「ともに生きる」とは
12/20の鶴見区自立支援協議会権利擁護部会研修にて、代表・渋谷が行った発表の原稿をこちらにもアップします。
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このキャラクターを御存知でしょうか。
人KENまもるくん、人KENあゆみちゃんと言います。法務省の人権啓発イメージキャラクターです。あの有名なやなせたかしさんが制作を担当しました。
実は、僕はこのキャラクターが好きではありません。
歴史的に考えれば、近代的な意味での人権は、18世紀ヨーロッパの市民が自らの命と引き換えに勝ち取ったものでしょう。
このキャラクターには、そういった「人権」という言葉の背景にある、緊張感や厳粛に向き合わなければならないという姿勢が一切感じられません。そういったことを含めて、人権を最も深く理解していなければならないはずの法務省が、率先してこのようなキャラクターを作ってしまうこと自体、僕には理解できません。
もうひとつ言わせていただければ、人権を擁護するという言葉にも、どうも違和感があります。人権とは、一人ひとりに備わっているものであり、それが十分に尊重されていないとすれば、それは人権侵害の状況ではないでしょうか。基本的には、この二者択一でと思うのですが、擁護と言う言葉は、この辺の意味合いを曖昧にしているような気がします。
しかし、御存知のように、この国の法務省には、人権擁護局という立派な部署があります。
障害福祉の分野でも、人権擁護あるいは権利擁護という言葉が当たり前のように使われています。30年以上でしょうか。この使い方はおかしいと、主張し続けてきましたが、未だに賛同者はごく少数です。
まあ、僕たちの発言は、大概そうですが。慣れているからいいんですけど(苦笑)。
さて、前置きが長くなりましたが、今日いただいたテーマは「当事者が語る『ともに生きる』とは」ですが、お話しをいただいたのが、権利擁護部会ということですので、障害者の人権という観点から共生を考えて行きたいと思います。
旧優生保護法
現在、旧優生保護法を根拠とした優生手術、つまり強制不妊手術の被害者が全国各地で損害賠償訴訟を起こしています。
「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」の前文を紹介します。
この法律は、前文で明確な謝罪を打ち出しながらも、一時金の給付法であり、被害者の救済法ではありません。そして一時金はわずか320万円であり、しかも5年の時限立法です。
私たちの命は、わずか300万円ということになります。現在、これを不服として、全国各地で損害賠償訴訟が起こされ、大阪、東京、札幌、仙台高裁で勝訴しています。しかし、いずれも国は上告し、最終的には、最高裁の判断になります。この最高裁の審理が、裁判官15名全員による大法廷で行なわれると聞いています。しかし、昨今の最高裁はどちらかというと政府よりであると感じており、予断を許さない状況です。
2017年11月、神奈川県立公文書館で優生保護法に基づいて行なわれた強制不妊手術に関する資料が発見されたことが報道されました。
次にあげるのは、神奈川県優生保護審査会に提出された「検診録」です。前述の記事にある、2017年11月に発見されたとする資料の中の一枚であり、神奈川県立公文書館で閲覧しました。
この資料を写してご紹介することには大きな躊躇いがありました。そして今でも躊躇っています。一人の障害者が、女性が、このように扱われた事実を写して多数の人に紹介することについては、どうしても違和感があります。
しかし、私がどんな言葉を使ってもこの資料を目にした時のやり切れなさ、怒り、恐怖は伝えることができないと思いました。
閲覧室の窓際の席で待っていると無造作に台車に積まれたA3とA4と思われる10冊ほどの分厚いファイルが机の上に並べられました。
緊張を抑えながら一番上のファイルを開いて目に飛び込んできたのがこの資料でした。
「手術希望場所」に書かれている住所は私が子どもの頃暮らしていた実家の隣町でした。そんなこともあり、いっそうこの資料の生々しさを感じたのかもしれません。
昭和37年、当時6歳だった私は、むろん障害はありましたが、父母祖母そして当時同居していた叔母夫婦いとこに囲まれてそれなりに幸せに暮らしていました。
その暮らしの間近で優生手術が行われていたのです。
この当事者が私であってもなんら不思議はない、そのことが感覚として伝わってきました。
優生保護法の法文は何度も読んでいます。当事者の意思に反した強制不妊手術が行われていたことはむろん分かっていました。関係書籍も何冊か読んでこの法律のことを一応は分かっているつもりでした。しかしこの日、自分がこの法律について何も理解していなかったことを思い知らされました。
資料には検診録の他に、保護義務者が署名している優生手術の申請書、「本系図は本人の母の陳述により作製した。本人以外に精神障害者なし。」と書き添えられた家系図がありました。
家系図は父方母方それぞれ三代までさかのぼっており、死亡原因、性別、存命の家族で健康な人には(健)の文字が添えられています。遺伝の確認を行ったものでしょう。
この事実を突き付けられた私たちがどのように行動するのか、言葉にならないほど重い課題です。
血液検査による出生前診断
現在、血液検査により障害診断が大きく広まっています。
少し古い記事ですが、
現在は、認定医療機関だけではなく、認可外医療機関にも大きく拡がっています。
優生思想は、現在も確実に生きつづけています。「障害者はいないほうがよい」という意識は植松被告だけの特別なものではありません。
やまゆり園事件
2016年7月26日早朝、いつものように目覚めてテレビをつけると、津久井やまゆり園の園舎に多くの救急車にパトカー、消防車などが停められ赤い回転灯が光っている。おびただしい数の警察官、救急隊員が車両と園舎の間を激しく行き来している。それが、津久井やまゆり園事件の第一報を知った時の光景でした。
その時のとても言葉では表現できない感情は、おそらく一生忘れることはできないでしょう。
「ヒトラーの思想が降りてきた」「目標は重複障害者が安楽死できる世界です」「障害者は不幸を作り出すことしか出来ない存在」植松死刑囚が事件前に衆議院議長宛に送った手紙と、逮捕後の供述とされる言葉です。このような価値観が植松受刑者だけのものであると言い切れるでしょうか。
昨年、県立施設である中井やまゆり園で、職員が利用者を骨折させるという虐待事件が発生し、県は調査委員会を設置しました。9月に報告書が提出され、70件以上もの虐待事案が報告されました。その中には、利用者の肛門からナットが摘出されたというものもあり、本人が入れたとは思われず、何者かが意図的に行ったと結論付けています。明文化は避けられていますが、施設の日常の中で、本人が行ったものでないとすれば、職員以外には考えられません。
おそらく、津久井やまゆり園も同様の状況にあり、植松受刑者の凶行も、そのような施設のあり方に、深く影響された結果であるともいえるでしょう。
インクルーシブな社会を目指して
極端な例を持ち出して言うと思われるかもしれません。しかし、現在のこの国の社会に障害者は本当に受け入れられているでしょうか。
県内のある政令市で、5年もの間、地域の小学校への入学を願っていた障害のある子どもが、受け入れられず、特別支援学校への入学を強いられました。
確かに街はバリアフリー化され、地域で暮らす障害者は多くなりました。しかし、特別支援学校に通い、卒業すれば日中活動の場へ通所し、グループホームで暮らし、という例がほとんどです。同じ地域で暮らしながら、障害がある人とない人は、日常的に関わることがほとんどありません。
昨年9月、障害者権利条約に基づく国連障害者委員会第一回総括所見では、現在の日本の社会の在り方をインテグレートと位置づけ、インクルーシブを目指すことを強く勧告されています。インテグレーションとは、同じ地域社会にありながらも、障害者だけが分けられている状況です。具体的に言えば、特別支援学校、特別支援学級、日中活動の場、グループホームなどがこれにあたります。これに対して、インクルーシブは、障害者と健常者がごちゃごちゃと一緒に生活している状況です。
さて、現在、障害福祉分野でも、人権擁護あるいは権利擁護が国によって強く打ち出され、事業所の運営にあたっては、詳細なマニュアルが作られ、その遵守が強く求められます。
それでも津久井やまゆり園事件は起きてしまったのです。それでも中井やまゆり園の凄惨な虐待は起きたのです。これはなぜでしょうか。
むろん、規則を軽視する職員をはじめとする県立施設関係者の体質の問題はあると思います。しかし、現在、厚生労働省などが打ち出している障害者の人権に関わる本質であるはずの、先に述べた優生保護法の問題、それに基づいた強制不妊手術の問題、そして現在の血液検査による出生前診断の問題が、含まれていないのではないかと思うのです。
親になるとき、つまり自分やパートナーが妊娠・出産をするとき、最終的に願うことは五体満足であってほしいということです。
つまり、障害だけはもって生まれてほしくないということ。
この、親としての深く素朴な愛情が、ある意味残酷にも優生思想に結び付いてしまう。
福祉・医療を仕事とする人々が最後まで抱え続けまければならない課題ではないでしょうか。
たとえば私は障害者に生まれて悔しい思いをしたことや困ったことはたくさんあります。不幸だと思ったことは一度もない。これは本当です。しかし逆に言えば、両親や私を支えてくれた周りの人は、私に不幸だと言わせないためにどれほどの力を費やしたか、そのことに本当に感謝しつつも私は問わなければならない。
障害者が生まれることによって本当に不幸になるのは誰か。
障害者が生まれないことによってその不幸が避けられるのは誰かと。
少なくとも当事者ではない。
不幸になるのは、障害者が生まれることによって「負担」を受け止めなければならない人々、広くいえば社会・国家そのものである。
現在の福祉・医療関係者は、地域で生きるイコールグループホームであり、日中の場であり、特別支援学校であるという意識を持たれている方々が多いように思います。しかし、今回の国連の総括所見は、その意識を打開し、インクルーシブな社会を目指すことを求めています。