流石に、店名が…、「トルコ大使館」じゃあ〜〜〜いくらなんでもマズイだろう…。トルコ🇹🇷のみなさんに申し訳ない…🐧💦
この話は有名な話ですが、知らない人は知らないのだろうなぁ〜。店名が「トルコ大使館」の話も同様にね・・・。
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1981年(昭和56年)から1983年(昭和58年)にかけて、東京大学に留学していたトルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリも「トルコ風呂」の名称にショックを受けた一人である。トルコ共和国から再来日した1984年(昭和59年)8月に、当時の厚生大臣である渡部恒三に「トルコ風呂の名称変更」を直訴するなど、改名運動を行った[2]。また、1983年(昭和58年)まで、東京都新宿区に「大使館」という性風俗店があり、そこが日本電信電話公社の50音別電話帳に「トルコ大使館」と掲載されていたため、渋谷区に駐在している本物の駐日本国トルコ共和国大使館が抗議したこともある[3]。
この運動は、ジャーナリストの小池百合子(後に東京都知事)の協力を得て、日本のマスコミにも大きく取り上げられた。その結果、同年10月に横浜市の特殊浴場協会が「トルコ風呂」の名称を用いないことを決定、愛知県と神戸市でも、横浜に続いて「トルコ風呂」の名称が撤廃された[2]。
しかし、代わりとなる名称が決まらず、暫定的に「特殊浴場」「特浴」「湯房」などの名称が使われた[2]。東京都特殊浴場協会は新しい名称を一般公募し、同年12月19日に赤坂プリンスホテルで会見を行い、新たな名称である『ソープランド』を発表した[2]。2,400通以上の募集があり、最も多かった名称は「ロマン風呂」「浮世風呂」だった[2]。このほか、「コルト」「ラブリーバス」「オアシス」「ロマンス風呂」「ラブユ」などの名称が提案された[2]。
以降、性風俗店を意味する「トルコ風呂」「トルコ」の呼称は公的に使われる事がなくなり、発表済みの小説や漫画作品においては、文章やセリフの削除もしくは「ソープランド」「ソープ」への修整が行われた。しかし、性的なイメージと離れた「ソープランド」の名称に、当初は反発する声もあった[2]。これらの風俗店で、性的なサービスに従事する女性を指す名前も、「トルコ嬢」から「ソープ嬢」「ソープレディ」に改められたが、新しい名前は馴染みが薄いために「ホステス」「コンパニオン」の名前が使われているところもある[2]。
https://blog.excite.co.jp/nyliberty/20985708/
何年前だか忘れちゃったけど、こんなシーンもあったんだね〜。東京が、2020年のパラリンピックに決定した時の、安倍総理とトルコのエルドアン大統領、発表後喜びのハグの一場面。東京オリンピックは、ぶっ飛んじゃったね。中国共産党が全てを台無しにした。【習近平の国賓訪日】も中止になった。。。これは天罰か?それとも神業か…? 🐧💦
(上記のブログよりの転載です。👇 )
「もしイスタンブールが五つの輪を射止めたら、私は誰より先にイスタンブール万歳と言う。東京が射止めたら、誰よりも早く万歳と叫んでいただきたい」との安倍首相の事前のお願い通り、2020年夏季オリンピック開催地の決選投票で敗れた直後、安部さんに駆け寄り、抱擁で祝意するトルコのエルドアン首相。そして、インターネット上には、"Tebrikler Tokyo"(トルコ語で、おめでとう東京)。
\"Tebrikler Tokyo\"(おめでとう東京)、親日国トルコと日本の関係_b0007805_19351975.jpgトルコの方々から日本人へ向けた祝福のメッセージは、あまりに数が多いため、世界のツイッター・トレンドワードにも登場したそうです。
2012年に外務省が実施したトルコにおける対日世論調査によると、トルコ人が持つ日本人のイメージは、「勤勉・誠実(70.8%)」「伝統文化を大切にする(31.6%)」が上位を占め、トルコにとって重要なパートナーに13.7%が日本と回答。これは、イスラム諸国(29.9%)に次ぐ2位で、欧米や中東諸国より上(米国8.4%、EU6.9%、中東諸国7.5%)。
実際、ニューヨークでお会いするトルコ人(英語では"Turkish"、ターキッシュと言います)の方々は、まるで兄弟姉妹のようにとっても良くしてくれる超ウルトラ・スーパー親日家の方々ばかり。日本国内ではあまり知られてないかもしれませんが、トルコ人の方々は何かの機会があるごとに、日本人の勤勉さや誠実さ、優しさや助け合い精神を心から尊敬していると言ってくれるのです。
なぜ、トルコ人の方々がこんなに親日家なのでしょう?
それにはちゃんと理由があるんです。
いろいろな理由ありますが、その1つが1890年(明治23年)9月16日夜半に起こった『エルトゥールル号遭難事件』。現在の和歌山県沖でオスマン帝国(含、現トルコ)の軍艦エルトゥールル号が台風により岩礁に激突、座礁し、沈没。587名が死亡または行方不明になる大惨事が発生。和歌山県串本町の樫野埼灯台下に流れ着いた生存者が灯台守に遭難を知らせると、大島村(現在の串本町樫野)の住民は総出で救助と生存者の介抱にあたりました。
その際、台風で出漁できず食料の蓄えもわずかだったにも関わらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら与え、生存者たちの救護に努めたそうです。まさに日本人精神。そして、遭難の知らせを聞いた明治天皇も大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示!!! 事故からわずか20日後の10月5日には、69名の生存者たちは日本海軍の「比叡」と「金剛」の「2隻」の軍艦で東京品川湾からオスマン帝国の首都・イスタンブルへと出発。翌年1891年1月2日に無事に送り届けられたのです。
この『エルトゥールル号遭難事件』は、トルコでは歴史教科書にも掲載されており、子供でさえ知らない者はいないほど重要な出来事だそうで、「日本は命をかけてトルコ人を救った国」との印象が多くのトルコ人に刻まれているのだとか。また、トルコ人は親切にされたら必ず恩返しをするという国民性なんですって。
しかも、トルコの方々は、本当に日本へ素晴らしい恩返しをしてくれてるんです。
\"Tebrikler Tokyo\"(おめでとう東京)、親日国トルコと日本の関係_b0007805_20462650.jpg時は、1980(昭和55)年に始まったイラン・イラク戦争が、5年経ってますます激しくなっていた1985年。
イラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆するほどとなってまして、ついに、1985年3月17日、イラクのフセイン大統領がイラン領空を「戦争空域」と宣言。
48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は「民間航空機もすべて撃ち落とす」という歴史的にも類を見ない声明を出しました。この声明を受け、イランにいた外国人一斉に出国へ。当然、日本人も脱出しようとしましたが、既存のフライトは全て満席で乗せてくれる飛行機がない状態でした。
そこで、日本政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼しましたが、日本航空のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由にいずれもこの要請を拒絶!!! さらに酷いというか恐ろしいことに、当時の社会党が「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争につながる」と反対したため日本の自衛隊機の海外派遣はできず、結果的に、日本政府は現地に残された日本人を見殺しに・・・。平和ボケもここまで行くと犯罪ですよね。
不安と恐怖の中、現地の日本大使館の大使館員たちは全員イランに残る事を決め、日本人を脱出させるために全員徹夜で仕事を続けました。大使館員の中には死を覚悟し、両親に遺書を残した人もいたそうです。
刻々と48時間の猶予期限が終わりに近づいていたとき、親友である伊藤忠商事・森永堯氏の依頼を受け、トルコのオザル首相(のちの大統領)が特別便を飛ばす事を決断!!! トルコ航空はすぐさまミーティングを開き事情を説明、戦火の中を飛ぶかもしれない特別機への志願者を募ったところ、なんとその場にいた全員のパイロットが挙手。
すごい。これから戦争がはじまる、わざわざ民間機でも無差別に打ち落とすと発表があったところへ、軍用機じゃなくて民間機のパイロットなのに、しかも、自国民じゃない人々を助けるために。自分が同じ立場だったら果たして手を挙げられるでしょうか?
そして、日本人を救うため「2機」の特別機が、空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港へ。無事、空港にいた日本人を救い出し特別機が飛び立ったのは午後7時30分。フセイン大統領の無差別攻撃開始のタイムリミットのわずか1時間前のことでした。
グローバル化時代と言われて久しいですけれど、日頃、日本国内では海外の情報はほとんど報じられることがないので、このトルコと日本の一連の出来事を初めて聞いたという方も少なくないと思います。こういうお話こそ、国境を越えて助け合うという真の国際人の精神の大切さを学べるエピソードですので、日本でも小中学校の教科書とかに掲載したら良いのにね。
さぁ、2020年には東京オリンピック。
その準備がこれから様々なかたちで進められることになると思いますが、ホスト国の国民である日本人は、日本と諸外国との歴史や関係性や、なぜその諸外国で日本や日本文化が愛されているのか?などについて、もっとちゃんと知っておくべきでしょう。
あっ!ここ👆に森元首相がいます。色々と奔走されて、お疲れ様でした。🐧💦