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死体を埋めた時のことを想像する。狭山事件(八)


 5月4日(土)午前10:30ごろ、誘拐から3日後、農道から遺体が発見される。まずは、実況見分調書を参照する。※下部にはショッキングな画像もあるため閲覧には注意してください。(なお実況見分調書は長いうえ、表現が読みにくい箇所もあり画像が出る地点まで読み飛ばしていただいても結構です)

「実況見分調書」より抜粋
 昭和38年5月4日、午後0時10分〜午後7時30分、埼玉県狭山市入間川二九五〇番地先農場上及びその周辺及び被害者方居宅裏庭にて行われる。
現場の位置状況
 現場は県道狭山所沢線の西武川越新宿線の踏切より約七百米位所沢市方面寄の県道北側畑中の農道上である。附近は狭山市入間川の町外れに当り南西入間川市内方面寄は約二百米位で平地林に接する殆ど人家のない地帯となっている。現場の農道は概ね東西に走り南側は、茶の木の柵を境とする麦畑で北側は直接麦畑に接しているが道路は農業新井千吉当四十九年の私有地であって、道路の形体を備えていない。農家の俗にいう馬入れである。
現場の模様
 県警本部機動隊は死体並に遺留品の発見のため、現場附近の山林並に、山林に接する畑地帯等を捜索中、現場の農道の土を新しく掘り返したと認められる痕跡を発見し不審に思い、現場を掘りかえした処、被害者の着衣の一部と認められる紺サージの制服の一部及び太い荒縄の一部が発見された旨の報告に基き、同隊員の示す穴を見分するに隊員の掘り始めた穴は農道の梢中央に、縦〇・八〇米、横〇・六〇米、深さ〇・六二米の大きさに掘ってあり、太い荒縄の一部と、被害者の着衣の一部と認められる女子学生服の一部が穴の底に露出していた。更に機動隊員はこの発掘現場の農道添い西南方約二十米の麦畑の端にある甘藷の貯蔵穴より、ビニールの風呂敷一枚及び棍棒を発見した旨の報告に基き同隊員の指示する貯蔵穴を見分した。
 貯蔵所の穴の入口は縦〇・七五米横〇・六五米深さ三米であって底に三方に横穴があり横穴はいづれも高さ〇・九〇米、奥行約四・七米であって上部入口にコンクリート製二枚合せの蓋があり、その蓋には二箇の丸い穴があって蓋の大きさは二枚合せて縦〇・九四米横〇・七米であった。本見分時には機動隊員の発見した棍棒一本風呂敷一枚は、コンクリートの蓋の上に棒の傍らに風呂敷がおいてあった。
 棍棒は長さ〇・九四米中央の太さ周囲十一糎で全長の約三分の一位さけた方に土が付着した状態は、この棒を一度泥土に差し込み抜き出した様な状態であった。ビニールの風呂敷はよじれた外側に土が付着しているが、穴に落ちてから雨水がかかり乾いた様な状態で物件を縛るために使用したように認められ、この風呂敷は縦六・七糎横六・五糎、ビニールの白地に赤で鶴亀松竹梅宝船の帆に寿の模様があって宝船の下側及び、その対角が夫々不正三角形に切りとられている。
死体発掘の状況
 現場の土質は黒色の、やわらかい土で機動隊員が発見し引続いて発掘し始めた穴を更に掘り下げるに古い茶の木の葉や、ビニールの汚れた紙片等が土に交って掘り出されたが被疑者が被害者の死体を遺棄する際掘った元穴の形状は縦が一・六六米横が〇・八八米深さ〇・八六米であった。前記穴を次第に掘るに黒革製短靴の、かかとの部分が現われ漸次人体背部の脛、腿、上体、後頭部等が現れ、両腕を後手にして、手首を手拭で縛られた若い女性の死体と判明した。死体は穴の底に頭部を南方に向けうつぶせとなり、死体の右側頭部に接して、人頭大の玉石一個を発見し両足は黒革製短靴をはいたまま概ね、まっすぐに伸していた。死体には、太い荒縄が、たぐったように、身体の上部においてあった。着衣は紺色サージの背広形ヘチマ襟の学生服の上着、同チョッキ、同スカートを着用し上着の左胸に、県立川越高校のバッチを、安全ピンでとめてつけ、右ポケット内に十円切手十枚領収書一枚を入れてあり、左ポケットには黄色地に茶格子の木綿ハンカチ一枚、針刺し一ヶを入れてあった。上着のシングル三ツボタンのうち、上より第一、第二ボタン二ヶが脱落していた。
 上着の表裏とも土がついていたが背部の上半分及び両袖の背面に土の附着が著しくその他の損傷は認められない。服の長さは〇・五七米袖の長さは〇・五〇米で、地面を引ずった形跡が認められた。チョッキはダブル前で三ツボタン六ヶがついていて土がついているだけで異状はない。
 スカートの後方裂目から六糎のところより、二十糎バンド際が破れていて、そのため垂れ下った布の長さは八十四糎で、全面的に泥がついて居り、下部が著しい。スカートの丈は四十五糎で、バンドの巾は三糎であった。下着類は白木綿のランニングシャツその上に白テトロン五ツボタンのブラウス、白色トリコットのペチコート及び白木綿のメリヤスのズロースをはき、そのズロースは両膝の上迄ずりおろしてあった。両足とも白ナイロン様の靴下をはいて居り靴はしっかりはいている。
 靴を脱がして検するに、靴下は比較的きれいであって、靴下のまま歩いた状況は認められない。顔面は白タオルで目かくしされて後部で結んであり頸部は木綿の細引紐で、ひこつくし様に後で締められていた。両足は木綿細引紐でひこつくし様に締められてその末端が死体の上にあった、太い四本合せの荒縄に結び付け接続してあった。
 この細引紐の末端の一本が蛇口となって居り、その蛇口の中へ白ビニールの風呂敷の角の二枚が差し込んで結んであり結び目から三糎位で切れていた。この切れたビニール風呂敷の隅二枚は、これを開いて前記甘藷貯蔵所内において発見した風呂敷に合せて見るに一致したので、細引紐に風呂敷を結び、その結び目附近において切れたものと断定される。この木綿の細引紐は、全長二・六米で二重になって居り、結び目の先が〇・六〇米であった。又輪の部分は直径二十二糎である。
 足を縛った木綿細引紐に接続する前記荒縄は、俵の外し縄様のもので、二本を二重に折って四本合せとしたもので、太さ直径一・五糎位のもの八本、一・三糎位のもの一本、一本の長さは四米内外のものをつなぎ合せたものでその四本は、六・九〇米のもの一本、六・七五米のもの一本、五・五八米のもの一本、四・八〇米のもの各一本である。荒縄はその外ながら一・七五米太さ直径一〜二糎位のもの三本でつないであるもの一本であった。尚荒縄は甚だしく濡れていて泥で汚れていた。
 目かくしに使用してあったタオルは、月島食品工業株式会社月印マーガリンと染め抜きのあるものである。
 被害者を後手に縛った手拭は狭山市入間川、精米、精麦、精粉、やまはたや 五十子米穀店電話(番号)と染め抜きのあるものである。
 尚結び目は米結びであった。首をしめてあった木綿の細引紐は長さ一・四五米太さ〇・八糎、輪の部分は直径十五糎のものでひこつくしに後でしめられ、その輪はゆるんでいた。
 両足を縛った木綿の細引紐は、長さ二・六〇米、太さ〇・八糎、輪の部分は直径二十二糎である。
 上着左ポケット在中の領収書は、川越高校入間川分校宇賀神敏枝納入の、第四回オリンピック寄付金付き切手予約代金領収書で領収書額面は一一四〇円と記載されていた。針刺は縦横七糎大の模様付き布製のもので、とめ針が一本さしてありビニールのサックに入れてあった。
 メリヤスのズロースは、土が附着していたが、欠損箇処はなかった。白のペチコートはすそに巾五糎位のレースがついていてその下に白ナイロン様の巾五糎のすそがついて居り一面に泥が附着していた。被害者のはいていた黒革製の短靴は、鳩目四ヶ、黒紐付で靴の裏には泥がついていた。
死体の外部所見
 被害者は目を閉ぢ、口を稍開き頭髪は散乱し顔面は淡赤色を帯び鼻孔より鼻血が出血しており、右瞼に蚤刺大の溢血点が認められた。
右大腿部外側に巾一三・七糎の擦過傷並に皮下出血があり、左大腿部に巾一〇・二糎長さ六糎の擦過傷があり前頸部に、長さ一〇糎位の皮下出血痕が認められ頸部左側に擦過傷、後頭部の稍中心に長サ二糎巾〇・四糎の裂傷が認められる。外両手の指は開いていた。

実況見分調書より
現場周辺の位置関係
①遺体発見現場 ②芋穴 ③殺害現場とされるところ
遺体埋没現場、周りには何もない

 被害者の遺体は、事件発生の3日後の5月4日、午前10時半に捜索中の山狩り隊により発見された。5月3日深夜に犯人を取り逃してから早朝から現場付近では大規模な山狩りや捜索が行われていた。農道の土にひび割れが見え、棒で突くと土が柔らかく穴が空いたので手で掘ってみると紫の生地が見えた。
 死体が発見された場所の北側に畑を持つ方の話では、「事件のことは3日の朝ラジオの放送を聞いて初めて知った。5月1日の日は、ちょうど近所に荒神様というお祭りがありまして、それで私はその日はゆっくり骨休めをしておりまして、畑には行かなかった。5月2日に、畑にごぼうまきに行った際、死体発見現場の農道が掘った後に埋め直してあるような様子を見た。犬か猫でも埋めたのだろうと思っていた事と、その土地がA氏の所有であったので、掘ってみたり、警察に届けたりはしなかった。その掘ったような地点と前日にラジオで聞いた狭山事件が関係するかについては、堀兼とは随分離れているからちっとも気付かなかった」ということである。所有者のA氏は、「狭山事件の死体が発見された現場付近の農道と畑は昭和10年頃に購入した。芋穴も自分の所有である。畑に最後に行ったのは4月27日。事件前なので当然変った事は何も無かった。芋穴に最後に入ったのは3月20日前後で中の芋を全部出して蓋をして帰った」とのこと。
 死体発見現場から西に約160m離れた所に住む主婦は、2日朝の2時30分頃から3時項(時計を見たのではない)「子どもに尿をさせた時に、ふだん真夜中に吠えることのない付近の飼い犬がいっせいに吠え出したのを聞いていた。1匹か2
匹の犬が家の東の方(死体埋没現場方向)で突然吠え出し、北のほうに吠えていき、すると北の方の飼い犬も次から次に吠え始め、ちょうど人でも歩いているのを追尾しているようであった」という。この普段にない大の吠え声は、近くの住民2名も聞いている。

 少なくとも警察は身代金を取りにきた5月3日0:00には40人体制で周囲に張り込みをしている。5月3日朝から警察官45人と地元の消防団員45人による雑木林の山狩りがおこなわれた他、捜査員165人による聞き込みが実施されており、ここで遺体を移動させるのはかなりのリスクがあった。
 掘り起こした時には、被害者の遺体はうつ伏せに埋められていた。タオルで目隠しされ、手拭いで後ろ手に縛られ、首と足首は紐が結ばれており、足首の紐には長さ24メートルの荒縄が結び付けられていた。足首の紐にはビニールの切れ端もくっついていた。付近にあった芋穴(芋を保存するために掘られた穴)からは棍棒とビニール風呂敷が発見された。これは足首に残っていたビニール風呂敷の切断部と一致した。さらに、頭の上には石が置かれていた。

遺体の状況
靴を発見した時
掘り出した際の全景

 図や写真を参照すればわかるが、不思議な埋め方をしている。時間のない遺棄の方法としてはかなり手が混んでいる。脅迫状を送付した段階から検問も行われ、車を使って遠くまで遺棄するのは不可能になっただろう。身代金の奪取も失敗に終わり、残された道は「バレないようにすること」であるはずだ。つまり、この埋め方は遺体を発見されないようにするためであったと考えられる。しかし、雨のせいかひび割れが入ってしまい簡単に見つかることになったのだが。何というか・・・やはり犯人は少し間が抜けているところがある気がする。まず、いくつか解釈の分かれる情報などを正確に記載しながら状況を推察していきたい。

引き摺った形跡
 死体を地面に引き摺った形跡がある点に関しては、証言では「他の部分より顕著に粘土のような土が強く付いており普通の状態では無かった」ということで、死体は土中に埋めてあったから、多少の泥が付着しているのも違和感はない。「埋没する時の土ではない土が一部に強く厚く走っているようにあった」、「泥の付き具合、たゞ単に泥を付けたのでは無く粘り着いたような感じで他の部分とは著明に異なっていた為に、私には地面を引き摺った痕跡のように認められた」とあり、粘土質の泥が鼠径部周辺に付着していた印象であり、おそらく腹這いのまま土の上を引きずられたのは確実だ。ただし、腹這いのまま足を持って足側に引きずられたのであればズロースは膝まで下がらないという点だ。さらに、足を縛ったままでは強姦はし難いし、膝まで下げた状態で正常位では強姦し難い。一度脱がしてからわざわざまた履かせたのだろうか。もしくは腕などを持って頭側に引きずられてズロースはズレたのか。足側に縄がつけられていたため、足を持って土中に引っ張ったと考える方が自然ではあるが。

遺体の濡れた状態
 次に、遺体が濡れていた点である。これは裁判記録に証人の証言が残っている。
 弁護人:死体を発見したとき、着衣は濡れておりましたか。
 証人:濡れていました。
 弁護人:これは感じになりますが、どの程度、濡れておったんでしょうか。
 証人:どの程度というのは。
 弁護人:たとえば、びっしょり濡れておったとか、少し濡れておったとかですね。
 証人:かなり濡れておりましたですね。
 弁護人:どの部分でしょうか、濡れておったのは。つまり、平均的に着衣の全部が濡れておったのか、あるいは、どこか特定の部分が濡れておったのか。
 証人:乾いていたというところはなかったように思います。
 弁護人:そうすると、全体的に濡れておった。
 大野氏:全体的には濡れておりました。
 弁護人:特に濡れておったという部分はあるんですか、濡れ方の多いところと、少ないところはあったんじゃないでしょうか。
 証人:着衣でですか、荒縄は特に濡れておったという記憶はあるんですがね、着衣については、まあ乾いたところはないですね。
 これは私の思い込みでもあるのだが、最初は全く濡れていなかったのだと考えていた。この濡れ方が、雨が降って水を含んだ土によるものなのか、雨の降る野外に放置されていたために濡れたものなのかは記録からではわからない。しかし、荒縄よりは濡れてないということで、もし荒縄が盗まれたものなら、終日雨にあたっていたものだ。それと比べて濡れていないのなら、やはり遺棄までは屋内にいた可能性が高いとしか思えない。トマトを食べていたことからも、屋内にいた可能性が高い。

ビニール風呂敷
 ビニール風呂敷については、被害者所有物と認定されている。「雨が降った時使う為に自転車の荷掛に白ビニールで寿とある風呂敷一枚つけてあったがとられて仕舞って、これもありませんでした」(昭和38年5月3日姉調書、遠藤三警部補録取、昭和47年2月に開示)このビニール風呂敷は、細引き紐に破片がくっついており、芋穴にその他の大部分が捨てられていた。おそらくくるくると巻いて輪っかのように結び付けられていたと考えられ、遺体を引っ張るために使ったがちぎれてしまったのではないかと考えられるが、ビニール製の風呂敷が簡単に引きちぎれるだろうか。

芋穴内の再現
ビニール風呂敷

埋没穴 
 穴の大きさは実況見分調書の記載によれば、縦166cm、横88cm、深さ86cmの穴を掘削して死体を埋没していた。昭和46年に、亀井トム氏から部落解放同盟の朝田委員長への要請により、狭山事件の死体埋没場所と同じ黒土の畑で掘削実験を行ったところ、独りでも30分以下で掘る事が可能だったそうだ。
 つまり、埋没穴掘削の困難度から単独犯か複数犯か推察することはできない。しかし、狭山事件の考察を難しくしている問題の一つに掘削・埋没を終えた後の残土の処理がある。単独・複数犯に関わらず、ただスコップだけを持参して残土を処理する事は不可能であるとされている。実験では米俵3俵分、八幡鑑定では「埋め戻しに際して充分な踏み固めを行っても、石油缶6杯分程度」の残土が発生する事が判明している。しかもそれは、穴の中に死体などを入れず土以外の埋め戻しをしない場合である。この多量の残土を処理する為には、あらかじめ自動車又はリヤカーなどを準備する必要がありそうだ。そして、その残土がないことから、犯人はそもそも見つかる気がなかったことがわかる。完全に隠蔽した気でいたのか。

荒縄 
 荒縄についても前述しているが、盗まれた荒縄が使われたのか、という点であるが、証言によると盗難にあったとされる現場家屋では当日午後6時には雨戸を閉めていたし、飼っていた犬は普段から吠えないことから、真犯人がここから荒縄を盗み出す事自体は可能である。現に荒縄は無くなっており、この紛失縄が犯行に用いられたと考えて良いと思う。ただし、その荒縄を一旦切断し、新たに結び直して4本に分けたのは、いったい何を意図したのであろうか。おそらくビニール風呂敷だけでは移動できなかったためと考えられるが、なぜ4つ股にしないといけなかったのだろうか。4人の人間が引っ張るためなのか、2本ずつで2人の人間が引っ張るためなのだろうか。そう考えると、犯人は複数だったのだろうか、釈然としない。

荒縄(最も右に細引き布がついている)

玉石
 
石についてだが、埋没地付近の土壌に自然状態で混入する事は無い、と言う鑑定が提出されている(八幡鑑定)犯人が意図的に持ち込んだ物である事は確実である。大きさは20×13×13cm、重量4.65kgで、死体発掘現場の土壌には、この玉石のような岩石はもとより小石も通常自然には存在しない。「風積性火山灰の成層の中に「玉石」の語であらわされるような、しかも寸法と重量とから考えて密度が3に近いと推定されるような石が、自然の生成過程の中で混入することはあり得ない。またこの位置にあるローム層の中に河床でみられるような砂利(小石)が自然に存在することも考えられない」と八幡鑑定にはある。
 狭山事件の舞台となった一帯の土壌は、火山灰の降り重なった所謂関東ローム層から成り立っており、もし水流によりこのサイズの石が運ばれたなら、周辺にあった石は一つではないはずである。

玉石

ビニール片とお茶の葉 
 顔の下のビニールとお茶の葉についてであるが、文献によってはこれらが意図的なものとして扱われるものもある。しかし、顔の下にあったものも含めてビニール片と茶の葉は領置されなかった。実況見分では、冬期に畑の苗などを保護する為のビニールが土に混ざったものとされ、茶の葉も同様に埋没穴を埋め直す際に混入したものと見られたためである。ビニール片については虫害を避けるために顔の下に敷かれていたとされる説もあるが、それなら見つかることを想定した遺棄になってしまう。それならば必死に埋める必要性がそもそもない。土に混じっていたビニール片の量はそう多くなく、散見される程度だった。茶の葉は死体発掘時に深く掘って行くにつれ量が増えたとされる。この茶の葉も腐敗の臭いを消すためと推察されることが多いが、それならば虫害を避けようとした顔のビニールと意図が反する。見つかりたいのか見つかりたくないのかどっちなのかわからない。見つかりたいならばもっと狂人の犯行のように見せかけるだろうし、私なら捜査の撹乱を狙って祭りあげるようにデコレーションする。
 
ビニール片の出処は築地丸京青果が堀兼農協を通じ上赤坂地区に霜除けのビニール布と共に配布した物とされ、荷札と共にビニール布も出土した。顔の下のビニール片の出処も同じと思われ、私はこれまでビニール片と茶の葉は意図的に使われたものだと考えていたが、調べてみるとどうもそう思えなくなってきた。
 死体を埋めた穴の脇が茶垣になっており、犯人が穴を埋め直す時に茶葉が混入するのは当たり前だ。ビニールは、気温の低下や霜を避けるために貼るもので、私の記憶でも耕すと手のひらサイズのビニール片はよく出てきていた。よく調べてみるとこのビニール片は「元々透明なものが長年風雨に曝されて曇ってしまったような感じ」とあり、「ビニール片の数は一つ二つではなく、大きさは手の平位の面積」とある。また実況見分の刑事は、「死体の場所に行った時には死体の足の側が既に掘ってあった。その時に掘り返されていた土に茶の葉がある事は気がつかなかった。茶葉は、それから更に掘っていく過程に於いて出た物である。茶の葉は多量と言う事は無く、散見された程度である」とある。
 なぜ山中などもっとわかりにくいところに埋めなかったのかについては、単純に時間がなかったことや、警察の捜査網があったことが挙げられる。木の根の張った山中は掘削しづらく、そもそも「埋める」ということは「見つからないようにする」ためだ。農道なら人が通ることで踏み固められ、そのままやり過ごす気だったのかもしれない。

目隠しタオル 
 目隠しに使われたタオルだが、生前に顔を見られないためか、死後の顔を見たくないか、だと考えられる。誘拐しているのだから、見られないためと考えるのが妥当だが、誘き寄せた人間がいるのなら、目隠しの意味はない。とするならば、死体の顔を見たくなかったがために隠したのではないか。

左:足首の細引紐の状態 右:頸部の細引紐と目隠し

細引き紐 
 首に紐をかけた理由が全く推察できない。どこか柱のようなところに首と足首を縛り付けていたのか。それとも元々荒縄と接続されていたのか。足首と首を結んだ理由は何か。
 被害者の足首に結ばれていた細引き紐は長さ260cm、太さ0.8cm、荒縄に結合されている。首に巻かれていた細引き紐は長さ145cm、太さ0.8cm、ともにひこつくし様に締められ、頸部に付いていた紐の輪の直径は15cmでその輪はゆるんでいた。死因には関係ない策状物で、この頸部の紐は死後につけたと考えられており、出処は不明。捜査段階では荒縄の紛失場所からのものとされていたが、そこに細引き紐は無かったことがわかっている。

右:足首にかけられた細引紐の状態
棍棒も使って、このように運ぼうとしたのだろうか(イメージ)

棍棒
 棍棒の出処は不明で、全長94cmの棒で、イゴ(いちじく)の木であった。芋穴の蓋は二枚あり、発見時その一方の蓋は開いていた。発見者によると、「その中(芋穴)に棒とビニール風呂敷があった。棒は、3分の1位地面に突き刺したように泥が付いていた」とのこと。この棍棒については、甲斐氏の唱えるリアカー駐車用だとする説を私も支持する。
 棍棒は死体を抱えるために使ったとしては細すぎる。遺体埋没後に近くに捨てたものだと思われるが、見つからないように遺体を用意周到に埋めようとしたのならこれらも埋めるなりしないと意味がない。やはり見つかりたいのか見つかりたくないのかわからない。

左:芋穴の蓋 右:芋穴の中の棍棒とビニール風呂敷

手拭い 
 手拭いについては、前述しているが、被害者の手首を縛っていたものである。足首や首のひこつくしに比べ、手首はかなりがっちりと拘束されている。

手ぬぐい:解くために切られており、3つに分かれている
手拭いの使い方

遺体発見現場の痕跡 
 5月5日付の東京新聞によれば「死体発見現場にはリヤカーの輪だちの跡がはっきり残っていた。このことから捜査本部では数人連れの犯行で、善枝さんの遺体を一時雑木林の中に隠したのち、荒ナワを持ってふたたび現場に戻り、夜になるのを待ってわざわざリヤカーで麦畑わきへ運んで埋めたものとみて目撃者の発見に努めている。しかし犯人がなぜ遺体を雑木林から運び出したかについては捜査本部もまだ見解を統一できない」と報道されており、また同日のサンケイ新聞は「犯人はほかの場所で善枝さんを殺し、県道までリヤカーで運び、約50メートルはいった現場まで死体をかついで埋めたらしい」と伝えている。つまり、リアカーの跡は残っていたが、石川犯行説のためか、公判記録には残っていない。残土の処理のために遺体の搬送も含め、リアカーでの移動であったと考えられる。

写真のようにリアカーを停め遺体を引きずり下ろせば下腹部に傷ができるだろう

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