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「殺人犯を無罪にするのと、無実の人を死刑にするのと、どちらが悪いのか」飯塚事件(11)

 何度も言うように、この事件には「被害者の血液が付着した凶器を所持していた」などの犯人と証拠を結びつける直接証拠が一才見つかっていない。にもかかわらず、6つの状況証拠から有罪となり死刑となった。
 近代司法は証拠が全てだ。でなければ、無知で煽動されやすい多数の人間を「コイツがやった」と口を揃えて言わせることに成功すれば、感情的に虚偽や扇動や洗脳で人を合法的に殺せる世の中になる。それがまずいかどうかは私にはわからないし、法律家でも何でもないが、この事件の証拠を調べてみるとどうも積極的に死刑にはできそうにない。少なくともこの証拠を並べられて「あなた死刑ね」と言われても、私なら到底納得できない。
 もちろん、小さな女の子2人に性的暴行を加え山中に捨てることのできる変態蛆虫ド鬼畜野郎を捕まえ、2度と娑婆に出さないことは何よりも優先されることではあるが、捕まえた人間が本当は犯人ではなかったとしたら?
 久間氏が有罪とされた理由とこれまで調べたことを最後にもう一度再検討したい。この事件におけるロジックをもう一度整理する。

①目撃証言

 T田らの目撃供述によれば、本件犯行に犯人が使用したと疑われる車両は、マツダ製の後輪ダブルタイヤの紺色のワゴンタイプの車両でリアウインドーにフィルムが貼ってあるなどの特徴を有しており、また、被害者両名の失踪場所の状況や時間帯並びに同場所と被害者両名の遺体及び遺留品の発見現場との位置関係や遺留品の発見現場で目撃された不審車両の発見時間からして、犯人は被害者両名の失踪場所等についての土地鑑を有する者であると推測されるところ、久間氏は、上記の車両と特徴を同じくする車両を所有し、かつ、上記失踪場所等に土地鑑を有すること(他方で、福岡県飯塚警察署管内に居住又は所在し、上記失踪場所等を通行する可能性があって、上記特徴をほぼ満たす車両を使用していた者のうち、事件本人以外の者には、いずれもアリバイが成立すること)

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 未だに、この目撃証言が犯人であるとされる幾つかの証拠のうち、もっともウェイトを大きく占めているものと考えられる。この目撃証言は以下の要素で構成されている。
 ①誘拐されたと思われる場所で、誘拐されたと思われる時間帯にマツダ紺色ボンゴ車がスピードを出して走り去ったのを2人の目撃者が目撃した。
 ②普段車通りの少ないところである八丁峠の遺留品遺棄場所にマツダ紺色ボンゴ車が駐車しており、近くに中年男性がいたのを目撃した。
 実のところこれだけだ。これだけで、犯人の車両は「マツダ紺色ボンゴ車」であると特定された。
 さらに、その後、警察発表では以下のように捜査が進み、久間氏とされた。それらは警察発表では以下の流れとされる。
 ①遺留品発見現場にいた男性の車の紺色ボンゴ車には、サイドステッカーがなかった(八丁峠の目撃情報の情報のみ)
 ②サイドステッカーのない紺色ボンゴ車を捜索していたところ、街中を走るサイドステッカーのない紺色ボンゴ車を発見した。
 ③その車はマツダボンゴ車の紺色ウェストコーストであり、所持していたのは久間氏であった。
 ④よって、久間氏が犯人である。
 しかし、誘拐や遺棄が疑われる付近で久間氏自身を目撃したものは誰もおらず、遺留品遺棄現場で目撃された男は久間氏ではなく、髪の長い分けた前頭部の禿げた中年男性であった。目撃者は実際に久間氏を見て、別人だと供述している。
 さらに、誘拐犯の所持車両がマツダ紺色ボンゴ車であるという確証はどこにもなく、紺色ボンゴ車はウェストコーストしか調べられていない。
 ここで特に注目されたのは、車体に貼られていた車体サイドのラインステッカーがなかったことだ。事件現場近辺に存在する紺色ウェストコーストを調べると、全てステッカーは貼られており、久間氏の車だけステッカーは剥がされていたようだ。これが、久間氏の車が犯人のものとされた大きな理由でもある。だがこれに関しても、全ての紺色ボンゴ車は調べられておらず、ウェストコーストだけだ。

 弁護側は遺留品遺棄現場での目撃証言が異常なほど詳しいことに対し、警察官による供述の誘導を疑っている。10項目をゆうに越える車と人物の特徴を覚えていた目撃者は、本当に純粋な事実を記憶していたのだろうか。
 近年の研究では、目撃証言は思いのほかあてにならないことがすでに科学的に証明されているが、どうも裁判官には共通認識ではないらしい。

 強固な証拠として目撃証言を受け入れる際に暗黙に了解されているのは、人間の心が出来事の正確な記録措置や貯蔵庫であるという仮定である。記憶は損なわれずに保持され、思考は不滅であり、印象は決して忘れ去られないとの信念を私たちは強く保持している。

「目撃証言」エリザベス・ロフタス キャサリン・ケッチャム著 岩波書店 2000

 日本では、いまだに目撃証言の持つ証拠としての力は強い。
 なぜ証言が怪しまれているかと言うと、まず最初の供述から日に日に詳しくなっているからだ。普通は短期記憶は時間と共に忘却されていくものだ。しかし、目撃者の証言内容は時間の経過と共に細かくなり、詳しくなっている。本当にこれだけのことをこの方はずっと記憶していたのだろうか。

 さらに、実際に久間氏の車を見てきた後に同じ警察官が目撃者の供述をとっている。この警察官が「こいつが犯人だ」と疑ったなら、確実に強力なバイアスがかかったことだろう。

 警察官や検察官が証拠を抑えて、事実をねじ曲げ、目撃者に圧力をかける場合、彼らは十分な自信と確実性をもって真犯人を勾留しており、正義が行われるのを見届ける義務があると信ずるために、そうするのである。一度でも「犯人は手中にある。その人物を町に出さないようにしなくてはならない」と自分自身に言い聞かせてしまうと、抑えた証拠を理解しようともしないし、事実をいくぶんとも歪めることが悪いことだと認識しようともしない。

「目撃証言」エリザベス・ロフタス キャサリン・ケッチャム著 岩波書店 2000

 実は体験したり、経験した記憶である「エピソード記憶」は、事後情報で簡単に形を変えることがすでにわかっているのだが、なぜか公判では「ものすごく信用性のおける情報」として鉄壁の扱いを受け続けている。

 起きたことの記憶は、記銘、固定化、保持、想起という記憶のプロセスのどの段階においても、記憶の書き換えや誤りの対象となりやすい。そもそも、記憶の形成プロセスに取り込めるのは、自分が気づき、注意を払ったものだけである。眼前に展開するすべての瞬間のあらゆる事象に気づくことは不可能なため、記銘し、のちに想起できるのは、出来事を切り取ったいくつかの側面だけだ。そこには、自分の色眼鏡を通した、自分の興味に合致したディティールしか含まれていない。

「記憶の科学」リサ・ジェノヴァ著 白揚社 2023

 どう考えても日に日に詳しくなってゆく証言は、誘導を受けた可能性が限りなく高いとしか思えない。

 エピソード記憶はだまされやすく、聞かされた話をすぐに鵜呑みにしてしまう。形成されたばかりの記憶は感化や書き換えの影響を極めて受けやすい。とくに記憶がまだ固定化されず、長期記憶となっていない期間(数時間か数日、あるいはもっと長いこともある)だと、その傾向が顕著になる。

「記憶の科学」リサ・ジェノヴァ著 白揚社 2023

 これらすでにわかっている科学的事実を全て無視して、目撃証言の内容は全て真の事実だと言えるだろうか。

 どのようなエピソード記憶であろうと、何度か想起されるうちに、オリジナルからは相当逸脱してしまう危険をはらんでいるのである。あなたが記憶している出来事の内容と、実際に起きたこととの関係は、いわば伝言ゲームだ。聞いた内容を隣の人に耳打ちするということを何度かくり返すと、もとの文とまるで違う文が伝わってしまうという、あの遊びである。

「記憶の科学」リサ・ジェノヴァ著 白揚社 2023

 どう考えても、車両の情報は確実とされ、人物の情報(ワケハゲさん)は不確実とされたことはすごく不思議で、不自然で、そして大きな矛盾だ。
 結局、ワケハゲさんは見間違えた久間氏ということになり、犯人か、ただ転んだだけかわからない本当のワケハゲさんは現在も絶賛行方不明中である。

 なお、女児の胃には未消化のキャベツが残されていた。このキャベツはもう12時間以上も前に食べたものが消化され切れずに残っていたとなされている。さらに遺体発見現場には屋台などで焼きそばを入れるような透明プラスチック容器が捨ててあった。この証拠品は裁判では女児とは関係ないものとされているが、女児が誘拐後に何か食べていたとしたら、その食べ物は商店街で購入された可能性が十分にある。なぜ商店街の話をするかというと、当初目撃証言の中には、2人の女児が商店街のおもちゃ屋で目撃されたものがあったからだ。もしかして少女たちは学校をサボって商店街へ行ったのだろうか。商店街での目撃証言が本当であれば、そこでキャベツが入った何らかの食事を食べた後の殺害ということになり、遺棄したのももっと後の時間ということになる。もしかしたらワケハゲさんの存在は犯行にカスリすらしない恐れもある。
 もし紺色ボンゴ車の持ち主を全員探したとするならば、真のワケハゲさんがいたはずである。その人に話を聞きたいのであるが、こいつはどこの誰だったのだろうか。

②繊維片

 被害者両名の着衣から発見された。被害者両名が犯人が使用した車両に乗せられた機会に付着したと認められる繊維片は、事件本人車と同型のマツダステーションワゴン・ウエストコーストに使用されている座席シートの繊維片である可能性が高いこと

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 注意していただきたいのは、この繊維片、完全一致していないことだ。しかも、類似していたとするのは、どこで付着したかも不明な極小の4本の繊維だ。
 女児の衣類に付着していたとされる繊維片はナイロン6で、およそ15マイクロメートル前後、二酸化チタンの添加されたいくつかの染料のついた繊維片である。これらは鑑定の結果、ナイロン6ステープル(短繊維)であることは確実にわかっている。それ以外の鑑定結果は、「おそらく同じ」か「非常に似ている」という結果でしかない。
 この結果を持って捜査機関は逮捕に臨んだようだが、実はマツダウェストコーストのシート繊維のナイロン6以外とは何の識別もしていない。つまり、外国製のナイロン製品とも、その他のメーカーなどから出されている例えば衣類などナイロン6との異同識別は行なっていないのだ。
 例えば、これらの繊維片は女児と一緒に捨てられていたこたつ布団の繊維かもしれない。もっと意地の悪い言い方をすれば、女児は他のウェストコーストに乗った可能性だってあるのだ。

③尿痕と出血痕

 久間氏の車の後部座席シートから被害者A田と同じ血液型であるO型の血痕と人尿の尿痕が検出されている。被害者両名ともに殺害されたときに生じたと認められる失禁と出血があり、事件本人が犯人であるとすれば、上記の血痕及び尿痕の付着を合理的に説明できること
(なお、事件本人が事件本人車を入手して自己の管理下に置く以前に、上記の血痕及び尿痕が付着した可能性はないこと)

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 これも当該女児の尿痕であったかどうかはわかっていない。さらに、2人とも失禁していたにもかかわらず、A子と同じO型の血痕、尿痕としか判明しておらず、B子の尿痕は見つかっていない。さらに、久間氏の家族はすべてO型であるが、これらの区別も全くついていない。
 何なら久間氏の座席シートの尿痕についてもウェストコースト前所有者と、久間家の家族に聞き取りを行なっただけで女児のものだと断定しているだけで、そのほかに何の比較鑑定も行っていない。「女児以外の由来ではない」とは、あくまで供述から判断しているに過ぎないのだ。

④DNA型鑑定

 警察庁科学警察研究所(以下「科警研」という)が実施した血液型鑑定およびDNA型鑑定によれば、被害者B山の遺体付近の木の枝に付着していた血痕、並びに被害者両名の膣内容及び膣周辺から採取した血液の中に、犯人に由来すると認められる血痕ないし血液が混在しており、仮に犯人が1人であるとした場合には、その犯人の血液型はB型、MCT118型は16-26型であり、いずれも事件本人の型と一致していること。

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 女児の身体及び周囲の付着物からは以下のDNA型(MCT118法)が検出された。

 久間氏と同じDNA型である16-26型のDNAが木の枝に付着していた血痕、A子膣周辺、B子膣内容物、B子膣周辺から検出されている。
 しかし、このDNA型が一致するのは1/266の確率であり、当時の飯塚市では約525人の人間が同じDNA型の判定となる計算だ。調べてみると他の論文では、1/16人であったり、1/30であったり、35.8/1000人だったりと、その確率は結構なまちまちさであり、DNA型鑑定については本当に信用に欠ける印象は否めない。
 さらに、他の検査法では女児の身体及び周囲の付着物からは以下のDNA型(HLADQ型検出法)が検出された。

 ミトコンドリアDNA(mt330DNA)においては、久間氏由来のDNAは検出されていない。
 HLADQβ法でも、久間氏と同一のDNA型は検出されていない。
 さらに、裁判に提出されたMCT118の結果写真は切り取られ載せられていた。切り取られた部分には、久間氏とは全く違うバンドすら出ており、なんなら本来出るはずのない心臓血にも他の人間のバンドが検出されている。
 この検査結果は本当に信用に足るものなのだろうか。これら微妙すぎる内容の鑑定結果については、再審請求棄却への即時抗告審では裁判官からも疑問が投げかけられている。

 この結論は、原決定が説示するように、犯人と事件本人のMCT118型が一致したとする坂井・笠井鑑定の証明力が、確定判決の段階より慎重に評価すべき状況が生じていること、すなわち、犯人と事件本人のMCT118型が一致したと認めることも、一致しないと認めることもできないことを踏まえても、左右されない。

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 すなわち事実上DNA鑑定の結果は証拠能力がないと判断された事になる。散々に公判内で検出されたりされなかったりしたことへの言い訳について、状況によっては核の量が少なかっただの、状況によっては赤血球が少なかっただの言っていたが、1995年の論文を探してみるとかなり希釈・混合された血液からでも検出が可能なことが既にわかっていた。

希釈血液について(中略)MCT118型は1024〜2048倍希釈、HLADQα型は2048〜4096倍希釈まで型判定可能であった。希釈DNAについてMCT118型及びHLADQα型検査を行ったところ、MCT118型は0.03〜0.06ng(常法量の64〜128分の1)まで、HLADQα型は0.16ng(同128分の1量)まで型判定可能であった。

「混合血液からの血液型およびDNA型(MCT118、HLADQα)の検出に関する検討」渡邊芳久・高山知周・平田敬二・山田定夫・永井淳・武内康雄・大谷勲 法医学の実際と研究 38:37−41 1995

 要するに、検出できなかったのはこれより資料が薄かったためということになる。それ、本当に犯人のDNAですか?

 さらに血液型についても疑問がある。科捜研の鑑定では当初女児の陰部付近からはAB型の血液が検出されたと判定されている。しかし、科警研の鑑定ではB型の人間が出現した。久間氏はB型である。
 では「AB型の人」はどこに行ったのだろうか。B型の犯人が、自分も出血しながらA型のB子を出血させ、B子の血液と自分の血液を混ぜながらA子に接触したためこのようなことになったとされ「AB型の人」の存在は抹消された。これは全員が血まみれという何とも奇妙な状況だ。
 一番最初の血液型鑑定の結果を見てみよう。
 A子の膣内容物・肛門内容物には血液があり、H型抗原のほか微量なA型抗原とB型抗原が検出されたためAB型と判定された。
 H型抗原を持つのはO型、
 A型抗原を持つのはA型、
 B型抗原を持つのはB型、
 A・B型抗原を持つのはAB型だ。
 A子はO型のため、A型と混ざれば凝集する。B型と混ざっても凝集する。もちろん、AB型と混ざっても凝集する。
 B子の膣内容物・膣周辺の付着物からはA型抗原とB型抗原が検出され、AB型と判定された。口腔内容物・肛門内容物についてはA型に判定された。B子はA型である。
 A型抗原を持つのはA型、
 B型抗原を持つのはB型、
 A・B型抗原を持つのはAB型、
 A型はB型の血液と混ざると凝集する。
 AB型はA型の血液と混ざっても凝集しない。AB型はB型の血液と混ざっても凝集しない。
 これらを踏まえ考えられる可能性は、
 ①そもそも犯人の血液は混合しておらず、分析を誤った(誤分析)
 ②犯人の血液は混合していたが、既に凝集しており測定不能であった(誤分析)
 ③B型の人間が1人いて、自らも出血しながらB子を触ったのち、A子を触った(この裁判での判断)
 ④女児とは別にAB型の人間(真犯人)が1人いた。
 ⑤女児とは別にB型の人間とAB型の人間が2人以上いた。
 ということになる。
 ごく普通に、自然に考えると、AB型が真犯人である可能性が高いように感じる。そもそも別の血液型が混ざると凝集反応が起こるため、判定自体が困難だとされている。本当に血液は混合していたのだろうか。もっと言うと、精液の付着もないのに、犯人はどうやって出血したのだろうか。かなり不思議な状況だ。B子を触った後にA子を触ったことについても、その確証はどこにもない。
 これではまるで「 B型が犯人であるから、その血液が矛盾なくどちらの女児にも付着するためにはどのような状況が矛盾がないか」を検討しているように見えてしまい、何だが順番があべこべだ。調べても、混合血痕の血液型鑑定はかなり難しいことはわかる。

 血液型抗原の汚染がなく、必要な血液型抗原量がある血痕の場合は正確な血液型鑑定が可能であるが、汚染血痕、腐敗血痕および微量血痕の場合では血液型抗原の付加、血液型抗原の変性などにより血液型を誤る可能性も起こり得る。

「A3B型血痕の鑑定例」石川富美雄、堀越啓子、坂上静香、山崎一樹、山田良広 鑑識科学,7(2),167-173 2003

 この鑑定を行った技官に、鑑定が難しいと言われる混合資料をどれほどの高いスキルで行えたのかは知らないが、今日に至っても混合資料はその分析方法だけだなく、蓄積され分析されたデータは無いようである。

 生化学的性質や形状が同じ、いわゆる同種混合試料(血液と血液、精液と精液、垢と垢等)からの個体成分の分離とそのDNA型検査については全く検討が行われていない。

「ABO式血液型に注目した混合血痕からの個体成分の分離とDNA型鑑定」常盤尚子、中村眞二、佐藤耕一、吉井富夫 法科学技術,19(1),1-8 2014

 2014年の論文ですらこのような現状であるため、飯塚事件における混合資料の鑑定結果にどれほどの信頼性があるのかは定かではない。何なら、血液型鑑定の結果はある程度の犯人の絞り込みには使えそうだが、同型の血液型と一口に言われても数としては少なくない。

 日本人におけるABO式血液型は、A型が38.2%、O型が30.5%、B型が21.9%、AB型が9.4%の割合で存在している。したがって、血液型の異なる二つの組み合わせと、その組み合わせ確率は、A型とO型の組み合わせで13.4%、A型とB型で16.7%、B型とO型の13.4%、A型とAB型で7.2%、O型とAB型で5.7%、そしてB型とAB型では4.2%であり、血液型を異にする組み合わせ確率の総和は70.5%となる。

「ABO式血液型に注目した混合血痕からの個体成分の分離とDNA型鑑定」常盤尚子、中村眞二、佐藤耕一、吉井富夫 法科学技術,19(1),1-8 2014

 さらには、血液へ別の体液だけでなく、自然物のコンタミネーション(汚染)によりDNA型を誤判定する危険性すらある。

 例えば、O型血痕がA型のだ液で汚染された担体上に形成されている場合、抗A抗体陽性という所見により、その部の検出DNA型はA型人物由来と判断してしまう危険性がある。

「ABO式血液型に注目した混合血痕からの個体成分の分離とDNA型鑑定」常盤尚子、中村眞二、佐藤耕一、吉井富夫 法科学技術,19(1),1-82014

 また、資料に付着した細菌によっても血液型判定を誤ることもある。混合資料というだけでなく遺体の状況により血液型やDNA型の判定を誤らせることは十二分にあるのだ。

 また、別の殺人・死体遺棄事件では、犯人の着衣に付着する血痕を鑑定した。血痕の付着状況から汚染や腐敗の影響は考えにくかったが、ABO式血液型検査の結果から、被害者のB型血痕のみが検出されるはずだが、 AB型が検出された。そこで細菌汚染を疑い、血痕から細菌を分離したところ、Acinetobacter lwoffiiが分離された。この細菌からはABO式血液型のA型物質が検出され、ヒトB型血痕にA型物質をもつAcinetobacter lwof- fiiが付着し、AB型と誤判定されそうになったことが明らかになった。

「犯罪捜査におけるDNA鑑定によるヒトの異同識別 微生物群集構造プロファイリングによる新たな法科学的手法の可能性」

西 英二・田代幸寛・酒井謙二 日本農芸科学会 化学と生物 2017年

 結局、あーだこーだと赤血球が多かったらどうとか、白血球が多かったらどうだとか言っているが、
どちらかが存在しなかった確率と、
 もともとどちらも存在していなかった確率、
 さらに、どちらも存在していたが、誤った確率、

 どれが最も確率が低いと考えられるだろうか。
 本来、血液型鑑定も、DNA型鑑定も、ごく少量の資料で個人を特定できるからこそ法医学の分野で発達した技術のはずだ。

 血液1μL中には約4000〜8000個の白血球があると言われている。つまり、150個の細胞(有核)を血液量に換算すると、血液0.02μL程度と極少量であるため〜

「ABO式血液型に注目した混合血痕からの個体成分の分離とDNA型鑑定」常盤尚子、中村眞二、佐藤耕一、吉井富夫 法科学技術,19(1),1-8 2014

混合血液についてABO式血液型は1:15〜31まで、MCT118型は1:31〜127まで、HLADQ型は1:31〜63までの割合の混合血液からそれぞれ判定可能であり、DNA型の検出限界はABO式血液型のそれより高い傾向を示した。

「混合血液からの血液型およびDNA型(MCT118、HLADQα)の検出に関する検討」渡邊芳久・高山知周・平田敬二・山田定夫・永井淳・武内康雄・大谷勲 法医学の実際と研究 38:37−41 1995

 新鮮血痕においてはA型抗原の判定限界が1:4から1:16の希釈血痕まで、B型抗原の判定限界が1:8から1:32の希釈血痕まであり、両者につねに1段階もしくは2段階の差が認められた。釈溶媒の違い、血痕を形成する素材の違いは判定結果にほとんど影響を及ぼさなかった。

「解離試験による血痕のABO式 血液型判定法の 半定量的解析」伊澤光・梅澤宏亘・藤城雅也・石渡康宏・ 大多和威行・有馬由子・高橋良治・李暁鵬・堤肇・佐藤啓造・和医会誌 第68巻 第3号 〔162-174頁,2008〕

 市販されている検査試薬の元々の濃度によっても、出る結果に差異があることもわかっている。ある論文ではAB型をB型と判定してしまう危険性に警鐘を鳴らしていた。

 A型抗原がB型抗原に比べ、つねに検出限界が1段階もしくは2段階下であったのは抗A血清の凝集素価が抗B血清の凝集素価と比べ、1段階下であったことに起因するものと思われる。陳旧血痕ではAB型をB型、A型を0型と誤判定する危険性があることが示唆された。

「解離試験による血痕のABO式 血液型判定法の半定量的解析」伊澤光・梅澤宏亘・藤城雅也・石渡康宏・大多和威行・有馬由子・高橋良治・李暁鵬・堤肇・佐藤啓造
和医会誌 第68巻 第3号 〔162-174頁,2008〕

⑤亀頭包皮炎

 事件本人は、本件当時、亀頭包皮炎に罹患しており、外部からの刺激により亀頭から容易に出血する状態にあったから、事件本人が犯人であるとすれば、被害者両名の膣内容等に犯人に由来すると認められる血液等が混在していたことを合理的に説明できること

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 この事実が事件にどう繋がるのか全く意味不明なのだが、この書き方だと、どうやら久間氏は血塗れになった性器を勃起させ、女児2人に性行為をしようとしたらしい事になる。
 しかし、検死の結果では女児2人に挿入されたのは指のようであるし、それならば血塗れの陰茎を自分で触った後に、女児に手指で悪戯をしたことになる。血液付着の流れに関することでかなり重要な部分なのだが、この辺は随分と有耶無耶なままだ。
 それほどの出血があったというのなら、車内には久間氏の血液もあったはずだろうし、何より素朴な疑問なのだが、果たしてそのような性器の状態で何か猥褻なことをしようと思うだろうか。なんなら、この亀頭包皮炎は糖尿病の悪化に由来している。糖尿病で皮膚が感染しやすい状態にあったとするならば、患っていた糖尿病はかなり悪かったはずだ。糖尿病が悪化していたとするならば、糖尿病の患者の3割から9割に発症するとされている勃起不全を併発していた可能性が高いのだ。
 とにかく犯人は何らかの出血をしていないといけないため、その事実関係の整合性を一生懸命考えた結果にも見えなくない。

⑥事件当日のアリバイ

 被害者両名が失踪した時間帯及び失踪現場は、事件本人が妻を勤務先に事件本人車で送った後、事件本人方に帰る途中の時間帯及び通路にあたっていた可能性があること、他方で、事件本人にはアリバイが成立しないこと(事件本人に犯行の機会があったこと)

福岡高等裁判所平成26年 (く) 第56号

 確かに、久間氏にはアリバイがない。正確には、何をしていたかは供述しているが、第三者による証明がないのだ。
 久間氏は朝に妻を消防署に送り届けた後は、母親に米を持って行き、その後はパチンコをしていたと証言している。(レシートからその日に米は買っていなかったことも判明したうえ、その供述が変遷していることから信用性には欠けるとみなされているが)行ったとされるパチンコ店には監視カメラは設置されていなかった。
 無職で日中はブラブラしてたのだから、そりゃ第三者が証明できるアリバイはそうそうないだろう。

 これらの証拠とされる内容は、よくよく調べてみるとかなり怪しいことこの上ない。状況証拠に毛が生えた程度しかなく、これらの証拠だけで人一人を死刑にできるとはとても考えられない。
 これらの証拠が全て事実だと考え、女児らに起こったストーリーを考えてみると、以下のようになる。
 「午前8時すぎに犯人は妻を消防署に送り届けた後、たまたま帰り道で見つけた登校時間外の女児二人を見て性的欲望を満たそうと思いついた。息子が同じ学校にいて顔見知りだったため、声をかけて車に乗せた。
 その後どこかへ行き、女児の一人を殴りつけた。車の中でほぼ同時に女児を絞め殺した。締め殺した時に女児が座席で失禁したため、パンツを脱がせる。
 その後、思いを遂げようと自分も出血している勃起した陰茎をズボンから出し、出血している陰茎を自分で触り、その血塗れの手で女児の膣に指を入れ、何なら死姦しようとしたが、射精はできなかった。
 そしてどこかから移動し、八丁峠で2人の女児の遺体を捨てた。さらに移動し、午前11時には第5カーブ付近に車を停め、ランドセルや下着を捨てた。捨てた後に車に戻ろうとした際、通りがかりの森林職員に見られてしまい、身を隠そうとして足を滑らせて転んでしまう。
 家に帰り、座席シートを洗浄する。午後3時には長男の帰りを待ち、午後5時には妻を迎えに行った」
 こうやって考えると、犯人の久間さん、びっくりするぐらいものすごく忙しい。わずか1時間ほどで犯行の全てを行ったようである。文字にするとわかることだが、猥褻行為の時のこと、つまりは血液の付着状況があまりにもぼんやりしすぎているのだ。

 飯塚事件はまだ続いている。2021年には、新たな目撃証言をもとに再審を請求した。そこでは新証拠として、「女児2名を後部座席に連れた白色ワゴン車の八木山バイパスでの目撃情報(丸刈りで色白の男)」と「女の子を見たのは事件当日でなく、証言を変更させられた」とする目撃女性の証言を提出している。
 しかし、2024年6月5日に福岡地裁は2度目の再審請求を退けた。その理由として裁判所は、「証言は信用できない」「事件から26年経った今でも女児の顔を覚えているのは不自然」「証言は不自然で信用できない」「捜査機関が無理に記憶と異なる調書を作成する動機・必要性は見いだせない」「目撃女性の証言は理由なく変遷している」という理由を述べている。
 これに対し、次席検事は「裁判所が適切な判断をされたものだと考えている」とコメントし、弁護側は即時抗告の姿勢だ。

 調べれば調べるほど、この程度の内容で死刑にされてはたまらないということが分かってきた。私の主張は久間氏が犯人であるかというところには、最早ない。真犯人であるかどうかはともかく、自分や、自分の大切な人間が、この証拠構造で死刑と言われて納得できるだろうか。
 これは、DNAによる科学捜査の黎明期に起こったものすごく運の悪い男の茶番じみた逮捕劇だったのだろうか、それとも彼が犯人だったのだろうか。

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