀り、利益を得るという手口を使えば、自国に犠牲を出さずともたくさんの利権を得ることができる…
これが全てイギリスの戦略通りだったとしたら…?
日本でアヘンが蔓延しなかったことにも繋がってくるのではないでしょうか…
ちなみに、一番最初に明治の新政府を認めた国はイギリスでした。
皆さんはどう思いましたか?
もし、明治政府がイギリスにとって都合の良い政府なら、そう考えると見方が断然変わってきますし、全てが腑に落ちます。
例えば、明治維新には他にもこんな謎が残っています…
・実は「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバー…
なぜ、薩長土佐の大物たちはこぞって長崎を目指したのか?
近年、グラバー邸で発見された隠し部屋で、いったいどんなやりとりがなされたのか?
・江戸無血開城を成し遂げた男:勝海舟と坂本龍馬のグラバーとの黒い繋がり…
なぜ、江戸幕府の大物である勝海舟が斬首にならず、逆に明治維新の重鎮にのし上がることができたのか?
・英国公使として来日した第二次アヘン戦争の首謀者:ハリー・パークス…
大阪城で行われた徳川慶喜との会見で一体何を話したのか?
なぜ、その直後に慶喜は上野に逃げ帰り、突然お寺に謹慎してしまったのか…。
100万の幕府軍があっさり戦闘を放棄した本当の理由とは?
・造幣局、東京駅、日銀など、日本を代表する建物が、なぜ全てイギリス製なのか?
なぜ、いまだに日本の新幹線ではイギリス英語が使われているのか?
なぜ、江戸城の中、しかも石を投げたら半蔵門に当たるような特別な立地にイギリス大使館が作られているのか?
等々…
明治維新を日本国内だけの狭い視点からではなく、大英帝国=イギリスが目論んだ世界征服の一部という“広い視点”から見ることで、バラバラだった点と点が全て綺麗に繋がります。
日本国内での出来事だと教わってきた明治維新が、実はイギリス大英帝国が世界征服をするための「明治維新・大作戦」だったとしたら、巨大な帝国の手のひらの上で転がされていただけの単なるフィクションだったとしたら…
もし、皆さんが明治維新の美しい面だけに目を向けていたとしたら、本当のことは理解できないかもしれません…
そして、日本近代史の基軸である明治維新を間違って理解していたならば、常識だと思っていた歴史の全てが、いつの間にか間違いに間違いを重ねたものになっている…
そんなことにも気付かないかもしれません…。
日本の近代史の根底となる明治維新が本当はどのようにして起きたのか?
本当の歴史を知れば、皆さんの日本を見る目、日本人としての考え方は変わり始めるでしょう…
大河ドラマや時代小説で語られている美しい虚像ばかりを信じさせられるのではなく、日本ではほぼ語られない本当の歴史を知ることも、一つの知識になり得るのではないでしょうか。
そして、今日7月14日はペリー上陸記念日。1853年、アメリカ提督のペリーが横須賀市久里浜に上陸した日です。
この日を境にして幕末、明治維新が始まっていく、そのきっかけとなった日でもあります。
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「皆さんは「日中記者交換協定」の存在をご存知ですか。正式な国交のなかった昭和30年代末から、日本のマスメディアは中華人民共和国(中国共産党)が条件とした「政治三原則」を守らなければ中国に記者を常駐できませんでした。①中国を敵視しない②二つの中国をつくる陰謀に加担しない③日中国交正常化を妨げない――というものです。
三原則の③は、いまや有名無実ですが、相手国の方針に従うことを事前に約束するのでは、自由な報道・論評をはじめから放棄したのも同然です。
日本のマスメディアが伝える中国情報はこうした言語・情報空間の中にあります。これに縛られず、勇気をもって、重要な事実の発掘と発信を続けてきたのが河添恵子さんです。
日本を立て直すには「自由な中国批判」が不可欠です。現実に今そこにある危機を知るためにも、長年にわたる独自取材と、鋭い分析に裏付けられた河添さんの解説には大きな価値があります。」 ( by 上島嘉郎 )
「日中記者交換協定」なんて破棄!破棄!そんな、中国だけが得するような事、、バッカ馬鹿しい〜、さっさとやめなはれ〜!・・・・河添恵子さんの講座聞きたいよぉ〜ん。もっと買いやすい値段にしてほしいなぁ〜 👛🐧💦
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下記は、ダイレクト出版情報のコピペをされている方の、コピペです〜。こちらは北野幸伯氏の情報からのコピペだと推察します。。。🐧💦
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一般的に日本には二つの史観があります。
①自虐史観
②脱自虐史観
自虐史観は20年ぐらい前までは一般的でした。
「日本は悪い国」
「日本人は悪い民族」
という史観。
ですが、
「そんなことないよね」
という声が強くなり、影響力が弱まってきました。
それでも、いまだに朝日新聞のようにブレないメディアもありますが…(笑)
「日本は悪い国じゃないよね」
「日本人は悪い民族じゃないよね」
という脱自虐史観は、ここ20年ぐらいで徐々に広がりパワーを増しています。
皆さんは、
自虐史観ですか?
脱自虐史観ですか?
今回は、もう一つの史観をご紹介したいと思います。
自虐史観と脱自虐史観は『善悪論』ですね。
要するに、
「日本は悪いのか、良いのか」
という史観です。
今回紹介するのは、「良い」とか「悪い」とかを超越した史観『リアリズムの史観』です。
たとえば、リアリズムの神様と言われるシカゴ大学のミアシャイマー教授は、第二次大戦について、
<アメリカが恐れていたのは、日本が東側からソ連を攻撃し、ドイツ国防軍がソ連赤軍を打ち破るのに協力することだった。
(中略)
この可能性を排除するため、アメリカは日本に対し1941年後半から経済や外交の面で凄まじい圧力をかけ始めた。
ここでの狙いは、単に日本のソ連攻撃を阻止するだけでなく、中国、インドシナ、満洲、そしていかなる日本のアジア支配の野望をも断念させることにあった。
アメリカは日本に強力な圧力をかけ、二等国家にしてしまおうとしたのである。>
と自著の『大国政治の悲劇』で語っています。
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なぜ、日米戦争は起こったのか?
自虐史観では、
「悪い日本が真珠湾を奇襲したからだ」
となっています。
脱自虐史観では、
「ルーズベルトが日本に奇襲するよう誘導したのだ。」
フーバー元大統領は、
『ルーズベルトは、狂人だ!』
と断言しています。
マッカーサーも
「『あれは、自衛戦争だ』と宣言している」
とあります。
リアリズムのミアシャイマー教授は、
「ドイツが1941年6月にソ連に攻め込んだのが原因だ」
としています。
どういうことかというと、当時ドイツの同盟国だった日本が、東側からソ連を攻めていたらどうなっていたでしょうか?
ソ連は東側で日本軍と、西側でドイツ軍と戦うことになります。
そうなると、戦力が分散されて負ける可能性が高まります。
ソ連が負けたらどうなるでしょうか?
日本は中国、満洲、朝鮮半島、ロシアの東半分を征服する。
ドイツは、イギリス以外の全欧州とソ連の西半分を征服する。
アジアには巨大な地域覇権国の日本、欧州には巨大な地域覇権国のドイツができます。
そして、日本とドイツは共に反米です。
こういう恐怖のシナリオが現実化し始めたので、戦いを決意したというのです。
このシナリオで、ミアシャイマー教授は、
「日本は悪い存在だ」
と考えてはおらず、別の場所で“日本の行動の動機”について書いています。
<その行動の原動力になっていたのは安全保障への関心である。>
そして、日米戦争についても、
「悪い日本が始めた」
とは考えていません。
<日本の政治家たちは、おそらく第二次世界大戦で負けるということを知っており、アメリカがそれ以外の合理的な選択肢を残さなかったために戦争を始めざるを得なかったのである。>
とこう語っていますが、皆さんどうでしょうか?
自虐史観とも脱自虐史観とも全然違う史観ですね。
ちなみに私も、リアリズム史観が一番好きです。
自虐史観は、なんでもかんでも日本が悪いことにしてしまいます。
脱自虐史観は、なんでもかんでも日本が良かったことにしてしまいます。
リアリズム史観は、そもそも良いとか悪いとか言わず、事実だけを淡々と語ります。
だから、自国に対しても他国に対しても“怒りと無縁”でいられるのです。
もちろん、私も人間なので、韓国が慰安婦問題を蒸し返してきたり、徴用工問題で過去の合意を破ると腹が立ちます。
しかし、日本の現状を分析したり進むべき未来を考えるとき、怒りとか悲しみといった感情は邪魔になります。
そんな時は、心を沈めてリアリスト的な見方をしようと努力しています。
皆さんも、「平静さ」「大局観」「戦略観」を与えてくれるリアリズム史観を身に付けて頂くことで、今までと違った世界観を味わうことができると思います。
最期までお読み頂きまして、有り難うございました。
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(こちらも同様にコピペのコピペです。これも北野幸伯氏かな…?)
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ニュースを見ていると、国内では『新型コロナ』と『パラリンピック』。
海外ニュースは、相変わらず『アフガニスタン問題』が多いです。
アメリカのアフガン撤退は、メディアでも
「失敗だ!」
と言います。
しかし、アフガン撤退はアメリカの中東撤退の一環であって、10年前から決まっていたこと。
理由は、『シェール革命』による中東の重要度が低下したことと『米中覇権戦争』が始まり、中国に戦力をシフトする必要があるからです。
そして、なぜか一般的には、
「アフガン問題、勝ち組は中国だ」
とか言われています。
なぜか?
それは、『一帯一路』の通り道ができるからです。
『一帯』は、中国と欧州を結ぶ陸路
『一路』は、中国と欧州を結ぶ海路
です。
ところが、欧州や中東と中国を結ぶ「海路」は、米軍が支配しています。
陸路を見ると、中国の西隣にあるアフガニスタンをアメリカが支配していた。
しかし、米軍が去って傀儡アフガニスタン政府が崩壊し、20年ぶりにタリバンの時代がやってきた。
だから、
「中国は勝ち組だ!」
というのです。
ですが、中国とタリバンの間には大問題があります。
そう、中国がタリバンと同じイスラム教徒のウイグル人100万人を強制収容していること。
ウイグル女性に不妊手術を強制し、事実上の民族絶滅政策をしていること。
タリバンはこれを許すでしょうか?
中国は、
「金でなんとかなる」
と考えているようです。
「三大動機」
たしかに、『お金』は非常に強力な動機づけになります。
なぜ、ユニクロの柳井氏は、
「ウイグル問題は、人権問題というよりは政治問題だ!」
と言ったのか?
それは、
「中国は、ウイグルにおけるジェノサイドを即刻やめろ!」
と言ってしまえば、中国政府に邪魔されてビジネスが難しくなります。
そうなると、「入ってくるお金」が減ります。
私は、柳井氏に対して公人のような批判はしたくありません。
社会人、特に民間人であれば、誰だって「お金の大切さ」を知っています。
では、「お金を超える動機」はあるのでしょうか?
その答えは、
・
・
・
あります。
『命』です。
銀行員も
「命の次に大切なお金を預からせてもらっています」
などと言いますね。
皆さんもご自身で想像してみてください。
誰かに誘拐されて、
「銀行預金を全部引き出して渡せば、命は助けてやる」
と確約された。
きっと、
「じゃあ、そうしましょう」
となるでしょう。
なぜか?
それは、いくらお金があってもあの世には持っていけませんし、命さえあればまた稼ごうと思えば稼げます。
命があればこそ、お金を使っていろいろなことができます。
明らかに、
命 > お金
です。
これをマクロな話に拡大すると、
『安全保障(命)』は、『経済(お金)』よりも大事ということになります。
では、「命を超える動機」は存在するのでしょうか?
ここで少し立ち止まって、答えを考えてみてください。
答えは
・
・
・
あります。
それは、『理想』です。
『理想』の形は様々ですが、「宗教」だったり「思想」だったりします。
皆さんは、『理想』のために命を捨てることができますか?
例えば、江戸時代の『踏み絵』のことを思い出してみてください。
「キリストの絵を踏めば無罪放免。キリストの絵を踏まなければ死罪。」
当時は、実際に踏むことを拒否して殺された人がたくさんいました。
彼らにとっては明らかに、
理想(=キリスト) > 命
でした。
ちなみに、宗教だけが命を超える『理想』とは限りません。
例えば、日本では馴染みが薄くなったスパイ。
旧ソ連のスパイと中国のスパイでは、全然質が違います。
旧ソ連のスパイは、
「共産主義の理想を実現するために」
という動機であることがとても多く、彼らは、「万民平等の共産世界を創るためなら死んでもいい」
と考えていた者が多くいました。
もちろん、今になれば、
「共産主義はインチキ宗教の類」
ということが分かります。
しかし、当時の彼らは理解できませんでした。
それで、
「共産主義の理想のために死んでいった人」
がたくさんいたのです。
例に出すと、日本の戦時中に首相であった近衛文麿の軍師的存在だった尾崎秀実(おざきほつみ)などが当てはまります。
では、中国のスパイはどうか?
中国人スパイに理想はありません。
中国の外国人スパイの主な動機は『お金』です。
ここまで、人を動かす三つの動機は、
『お金』『命』『理想』
順番でいえば、
理想 > 命 > お金
でした。
タリバンの動機
では、タリバンはどうなのでしょうか?
中国は、
「タリバンを買収できる」
と考えているようです。
しかし、タリバンが、“金に転ぶ”人たちであれば、彼らの行動は理解できません。
考えてみてください。
タリバンは、アメリカ傀儡アフガニスタン政府を打倒して、政権に返り咲きました。
もし彼らが、
「女性が学校で学ぶ権利、女性が仕事をする権利を与える」
と言えば?
欧米諸国は、
「タリバンは変わった。復興支援をしてやろう!」
となったでしょう。
ところが、タリバンは、
「イスラム法に沿って、女性の権利を与える」
と宣言しました。
これは要するに、
「昔と変わらない」
ということです。
つまり、彼らはあっさりと大金を逃しています。
そして、タリバンが2001年にアフガン戦争が始まってから、20年間も米軍と戦い続けてきたこと。
これは、全く理性的ではありません。
彼らが、『命』を大切に思うなら、世界最強のアメリカ軍と“死ぬまで戦う”とは考えないでしょう。
つまり、彼らは、『お金』も『命』も超越していることが分かります。
私たちには、彼らの『理想』は全然理解できません。
ですが、彼らのこれまでの行動を見ると、彼らは彼らなりの『理想』を動機として動いていることが分かります。
そうなると、彼らはどう動くのでしょうか?
中国から貰えるお金は、もちろん貰うでしょう。
ですが、タリバンは中国が行なっている
・イスラム教徒であるウイグル人100万人を強制収容していること
・ウイグル人女性に不妊手術を強制していること
・ウイグル人に対しジェノサイドを行っていること
他にもモスクの破壊や男性が髭を伸ばすことの禁止など、全てを許すとは思えません。
アフガニスタンの東の国境は、新疆ウイグル自治区とつながっています。
タリバン政権は、金を貰うために表向きは中国と仲良くするかもしれません。
しかし、別動隊を組織して、ウイグル人を解放するための戦いを始める可能性も十分にあるでしょう。
アメリカ政府にずる賢い軍師がいれば、タリバンの支配者に、
「中国は、あなた方の同胞をジェノサイドしている。もしあなた方が新疆ウイグル自治区をアフガニスタンに併合したければアメリカは邪魔しない」
などと言って煽ることでしょう。
果たして、本当に中国は、
「アフガニスタン問題の勝ち組」
だと言えるのでしょうか?
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(こちらもコピペのコピペです。これは西鋭夫氏情報のコピペですね。はい。)
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東京裁判で日本を売った男
7名のA級戦犯たちに罪を背負わせた“裏切り者”
「マッカーサー上陸まで2週間ほど時間がある。燃やせ!」
1945年8月14日、ポツダム宣言受諾の後、焼け野原となった日本各地が、再び炎と黒い灰に包まれた…。
日本軍が、太平洋戦争時のあらゆる機密文書を狂ったように燃やしていた…。
一体どういうことなのか?
実は、日本軍は迫る東京裁判に備えて、
「戦時中の都合の悪い機密文書をGHQに見られぬように」
と、証拠隠滅を図っていた。
その文書の中には、GHQにとって日本軍の戦争犯罪を意味する命令文書など、重要な記録が数多く含まれていた…。
「我々の証拠は全て燃やし切った…」
「これで東京裁判を迎えても大丈夫だ…」
燃え盛る文書を見ていた日本の軍人たちは安心しきっていた。
しかし、彼らの思いとは裏腹に、東京裁判は思わぬ形で進んでいった…。
なんと、東京裁判の検事たちが、燃やしたはずの日本軍の証拠をどういうわけか掴んでいた…。
一体、検事たちはどこから証拠を入手していたのか?
なぜ日本軍は事実を隠しきれなかったのか?
一次史料を紐解くと、日本軍に潜む一人の裏切り者の正体が分かってきた。
一次史料によって判明した日本内部の裏切り者
「なぜどこにも史料がないんだ!」
戦犯たちを裁くため、日本にやってきたアメリカの検事ジョセフ・キーナンは落胆した。
戦争犯罪の証拠となる史料が一切出てこない…。
「このままでは、日本軍を戦争犯罪として裁けないではないか…」
探しても探しても証拠史料は出てこない…。
キーナンは何日も途方に暮れていた…。
そんなある時、一人の日本軍人がキーナンの許を訪ねてきた…。
実はこの男、戦時中に中国大陸において様々な謀略に関与していた人物であり、連合軍の定めた基準から見れば、明らかに戦犯であった。
「証拠史料を燃やしたとはいえ、いつ自分の犯罪が明るみに出てもおかしくはない…」
「もし誰かが自分を裏切り、密告してしまったら、自分は罪に問われてしまう…」
そう思ったこの男は、自分が戦犯になることを極度に恐れ、キーナンに取引を持ち掛けた。
「機密文書が見つからず、お困りでしょうか?もし私で良ければ、日本の軍人を裁くための証拠を全てお教えします。その代わり私を戦犯にしないでもらえませんか?」
日本軍に史料を燃やされ、困り果てていたキーナンは思った。
「この男に暴露してもらえば、重要な証拠が掴めるかもしれない…」
キーナンと男は密接な関係になっていった。
そして、GHQに接収されていた東京丸の内の『明治生命館』で、1946年2月18日より密会が始まり、合計31回にわたって行われた…。
その密会の中で男は、戦時中の日本軍の行動について驚愕の実態を語っていった。
裏切り者の供述・戦時中の日本軍のアヘン売買
「我々日本帝国はアヘンを海外に売ることで、大戦の戦費を稼いでいました」
男は、キーナンに驚くべき事実を密告した。
当時、世界恐慌によるデフレで、戦費調達に苦しんでいた日本…。
そんな中、日本は中国や朝鮮半島で莫大な量のアヘンを栽培…。
中国全土で売りさばき、巨額の軍資金を得ていたと暴露した…。
「それは明らかな国際法違反だな。日本はすでに麻薬売買を禁じる条約に調印している。それを破っていたということか」
キーナンは、そう言いながら心の中で、
「日本を裁く決定的な証拠が見つかった」
と喜んだ。
さらに男は密告を続ける。
「アヘンは和歌山、大阪、奈良、中国、朝鮮で栽培していました。そして、そのアヘン売買を取り仕切っていたのが、1938年に東京で設立された政府の秘密機関・興亜院です。その総裁は、日本の内閣総理大臣でした」
なんと、総理大臣までもがアヘンに関与していたと暴露…。
アヘンは純金と同じ値段で売れるため、国を挙げて戦費を稼いでいたことが男の証言で発覚した…。
もちろんアヘンのみならず、男は他の戦犯に罪をなすりつける為、彼らの様々な戦争犯罪を暴露していった…。
全てを聴いたキーナンは、
「わかった。それでは東京裁判で、それを証言してくれ」
とその男に告げた。
東條たちに罪をなすりつけた東京裁判
こうして1946年5月3日、東京裁判が始まった。
被告に対する質問内容は、事前に情報を得て周到に準備されていた。
そしてこの男も内部告発者として出廷。
検察に発言を求められると、男は東條たちの前で戦犯批判を展開した…。
東條英機には、アヘンの売買に関与していたことを突き付け、A級戦犯の一人である武藤章に対しては、
「武藤こそ、三国同盟の熱心な推進者であった」
と批判。
次々とかつての戦友たちを批判し、売っていった…。
もちろん、戦犯やその弁護人は必死になって反論したが、男の告発と合わない供述をした者は嘘を言っていると見做され、最終的には死刑に追い込まれていった…。
男は裁かれることなく、責任を7人の戦犯に押し付けることに成功したのです…。
この男がいなければ、東京裁判は成り立っていません。
彼が東京裁判を作ったのです。
この男は戦時中、中国で様々な謀略に関与していました。
例えば、上海で中国人に賄賂を渡し、日本人僧侶を襲わせ、日中関係を険悪なものにしました。
後にこれが引き金となり、日中両軍が衝突する事件に発展したのです。
さらに、この男も実はアヘン売買に関わっていたのですが、自分の保身のため、かつての仲間に罪を着せ、東京裁判から逃げたのです。
その男の正体は…
田中隆吉(たなか りゅうきち)陸軍少将。
自らの罪に何の償いもなく、かつての戦友たちに罪をなすりつけた田中の行為は、東京裁判の行く末を決め、そして戦後日本の歴史を大きく動かしてしまったです…。
東京裁判の謎:裁かれなかった大物たち
しかし、問題はそれだけではない…。
この7人のA級戦犯に全て罪を被せ、罪を逃れた者はこの田中だけだろうか?
彼と同様に、東京裁判で正当に裁かれなかった人物は他にいなかったのだろうか?
もちろんそんなはずはない…。
戦犯たちに罪を押し付けた犯人は大勢いる…。
・「極秘文書をGHQに渡した外交官」
東京裁判後に出世した内閣総理大臣の吉田茂
・「戦時中にアヘンを密輸した財閥」
今も日本で活躍する大企業の三井物産に住友商事
・「アヘンを売り捌いた満洲の大物」
後に内閣総理大臣となった戦犯の岸信介
等々、処刑された僅か7名のA級戦犯の陰で、明らかに国際法違反の罪を犯した多くの人たちが、何の罰も受けることなく“戦後日本の中心”として活躍していった。
そして、今もその社会で我々は生きています…。
このように、近年、TVドラマや書籍で新たな真実が明るみに出てきた『東京裁判』についても、一次史料を元に一つひとつ丁寧に読み解けば、我々には知らされてこなかった東京裁判の裏側が見えてきます…。
一般的に東京裁判といえば、アメリカが敗戦国日本をただ悪者にした一方的な裁判ということが言われています…。
でも、これらの謎から分かるように、裁判の裏で何らかの取引や妥協がなされ、深くまで追求せずにうやむやにされた問題が残されているのです。
そして、その真実を見れば、裁きを受けた人物がいた一方、裁かれるべき多くの人物が罪を償うことなく野放しにされ、あろうことか日本の中枢に居座り続けてきたというのが、戦後日本の実態です…。
問題は我々がそれを知る術がなかったことです。
学校では、まるで真実を覆い隠すように、ただ日本が悪かったと教えられ、史料は日本がほとんど燃やし、東京裁判の記録はアメリカが持ち去ってしまったからです…。
そのため、日本軍によるアヘン密売の実態など、政府にとって都合の悪いことが我々国民に知らされず…。
多くの保守派の識者たちも、東京裁判を
「勝者による不当な裁き」
だと全面否定し、
「日本は正義の戦争をした」
「日本は全く悪くなかった」
という、これまた一方的に偏った『日本無罪論』も近年では広まりつつあります…。
確かに、そのような保守派の意見は日本人として誇らしく、気持ち良く感じるかもしれません。
ですが、一次史料を正しく検証することなく、感情論やある種希望のような主観で読み解いた歴史観を持つこと。
明らかに悪いことをしていたにもかかわらず、その真実を直視することなく良かった面だけを見る。
そんな歴史の見方は、とても危険ではないでしょうか。
日本の問題は戦後70年以上経ってもまだ日本人の手で、あの大戦争についての責任の検証、追及を全くできていないことです。
日本は「アメリカの一方的な復讐裁判」をそのまま受け入れて、それ以上、自分たちで真正面から向き合おうとして来なかったのです。
みんな、絞首刑になった7人のせいにして、それで終わり。
東京裁判で責任を免れた人間を暴かない限り、私たちは真実を見逃してしまうのです。
真実を知ることは、時に痛みを伴います。
しかし、過去の教訓を活かして、より良い未来を築くためにも、私たちの子供や孫など、次の世代に日本人としての誇りを受け継いでいくためにも、戦後70年以上が経った今、真実と向き合うべき時が来ているのではないでしょうか?
一次史料に基づく疑いようのない『東京裁判』の真実を知らない限り、私たち日本人にとって、本当の意味で“あの戦争”が終わったとは言えません…。
私たち日本人は、あの戦争に真正面から向き合わない限り未来永劫、前に進むことができません…。
右も左も一方的で偏った歴史を鵜呑みにするのはもうやめにして、国民一人ひとりが責任ある日本人としての気概と誇りを持って前に進んでほしい。
覆しようのない一次史料に基づく真実を知ることで、ブレない判断軸と自信を持てるようになってほしい…、そういった思いで今回は書き綴らせて頂きました。
〔編集後記①〕
1946年3月1日。
東京裁判のおよそ2ヶ月前。
一人の日本人がGHQによって逮捕されました…。
この人物の名前は、里見甫(さとみはじめ)。
新聞記者として、中国大陸で活動していた人物ですが、一体なぜGHQによって逮捕されることになってしまったのでしょうか?
それは、彼が日本軍と共に、“麻薬販売”という国際犯罪に関与していたからです…。
里見は、日本人ながら1901年に上海の学校を卒業。
その後は、ジャーナリストとして日本の軍人と交流する傍ら、抜群の中国語を駆使し、中国人の重要人物とも接点を持ちました。
それに興味を持ったのが日本の軍人たちです。
「この里見の中国における人脈と堪能な中国語は非常に使える」
そう思った日本の軍人たちは里見を呼び出し、重大な仕事を依頼したのです…。
「アヘンを売り、軍の資金調達に協力して欲しい。」
当時、『世界恐慌』によるデフレで戦費調達に苦しんでいた日本…。
そんな中、日本は中国や朝鮮半島で莫大な量のアヘンを栽培して売ることで、戦費を確保しようとしていました。
里見は、この依頼を承諾。
自身の卓越した中国語と人脈を駆使し、中国大陸でアヘンを売り捌いていったのです…。
そして里見は、いつしか“アヘン王”と呼ばれるようになりました。
後に逮捕された里見は、GHQの取調べに対して、
「ペルシャ産のアヘン販売では、1200億円もの利益を出した」
と供述しており、巨額の利益を大陸で出していたことが判明しています。
しかし、その後の1946年9月4日。
麻薬販売という国際犯罪を主導していたにも関わらず、突如、里見は釈放されました。
なぜ里見は釈放となったのか?
私はこう考えます。
アヘンで儲けて貯めていた金をアメリカに手渡すという取引があったのでしょう。
そうでなければ、里見が無罪放免とはならないでしょう。
しかし、罪を免れたのは里見だけではありませんでした。
他にもGHQと取引をすることで、一部の戦犯たちに罪を押し付け、東京裁判から逃げた者がいました…。
〔編集後記②〕
東京裁判で絞首刑となったA級戦犯7名。
当初、彼らの遺骨は遺族に届けられることなく、アメリカ兵によって持ち去られてしまいました。
「遺骨を残せば、東條らA級戦犯が神格化されて日本の再軍備に使われるのではないか?」
それを恐れたアメリカは、遺骨がお墓に入るのを何としても防ぎたかったのです。
けれども、その遺骨の扱いがあまりに非道でした…。
アメリカ兵は、持ち去る前に遺骨を粉々に破壊したのです…。
しかし、
「日本国のために戦った軍人たちの遺骨を守りたい」
という思いから、アメリカ兵の目を掻い潜り、わずかな遺骨を回収した人々がいたことをご存知でしょうか?
その遺骨はアメリカ兵に見つからぬよう、今年7月に土砂崩れが発生した静岡県熱海市の伊豆山にある興亜観音堂に隠され、占領が終わった時にようやく遺族の方に遺骨を渡すことに成功したのです…。
今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。
( 西鋭夫氏情報からのコピペとは、どこにも書いてないですね〜 🐧💦 )
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(こちらも、西鋭夫氏情報からの引用〜コピペ〜だと推察します…🐧💦 )
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幕末最大のミステリー
「謎」に包まれた”幕末最大のミステリー:坂本龍馬暗殺事件”…。
その犯人はすでに歴史学者の中で答えが確定していることを皆さんはご存知でしょうか?
それにもかかわらず、龍馬暗殺の犯人は「謎」とされていたり、黒幕は薩摩だ、いや勝海舟だとするような珍説が後を絶ちません…。
それはなぜなのか?
実は、龍馬暗殺が迷宮入りしている裏には、幕末の志士や明治維新を否定したい人たちの思惑があったからです。
今回はその思惑と、龍馬暗殺の真犯人を暴き出したいと思います。
龍馬暗殺の5人の容疑者
大政奉還により約260年続いた江戸幕府は終焉を迎え、いよいよ明治維新によって近代日本の新たな時代の幕が開けようとしていた。そんな、今から150年以上も前の1867年11月15日。
坂本龍馬は暗殺された…。
龍馬は、34カ所の傷を負うという無残な最期を迎えた…。
そんな龍馬暗殺の真相は、当時から現代に至るまで、様々な犯行説が飛び交っている…。そこで浮上してきたのがこの5組。
■容疑者1 中岡慎太郎
討幕論の中岡が、公議政体論の龍馬と論争の末、斬り合って相討ちとなったとされている。
■容疑者2 新撰組
事件直後、真っ先に疑われたのが新撰組だった。反幕府勢力を弾圧していた新撰組には十分な動機があるから。
■容疑者3 紀州藩
龍馬率いる海援隊の『いろは丸』と紀州藩の船が衝突した事故で、龍馬は莫大な賠償金を紀州藩に要求し、紀州藩は「御三家が下級武士に負け、恥をかかされた」と、その腹いせにという動機があった。
■容疑者4 土佐藩
その黒幕は、後藤象二郎だという説がある。後藤象二郎は、龍馬の大政奉還のアイデアや手柄を独り占めしたかったというのが動機。
■容疑者5 薩摩藩
当時、陰謀者のイメージが強かった薩摩藩。人斬り半次郎こと中村半次郎ら薩摩藩士が刺客だという説。武力で徳川幕府を討ちたかった薩摩藩は、龍馬による大政奉還という平和的手段は、徳川の勢力を残す不本意なものであるため、「龍馬は裏切り者」とみなして暗殺に至ったとする説。
とこのように5組の容疑者が浮上した。
しかし、これから書く理由で、これらの疑惑は消えます…。
まず、事件現場には犯人の刀の鞘(さや)が一本落ちていた。このことからも殺害に第三者がいることは間違いなく、まず容疑者1の中岡慎太郎の相討ち説はありえない。
次に、新撰組は暗殺当日の夜、会合を開いておりアリバイがある。容疑者2の新撰組説も消える。
さらに、紀州藩に至っては、「龍馬を殺せ!」といった命令を出したり、実行部隊を動かした形跡が全くない。少しでも実行に移していれば、証言や資料が残るはずだが何も出てこない。つまり、動機という面から疑われただけで、証拠不十分で容疑者3の紀州藩も龍馬を殺していない。
そして、龍馬が暗殺された近江屋の向かいには土佐藩邸があった。後藤象二郎をはじめ土佐藩は、何度も龍馬に土佐藩邸の中に入れと助言し、龍馬の安全を心配していた。さらに、土佐藩は龍馬が指揮をとった大政奉還で、京都での地位が格段と上がり龍馬の力がこれからも必要だった。以上のことから容疑者4の土佐藩も動機はなく犯人ではない。
最後に、薩摩藩は龍馬を殺す機会などいくらでもあった。親しい関係にあった薩摩藩は龍馬を呼び出し、その帰りに闇討ちした方が証拠も残らず簡単に殺すことができる。にもかかわらず、土佐藩邸の目の前の近江屋で龍馬を狙うのは、救援がすぐに駆けつけるリスクが非常に大きい。このことから、容疑者5の薩摩藩黒幕説も成り立たない。
では一体、真犯人は誰なのか?
実は、その真犯人は単純明快に判明できて、さらに、その動機もまた、とても単純なものでした…。
激白!事件の詳細を語る2人の京都見廻組
事件解決が難航する中、事態は急変する…。
幕臣で構成された幕府の警察組織である京都見廻組の元一員である今井信郎(いまいのぶお)が、龍馬暗殺に関わったことを告白した。
「坂本龍馬の殺害は、京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎の指示によるものだ。7人の見廻組が実行し、自分は見張り役だったので殺害状況はわからない。」と。
つまり、龍馬暗殺の真犯人は7名の京都見廻組で、その暗殺部隊を指揮したのが佐々木只三郎だ、ということ。
さらに、もう一人の元京都見廻組一員の渡辺篤(わたなべあつし)が口を開いた。今井と渡辺の証言には多少の違いはあるものの、共通点も多く、また当事者でしか知りえない細かな情報が多く含まれており嘘とは思えない。この2人の証言が決定的な証拠となり、多くの研究者が「龍馬暗殺の犯人は京都見廻組だ」と決定づけている。
では、京都見廻組は誰の命令で動いたのか?
龍馬暗殺部隊を指揮した佐々木只三郎の兄は晩年にこう語った。
「佐々木只三郎は、“某諸侯”の命を受けて、坂本を斬殺した。」(『手代木直右衛門伝』)
この某諸侯というのが、見廻組を統括していた会津藩のトップ松平容保とされている。
つまり、龍馬暗殺の真犯人は京都見廻組でほぼ間違いない。
というのも、京都見廻組の役目は京都の警護であり、ひいては松平家=徳川家の親戚の家運にかけて京都を守る必要があったので、幕府を倒そうとする龍馬たちは、とにかく許せない存在だった。だから暗殺したというわけだ…。このように結論としては、京都見廻組は、自分たちの職務=暗殺をきちんと果たした、ということになる。
共産主義の猛攻と戦後奪われた龍馬の真の姿
実は、このように真っ当な歴史学の知見から見れば、龍馬の暗殺に「謎」は全くありません。
それなのに、なぜ未だに龍馬にまつわる話が「謎」だとされ、多くの「珍説」がささやかれているのか?…もちろん、歴史のいろんな可能性を想像するのは、一種ドラマチックでワクワクするということもあるでしょう…。
でも、本当に厄介なのは、間違いなく明治維新の土台を築き上げた龍馬の存在を不都合だとみなし、龍馬を貶めようとする意図を持った勢力がいるという現実です。
例えば、今回は取り上げませんでしたが、龍馬暗殺に関して「龍馬はイギリスのスパイで、イギリスがその証拠を消すために暗殺した」という珍説まであります。(龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) 加治 将一)
ですが、皇學館大学の神道学を教える松浦光修教授は「龍馬がスパイだったという可能性は万に一つもない」と断言しています。さらに、元国税調査官の大村大次郎の『龍馬の家計簿』には「スパイ説は龍馬の謎を解くのに都合のいい説であるが、全くのデタラメだ」と書かれてあります。
なぜこのようなことが断定できるのか?
それは、龍馬は心から天皇のことを第一に考えており、土佐藩を脱藩する際には「藩よりも父母よりも大切なのは天皇だ」という言葉まで残しているほどの人物です。
そのような愛国心ある人物が日本を裏切るだろうか?
しかし、こうした龍馬が皇室を尊び、武家政権から皇室を中心とする国家にしようとした功績は、自虐史観を植え付けたい勢力にとっては邪魔な存在。だから、「龍馬がイギリスのスパイだった」ということにしてしまえば、龍馬の功績は「スパイがやったことだから…」と軽視されるだろう…。結果、龍馬が日本を大切に思い、皇統を敬い、天皇を中心とする国づくりに励んだことは、私たちの記憶から消されてしまう…。そうなれば、明治維新を否定したい、いっそのこと日本を陥れたいと企てる人たちの思う壺です。
戦後、特にこのような“明治維新の土台を築き上げた龍馬の功績を貶める学説”が流布し始めました。
一体なぜなのか?
それは、龍馬の持つ尊皇心は、GHQと彼らが輩出した左翼学者や日教組にとって、とても不都合なことでした。そこで反日勢力は、龍馬から“皇室を尊ぶ心”を切り取り、我々から龍馬の真の姿を奪ったのです。
実際に、龍馬の父・八平は有名な皇学者の弟子であり、また仲間たちの思想や本人が残した記録から見ても、龍馬は尊皇の心が極めて強いということは明らかなのです。
しかも、戦後、昭和天皇が「日本が民主主義を採用したのは、五箇条の御誓文がはじまりだ」とおっしゃったその五箇条の御誓文の草案を作り上げたのは龍馬です。
きちんと学問として史料研究してきた方からすれば、このようなことは常識で、龍馬が明治そして戦後に与えた影響は非常に大きいことが分かります。龍馬自身と龍馬が関わった明治維新のことを正しく知れば、日本は海外の借り物で国体を築いてきたのではなく、自分たちの力で民主主義国家を築いてきたことがよくわかるはずです。
しかし、なぜか戦後の龍馬には、そういった大切な部分が全くというほど書かれていません。すっぽりと抜け落ちています…。つまり、我々が信じてきた龍馬は、反日勢力につくられた龍馬像で、本物の龍馬ではないのです。
〔編集後記①〕
討幕路線というのは、もうギリギリの最後の段階になっての話です。
それまでは、西郷隆盛も英明な将軍を据えて、幕府を何とかリニューアルできないかと将軍継嗣問題を命懸けでやりました。
橋本佐内の殿様である松平春嶽もそうです。
時代は、まだ大枠では大政委任論だったのです。
ところが、公武合体をやっても諸侯会議を開いても全く政治が機能しない。
だから、勝海舟は見切りをつけて、
「もう幕府専政の時代は終わった」
ということを西郷隆盛にも言いました。
その後、だんだん倒幕をやらなければどうしようもないという事態になっていきます。
実際に討幕路線が現実味を帯びてくるのは、1864(元治元)年の第一次長幕戦争の後です。
その直前に長州が『禁門の変』を起こした時、まだ薩摩は幕府と会津と一緒になって長州を追い払っていました。
特に土佐藩は、ギリギリまで大政奉還路線、つまり”無血革新”の路線を取ります。
その結果、倒幕の密勅が出た同じ日に、徳川慶喜は『大政奉還』を行っています。
しかし、それでは将軍家は残ってしまします。
新しい政府を作っても、旧態依然としたものの寄せ集めで、”なあなあ・・・ずるずる”といった感じで古い体制が続くことになる。
やはり、一度決定的に古いシステムを潰し、一から出直さない限り新しい日本は生まれることはない。
だから、”もはや武力倒幕”しかないと西郷たちが決意しました。
この決断が明治維新につながります。
妥協せずに戦争も辞さなかったからこそ、後にあれだけ急激な改革もできたのです。
それをやらなければ、後の『廃藩置県』など成功しなかったと思います。
この意味で、『小御所会議』が行き詰まったギリギリの場面での西郷の
「短刀一本あれば事が決する」
という一言は極めて重いのです。
いわば日本の運命を切り開いた一言とも言えます。
ちなみに私は、西郷が解らなければ、明治維新は解らず、明治維新が解らなければ、”日本”は解らないと思っています。
明治維新の大宣言である『五箇条の御誓文』も、上述したような討幕の過程から出てきたものです。
そもそも『五箇条の御誓文』は、原案の段階では諸侯会議の会議規則みたいなものでした。
しかし、諸侯会議の構想が、鳥羽伏見の爆音とともに吹っ飛んでしまい、しばらく「お蔵入り」してしまいます。
それを木戸孝允が再発見して、「諸侯会議を興し」を「広く会議を興し」に修正して、新生日本の国是に仕立て直すのです。
ここから、後に民選議員の設立を求める『自由民権運動』も起こります。
しかも、思想の流れという点から言うと、『五箇条の御誓文』には、近世の様々な思想が流れ込んでいます。
そこには、儒教的な王道政治の理念もあれば、坂本龍馬などの志士に大きな影響を与えた、横井小楠の説いたアメリカの共和制的な思想も入っています。
そして、それを「天皇が神に誓う」という神道的なかたちにコーディネートして公布されるのです。
その意味で、『五箇条の御誓文』は東西の高い政治理念を日本古来の思想によって見事に止揚させた『近代日本の政治思想原型』と言えます。
先の大戦後、マッカーサーからアメリカ直輸入の『民主主義』を押し付けられそうになった昭和天皇は、昭和21年元日に出された『新日本建設の詔書』の冒頭に『五箇条の御誓文』を引用されています。
それを引用することで、
“今更アメリカから貰わなくとも、日本は既に主体的に民主的な政体を作ってきている”
ということを敢然と示されたのです。
〔編集後記②〕
教師は、まず自分が『清浄』で『すがすがしい』という境地でいてほしいものです。
ですが、今の教育現場はどうでしょうか?
その逆でしょう。
それはなぜでしょうか?
教師が勇気を持って戦っていないからではないでしょうか?
教育の世界ほど、
「悪しき仲良し主義」
「みんな一緒主義」のようなものが蔓延しているところはありません。
それは、もう教師志望の大学生の時代から、そういう全体主義的な空気に慣らされて躾けられてしまいます。
「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」
とは、要するに普通の言葉でいえば、
「事大主義」「事なかれ主義」「長いものには巻かれろ主義」です。
それはやがて、教育現場に根深い「癒着」と「馴れ合い」を生みます。
私も長年、左翼教師集団が、何故この強い組織力を今も維持しているのかと考えた時があり、その根底にあるのは、実は高尚な思想などではないと近頃思っています。
そこにあるのは、
「悪しき仲良し主義」「みんないっしょ主義」それに基ずく「癒着」と「馴れ合い」だと見ています。
それが全国の教育現場の反天皇全体主義、反日全体主義の最も根底にあって、その巨大な悪を支えている巨悪ではないかと私は見ています。
なぜそれを突き崩せないのか?
世間には「きれいごと」ばかり並べて、要するに教育を「メシを食う手段」にしかしていない教師がたくさんいます。
その一方で、理想を見失わず、本気で「戦い」続けている教師もいます。
子供たちはそれを敏感に感じとります。
そういう教師は同僚からは、あまり評判が良くないかもしれません。
職員室では孤立しがちになるかもしれません。
「いい格好しやがって」
などという、醜い嫉妬心をたぶん教師という人種ほど強く持っている人々はいないでしょう。
けれども大丈夫です。
必ず子供たちが味方になります。
「子供たちが信頼してくれる」
ということほど、教師にとって強い心の支えはないはずです。
何よりも、理想に向かって戦う姿を子供たちに見せ続けることほど、素晴らしい教育はありません。
教育技術も知識も言葉も越えて、大人が子供たちに残してやれる最大の遺産は、実は
「勇気を持って生きた大人の姿」だと思います。
〔編集後記③〕
「バカモン!史実を根底から勉強し直しなさい!心から尊敬する偉人を…!久しぶりに心底怒り爆発じゃ!」
と、このようにTwitterでソフトバンク創設者の孫正義氏が、過去にアンチ龍馬のコメントに対しブチギレました。
孫氏はきっての龍馬ファンで、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を座右の書
であると公言しているほどです。
この作品は、戦後の日本人が生きていく上でのバイブル的存在といっても
過言ではありません。
しかし、孫氏も好きな司馬遼太郎の歴史小説やNHKの大河ドラマには、自虐史観にも繋がる罠が仕掛けられていたことをご存知でしょうか?
実は、それらには、いくつかの嘘が巧妙に仕込まれていたのです…。
その中から、特に不可解な3つの嘘を紹介します。
まずは、1つ目の嘘。
「戦争嫌いの平和主義者」
「ケンカはいかんぜよ。」
龍馬はこの言葉をドラマの中で何回も繰り返しています。
坂本龍馬は、幕府 vs 長州の内乱が起きないように、日本の平和を守るため、薩長同盟成立に奔走するように描かれています。
しかし、これには矛盾があります。
それなら、なぜ龍馬は、船や武器を長州に売り渡したのでしょうか。
この龍馬の働きによって薩長同盟は成立するのですが、それはあくまで薩長が力を合わせて幕府を倒すためと考える方が筋が通っています。
それに、龍馬は第二次長幕戦争に参戦し、このような言葉を残しています。
「戦争は、面白い出来事でした。」と。
本当に龍馬が大河ドラマで描くような平和主義者であったなら、戦争に参加して、
「面白い」と言うでしょうか。
次に、2つ目の不可解な嘘。
「龍馬はアホだった」
龍馬は、風変わりな人物像として描かれており、しかも、土佐藩を脱藩したアホなならず者みたいに描かれています。
しかし、ドラマや小説で描かれていない龍馬は、『新葉和歌集』を送ってくれと姉にねだり、『大日本史』一揃いを本箱ごと貸してくれと親友に頼んでいます。
どちらも幕末の志士の必読書で、龍馬はとても勉強熱心なことが分かるでしょう。
それに、龍馬がアホであるならば、幕府や4つの藩など、様々な政治グループが“生きるか死ぬか”の時代にあれほど龍馬を信じ、重んじたでしょうか。
最後に、3つ目の不可解な嘘。
この点にこそ、龍馬暗殺の真相が迷宮入りし、我々に自虐史観を植え付けた
所以があります。
司馬遼太郎が隠したい“3つ目の不可解な嘘”。
これが、今回ご紹介した本編の内容に繋がります。
歴史小説家として、そしてノンフィクション作家としても偉大な司馬遼太郎ですが、こと『坂の上の雲』に登場する乃木希典、そして『竜馬がゆく』の主人公である坂本龍馬に対しては、事実を歪めて実在した人物を登場させている極めて残念な作品です。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、この2作品については「小説は事実よりも奇なり」と言えます。どうしてここまで実在した人物を歪めて描いたのかは、やはり彼にある左翼的思想によるものが影響しているのです。
〔編集後記④〕
皆さんは、坂本龍馬が教科書から消えようとしていることをご存知でしょうか?
「高校の歴史教科書の用語が増え続け、授業や入試が暗記中心になっているのは問題」として、2017年に「坂本龍馬」を含めた「聖徳太子」、「上杉謙信」、「武田信玄」、「楠木正成」の用語を歴史教科書から削除する案が発表されました。
その削除する基準は、日本の歴史に影響を与えたかどうか。
つまり、坂本龍馬は、日本の歴史に与えた影響が極めて小さいというのです。
しかし、本当に龍馬は“歴史上、意味がない”人物だったのでしょうか?
もちろん答えはNOです。
実際、昭和天皇はインタビューでこのような言葉を残しています。
「日本が民主主義を採用したのは、五箇条の御誓文が始まりである。」と。
つまり、現在における日本の民主主義は五箇条の御誓文に始まっていると。
そして、五箇条の御誓文は、龍馬が作成した『新政府綱領八策』の影響を強く受けています。
つまり、龍馬の日本の政治構想が五箇条の御誓文へと受け継がれ、さらに、現代の民主主義国家へとバトンを渡したということです。
きちんと学問として史料研究してきた方からすれば、このようなことは常識で、龍馬が明治そして戦後に与えた影響は非常に大きいことが分かります。
龍馬のことを正しく知れば、日本はイギリスの力は借りたものの、決して海外の借り物で国体を築いてきたのではなく、自分たちの力で民主主義国家を築いてきたことがよくわかるはずなのです。
しかし、不思議ではありませんか?
こんなにも偉業を成し遂げた人物がなぜ消されようとしているのか…。
それは、彼らの共通点を見れば一目瞭然なのです。
これらの”消すべきだ”と認定された偉人たちは、「天皇」「朝廷」を大切にしていました…。
実際に、龍馬の父・八平は有名な皇学者の弟子であり、また龍馬は土佐を脱藩する時に
「命よりも天皇が大切だ」
と言い残していることからも、龍馬は”尊皇の心”が極めて強いということは明らかです。
つまり、暗記教育を改めるというのは建前で、「左翼にとって不都合な人物を歴史から抹消する」
それこそが反日教育者の真の目的だったわけです。
彼らが、共産主義に関するマルクスやレーニンを消そうとは絶対に言い出さないことからもわかるでしょう。
しかし、本編の最後にも書きましたが、なぜか戦後の龍馬には、天皇や朝廷を重じていたことなどが全くと言って良いほど書かれていません。
すっぽりと抜け落ちています…。
つまり、我々が信じてきた龍馬は反日勢力につくられた虚像で、本物の龍馬ではないのです…。
そこで、皆さんに大河ドラマや教科書で語られる“美しい虚像”ばかりを信じるのではなく、日本人の9割が知らない本当の龍馬と明治維新の真実を知ってほしいと思い今回は幕末を題材に記事にしました。
今回は参考にした文献も多く、いつもの倍の記事になりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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