腹がたたない生き方
最近、参拝などしていても思うことなのですが、
神さまというのはどういう存在かなーと思うと、
ふつうなら憎たらしいような人のこともそうは思わない存在なんだろうなー
ということです…(^^)
というのは、いろーんな人が来る神社というところは、
鎮座している神さまからすれば、
「人が嫌い」「人ごみが嫌い」「HSPなんです」
とか言っていられないわけで(≧▽≦)、
来る人のことばは取り合えず聴くわけですよねぇ。
なかには「勝手な奴だなー」とか「それはないだろー」とか思う人もいるはずなのですが(笑、神さまは嫌だとか言わずに、とりあえず鳥居はくぐらせるし、お参りもさせてくれるわけです…。
大人が幼児をみているときに、
”いまのはあなたがよくなかったよ~”と、あきらかに思うことであっても、ギャーッと泣き出した幼児がいれば、よっこらしょ、と抱き上げて「ヨシヨシ…(元をただせば自分が原因でも)ひどい目に遭ったなぁ」となぐさめますよね。
そんなものかな、と思ったりもします。
こういうものの見方は、私は、自分が親になってからはじめて拓けました…。
(兄弟の下だったもので、こどものときには上にしか興味が持てなかった…。こうこう内容のことを本で読んでもよくわかりませんでした(^-^;。
なんというか、あきらかに未熟な存在だとわかっているから、慈愛が湧いてくるのですねぇ…。「甘えという以前に、未熟すぎるのだな」というような感覚。
神さまもいろいろいらっしゃるにしても、神さまとして慕われるほど、人格?が高いとするならば、人間も、少しでもそういう魂に近づけるように生きて行っているんだと思うのです。
というか、それが本人としていちばん頭にこない生き方なのですよねぇ…本当は。
どんな人がいても、腹がたたない人生というものが理想…☆彡
ーでも、だれの人生にもある程度あらわれますよね、
「まさか、こんな目にあわせてくる相手がいるなんて…(愕然)!!」
という相手。
最近読んでいる桜井識子さんの本に出てきたので、私も読んでみたのですが、ありえない修行を乗り越えた阿闍梨さんでも、修行中にそういう相手がいたそうです。お寺というのも「集団生活ですからいろいろなことがあります…」というようなことが書いてありました。
それで、なんでそういう相手に遭ってしまうかということを考えると、ある程度「鋭いから」なんだと思うのですよねぇ~
鋭い、というのは、なんでもキャッチしてしまうということで、”観察力がある”というのはとてもいいことのようなんですが、実は、よき人生にはあまりいらないものなのかも、と歳をとると思えてくるのですね。。
気功の世界にも「みているようなみていないような」というのがもっともいい状態という観点がある、ときいたことがあります。
ぼんやりやわらかいおばあちゃんのそばにいたら、安心して穏やかな子でいられますよね、そういうことってあります。
なかなかなれないから悩むのではありますが、私もゆくは目指している、と書いておきたいと思いました(^^)/
もうこれはほわほわとした毛もほんとかわいい~と思う子猫のお写真お借りしました、今回もありがとうございます☆彡