「2つの鑑定で再審請求審に挑む」飯塚事件(9)
※この記事もややブラックなユーモアの表現を含みつつ考察することをお許し下さい。
さて、ものすごく開かれること自体が難しい再審請求だが、再審を開始できるためには以下の要件を何か一つでも満たす必要がある。
これらのどれかを満たさなければ再審が開始されることはない。つまりは正攻法でいくならば新しい証拠を示し、裁判で認定された証拠をひっくり返すほかない。そのため、無罪にできるほどの完璧な証拠が出てこない限り、日本で再審が開始されることはないのだ。そう考えると、状況証拠だけで構成されたこの事件をひっくり返すことは不可能なのではないかと感じてしまう。
この再審請求にあたり、弁護側は目撃証言の信憑性を問う厳島鑑定と、DNAの信憑性を問う本田鑑定により戦いを挑んだ。
●厳島第2次鑑定書決戦
そもそも、厳島第1次鑑定に対しては以下のようないちゃもんがつけられていた。
①4月の桜の季節にやった実験は車がよく通るから冬の全く通らない時と違うでしょ!
②実験の車は後輪の小さいダブルタイヤじゃなくて普通のワゴン車の横にもう一つタイヤを置いただけでしょ!
③実験の時には対向車が平均約30秒に1台もあったからそんなに注意がいかないでしょ!
とゴネられ「実際に不審車両を目撃した条件とは異なっているため、結果をもって供述の正確性に疑問が生じるということはできない」と結果を切り捨てた。
「その被験者は毎週八丁峠を通行してねーし、乗り慣れた車じゃないじゃん!」とその違いをさらに指摘し、目撃者にとって八丁峠は「藤原とうふ店の配達ぐらい熟知してるから、ハンドルを離して見れるぐらい余裕だし、いつものハチロクだし」と言い出した。
もはや論点が違う。目撃者はサヴァン症候群(写真のように記憶ができる人がいる)などではない。そもそも厳島実験では「普通の人間ではそこまで沢山の項目を記憶することが難しい」と述べているのだが、厳島第2次鑑定も否定された。
どれほどすごいのだろうかT田さん。飲食店に入ると客の外観と非常口を瞬時に記憶できるジェイソン・ボーン並みの記憶力だ。反論を受けて厳島教授はわざわざ第2次実験では
・被験者が走行する距離を短くし、
・被験者が運転する車両をオートマティック車にし、
・被験者の半数の者に対し「走行途中に、対向車線に車が必ず駐車していますので、その車とその前後を注意深く見てください」と指示すら行っている。
にも関わらず、ほとんどの項目について覚えていられなかったのだ。
短期記憶を保持できる数はすでにわかっており、心理学者ミラーにより「マジカルナンバー7」と呼ばれ、7±2個との研究結果が出ている。しかし、T田さんは実に15以上の不審者と不審車両の特徴を記憶していた。不思議がいっぱいなのだが、結局、以下のような結果が出された。
明白性とは、「新たに発見された証拠が、判決の基礎になっている事実認定に影響することが明らかであること」を指す。つまりは、この程度ではT田さんの言ったことは全て信頼できることとできるわけで、それならやっぱりワケハゲさんはどこに行っちゃったのだろう。
●科警研の変
本田鑑定書では血液型鑑定とMCT118法に関する物言いが入る。
本田鑑定書では、
①血液凝集反応はあくまで定性試験であって定量試験ではない。酒井・笠井鑑定が血液凝集反応に強弱を血液型判定に持ち込んだことは完全に誤っている。
②血液型判定の判断の根拠となる写真が添付されておらず、検査結果に客観性が保証されていない。
③被害者B山のMCT118型のいずれのバンドも増幅されていないから、被害者B山の血液がA子に混合していた可能性は完全に否定される。
④抗B抗体に強い反応を示していたことが正しいとすると、被害者B山にないB抗原を有する血液が被害者B山の血液を凌駕するレベルで多量に混合していたことになるが、MCT118型では被害者B山の型以上に被害者両名以外の型が濃いバンドとして増幅されているという結果は得られていない。
⑤血液型検査に比べて、DNA型検査の方が資料を多く必要とすることや、検査の鋭敏さにおいて劣るなどということはあり得ず、むしろ、後者の方が資料は微量で済み、かつ鋭敏である。そのため、血液型が検出された混合資料についてDNA型が検出されないことはあり得ない。
という点について指摘している。
これらに対して、再び伝家の宝刀「屁理屈」が展開される。
「事件の資料を実際に分析した訳でもないし、血液型の一般的なことを言ってるだけでしょ?」と訳のわからない理論を展開し始めた。
「現実に観察された血液凝集反応に、豊富な自らの経験を当てはめて判断したものといえるから、その判断結果は合理性を有するといえる」らしい。
どうやら科警研では凝集反応の強さに基づいた混合資料のガイドラインがあるようだ。そうでなければ、個人の経験に基づく判断によってB型と判断されたことになる。経験に依るものであれば人によってその判断は違い、それに客観性が有るかどうかはわからないとしか言いようがない。取って着けたかのようにもう1人の技官も似たような証言をしているが、少なくともこの血液型鑑定は客観性のあるものではない。
もう一度言う、血液型鑑定の犯人とされる血液型の出現は、客観的判断によるものではない。科学的根拠に従ったものではなく、経験則による判別であった。経験が豊富であれば、結構大丈夫らしい。
この技官はどれだけ血液型のプロフェッショナルだったのだろうか。何度でも言うが凝集検査は定量ではなく、定性検査だ。
さらに、混ざってしまったものからつまみ出した部分に元の分かれる前の資料がどれだけ入っていたかなんて誰もわかるわけがない。コーラとペプシを混ぜて飲んだ時に、「コーラが4割だな」など誰がわかるであろうか。さらには、血液型によっては混ざると凝集を起こすものもあり、すでに凝集していたかもしれないのだ。何がどれだけあったかは、もはやわからないし、それを討議する意味はおそらく、ない。
それでも、犯人が1人であるとすれば、B型としか考えられないと、もはや恋に落ちた乙女のように盲信している。
なぜか反応の強弱が考慮されちゃって、さらにA型物質がB山由来のものとされちゃって、「残りはB型」と判断されてしまう。
そして検察は「私たちは別に特定はしていない、裁判所が判断したでしょ」と全力で人のせいにしている。まるで子供の喧嘩のようだ。さらに不可解な言い訳は続く。
理解ができない。抽象的推論というのならば、B型としたことも主観に判断を委ねた経験則に基づく推論だ。
どちらかわからず、AB型かB型と言うなら、少なくとも死刑にできるほどの証拠とはなり得ない。鑑定の信用性を述べているのではない。結果を考えるとAB型が自然だと言っているのだ。
やはりMCT118法の結果が混合資料とする最も大きな根拠なのだ。最も合理的なものが最も信用に値するのは当然だ。さらに、単独資料であればAB型と言うのなら、混合資料がなぜB型となるのか論拠が存在しない。
一つも説明をしないまま「酒井・笠井鑑定の血液型鑑定に関する本田鑑定書等における指摘は、いずれも採用することができない」としているのだ。
●MCT118型鑑定の乱
本田鑑定書では本田教授は以下のような主張している。
①DNA型検査をしたところ、久間氏のMCT118型は18-30型と判定された。久間氏のMCT118型を16-26型とした酒井・笠井・佐藤鑑定の鑑定内容は、型判定において誤りがある。
②酒井・笠井鑑定等は、被害者由来のDNAと、久間氏のDNAが同時泳動された写真がないため、客観的正当性がなく、証拠価値に疑問がある。
③さらに、酒井・笠井鑑定添付の電気泳動写真と酒井・笠井・佐藤鑑定添付の電気泳動写真を比較検討すると、泳動位置に違いがあり、被害者両名以外の型が16-26型であるとすれば、久間氏の型は16-27型と判定され、明確に異なっている。
④酒井・笠井鑑定の結果からは、被害者両名以外の混合が1人なのか、2人なのか、3人なのか、あるいはそれ以上なのかもわかっていない。
⑤「ポリアクリルアミドゲル電気泳動法」では、DNAは必ずしも分子量に従った流れ方をしないので、ポリアクリルアミドゲルで123塩基ラダーマーカーを使ってMCT118型を判定すると型判定を誤ってしまう。
●本田第2次鑑定書の内容
さらに、本田第2次鑑定書は、酒井・笠井鑑定等に添付された電気泳動写真のネガフィルムを可視光及び近赤外光で撮影したデジタル画像データについて精査した結果を物申したものだ。
①酒井・笠井鑑定の鑑定書のネガフィルムのデジタル画像データでは、被害者両名の心臓血を含むすべての資料において、16型のバンドが検出されているから、16型のバンドは非特異増幅バンドないし外来汚染によるもので、犯人の型とは無関係のバンドである。
②前記デジタル画像データの資料には、41型、46型と見られるバンドが存在し、このバンドは被害者両名のみの血液資料からは検出されていないことから、犯人はこのバンドの型を有する人物の可能性が高い。
③前記デジタル画像データの分析結果によれば、26型とされたものは、資料のうち3つで辛うじて認められるが、これらですら、濃度が非常に薄いのみならず、被害者両名のバンドと明瞭にピークの分離がされておらず、意味のあるバンドであるか否かの認定が困難で、ゲルの固まりムラによる泳動中の増幅産物の解離によるアーチファクトバンドの可能性を否定できない。
そのうち、特に疑わしい16型のバンドと、ネガフィルムにあった資料に写っていないバンドについて争っている。
まず、犯人の型とされる16ー26型についてだ。本田鑑定では久間氏の型は18ー30型であり、科警研からの資料を分析すると16ー27型となり、何もかもが違うのであるが、以下のように反論される。
いや、型がそもそも違うと言っているのだが「その当時」の判断では問題ないとしている。当時全ての資料は同じ条件のもとで揃えられているため、問題ないと。
これは、どう読み解けばいいのだろうか。犯人が何人いるかわからない以上は「16ー26型ではない可能性について肯定した」ということだろうか。
さらに、科警研の鑑定でも16−26型と「考えられる」としか述べておらず、最終判断は裁判所であり、さらに、「相当である」と言って煙に巻いている。もう再鑑定ができないからこそ、このようないい加減なことを言えるのだろう。
すなわち、再現はできない以上何を言われてもひっくり返すことができないため、その解釈はどうでもいいのだ。
そして、すべての資料に認められる16型については、非特異増幅バンド、PCRでの外来汚染、泳動時の汚染又はその他の実験エラーに由来するエキストラバンド(関係なく出てしまったバンド)であると考えられ、犯人とは全く無関係のバンドであるというものと解されている。
つまりは16型の検出についてはDNAが由来でない可能性を科警研も認めている。
ただし、エキストラバンドであるという決定的な根拠がない限りはそうだとみなすことはできないと判示している。
そして、証拠開示された切り取られていない部分のネガフィルムに写っていたバンド(X-Yバンドと呼ぶ)が被害者両名のみの血液資料からは検出されていないことから、犯人はこのX-Yバンドの型を有する人物の可能性が高いはずだ。このバンド様のものが非特異増幅バンド(DNAを由来としないエラー)ではなく、犯人由来のアレルバンド(DNAを由来とするバンド)である可能性を否定できない根拠として本田教授は以下の点を挙げた。
(Ⅰ)自験例において、MCT118型に37-47型が実在することを確認していること、
(Ⅱ)このような高いバンドサイズ位置にMCT118型のエキストラバンドがあることは考えにくいこと、
(Ⅲ)特定の意味のあるサンプルのみにしかX-Yバンドが認められていないこと、
(Ⅳ)高塩基バンドにもかかわらず、同一部位に明瞭にバンドが見られることである。
以上の根拠を挙げたが、以下のように切り捨てられる。
またもや同じ戦法だ。これがいいのなら、他のバンドもエキストラバンドの可能性があるわけで、もうどれもまともなバンドとは言えなくなってしまう。
「そんなとこに出ることもあるから、まあそんなもんだよね」で終了だ。
やはり後半戦は「あれもそうかもしれない」「これはそうかもしれない」の議論が続くだけだ。結局飽きてくるのだが、読んでいて一つだけ感じたことがある。結果を如何様にも考察できるものを、死刑の証拠として使ってはいけないのではないか、と。
一応、酒井技官及び笠井技官は、鑑定時に複数回電気泳動を行っているらしく、アレルバンドかどうか判断するために、少なくとも2回実施した電気泳動において移動度を確認したところ、再現性がなかったため、エキストラバンドと判断したとしている。しかし、実はその証拠となる実験ノートは残っていない。
なお、写真にMCT118法の結果の写真全てを載せなかったことを改竄行為と弁護側は指摘したが
「いや、ネガはちゃんと保管してたから、別に改竄じゃないでしょ」と言い放つ。
結局、あれこれ言っても、奈良の大仏のようにびくとも動かないのであるが、あまりにも科学的根拠に欠けすぎていたのか再審請求では「酒井・笠井鑑定等のMCT118型鑑定の証明力については、より慎重な評価をすべき状況に至っている」と判示している。しかし、その程度では「確定判決における有罪認定について合理的な疑いが生じるということはできない」らしい。
DNAの鑑定結果が怪しいと言うことは、確率の数字の一つがゼロになる可能性があるということなのだが、それでも久間氏の犯行であることは変わらないらしい。
むしろ、何があれば判決が変化するのか、教えて欲しいものだ。