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砒素の小瓶 和歌山毒物カレー混入事件(10)

 さてこの事件、どんなことが新事実なのか。どういう新事実があれば再審ができるのかをずっと考えていた。まず断っておくが、私は別に正義を執行したい訳ではない。ただただ、矛盾がものすごく気持ち悪い。どう見ても違うのに勘違いや忖度やバイアスに左右される「虚偽の真実」の存在がものすごく気持ち悪い。
 おそらく、証言についてはもうどうしようもない。犯人が証言者の中にいるならその嘘はもう暴けないと思う。その人はもう20年以上も嘘をつき続けているのだから、このまま逃げ切る気だろう。

 しかし、事実は変えられない。
 青色紙コップに砒素は付着していた。
 誰かが砒素を青色紙コップに入れた。
 青色紙コップで砒素をカレーに入れた。
 そして、ゴミ袋を掻き分けて捨てたのだ。
 しかし、それは林死刑囚ではない。

 すなわち、
 林死刑囚以外の人間にあのドラム缶と同一由来の砒素へのアクセス権があったということだ。
 本当に、砒素は園部の何処にも存在しなかったのか?むしろ、どんな形なら存在しうるだろうか?

 前回の記事でも毒物としての砒素については述べたが、あの50kgドラム缶がそうそう家庭にあるものではない。砒素と一口に言っても無機砒素と有機砒素にその形態が分かれ、様々な種類が存在する。
 紙コップから採取されたのは亜砒酸と言われるもので正式には三酸化ニ砒素と言われるものだ。さらに三酸化二砒素はアルセノライトとクローデタイトに分かれ、これが水に溶解すると亜砒酸となる。
 この三酸化ニ砒素は国内では主にガラスの気泡を消すために使われている。あのドラム缶に入っていたのは無水三酸化ニ砒素の粉末だと思われるのだが、林死刑囚の近くには白アリ駆除用として存在していた。毒物であるため、一般家庭にそうそう存在するのものではない。では、どんな形であれば存在する可能性がありうるのか。

 砒素は、工業薬品(クロム銅ヒ素木材保存剤)、半導体の製造、液晶ガラスの消泡剤、綿花栽培用農業薬品、ヒ酸塩(ヒ酸石灰、ヒ酸鉛)の原料、医薬品原料、染料の原料、殺鼠剤、殺虫剤、農薬など多岐に渡る。
 しかし砒素の毒性の高さや環境上の問題からその使用は減りつつある。現在国内では液晶ガラスの用途が最も多い。殺鼠剤として使用されていたのは明治時代まで遡るほど古いが、戦後その使用は大幅に減少した。なお、農薬としての砒素は、農薬取締法に基づき登録されていた無機及び有機ヒ素化合物全てが1998年までに登録が失効している。
 事件当時は工業用原料としてか、農薬としてなら家庭にその存在があった可能性がある。

CCA(クロム・銅・ヒ素化合物木材防腐剤)としての砒素
 木材の防腐・防蟻を目的として開発されたCCA(クロム・銅・ヒ素化合物系木材防腐剤)は、薬液をあらかじめ木材内部に加工注入処理したものである。昭和40年代初期から電柱や家屋の土台や台所等の水回りに使用されてきた歴史があるが、現在は毒性の高さから国内ではほとんど生産、使用されていない。

 CCA保存剤は、1933年にインドで開発され、1960年代に日本に導入された。その後シェアは急速に拡大し、1980年代に隆盛となっている。2000年代にはその毒性が認知され、急速に消滅した。

黒いしそもそも液剤だ

 CCA保存剤は五酸化ヒ素とクロム塩との混合薬剤に硫酸銅を添加したものである。オウム真理教による地下鉄サリン事件から有機リン化合物の猛毒性の報道により、有機リン系防蟻剤の使用を中止し、ピレスロイド系の非CCA処理木材へと変化していった。そのため、生産数量は1996年から2000年にかけて急速な減少をしている。
 この防腐剤の中にある砒素化合物は10〜15%ほどだ。

除草剤としての砒素
 除草剤として使われるのは有機ヒ素であり無機ヒ素ではない。砒素系除草剤は主に綿花やゴルフ場などの芝草、住宅の芝生、学校、運動場で使用されているが、その需要は減っており、その毒性の強さにより、1998年に農薬取締法によりその登録が失効している。
 殺虫剤として使われていたのはヒ酸石灰やヒ酸鉛のようだ。これらは戦前から農薬として使われていたが1978年には農薬登録が失効している。調べてみると多く使用されていたのは桑園や果樹園であったようだ。使う量は一回で0.02g程度であったようで、もし保管しているとしてもそこまで量は多くないはずだ。和歌山といえば蜜柑で、蜜柑の酸味を抑える目的で砒素が使われていたようだが、園部周辺が蜜柑が盛んな産地のようではない。農家には普通にあったものなのだろうか。

ガラス製造としての砒素
 砒素は「脱泡剤」や「清澄剤」と呼ばれ、ガラス原料に少量の砒素を添加することで、製造時に泡を除去する効果がある。このレベルの工業用原料となると量はありそうだがアクセスが難しそうだ。

例の亜砒酸について
 検察によると「類似した特徴を与える亜砒酸が当時の国内には、他に流通していなかった」とされ、この同一起源の亜砒酸は林死刑囚近辺以外にはなかったことになっている。
 そもそも、例の中国産の50kg入りドラム缶は1983年ごろ大阪の貿易商社T社が中国から輸入した60缶のうちの1缶だったことがわかっている。1998年に事件が起こったのですでに15年前の薬剤ということになる。さらに、この時点であれば農薬として所持していてもおかしくない。
 元社員の供述調書によるとT社は1960年創業の貿易商社であり、日本から中国へ大型プラントを輸出したり、中国からキクラゲを輸入していた。毒物劇薬輸入業登録票を1972年12月に申請しており、亜砒酸を輸入し始めたのは1973年ごろからとされる。

問題のドラム缶

 1973年ごろから1985年まで年2回、毎回2〜3トンずつ輸入し、そのうちガラス工業用途が1〜2トンだった。
 検察官意見書では、「本件緑色ドラム缶Aは、事件発生の約15年前である1983年ごろに購入された古いもので、その頃T社が購入した亜砒酸は、その大半がガラス加工会社等へ納入されている。K薬品社は、T社から仕入れた亜砒酸を和歌山市内のN商店に納入していたものの〜」とある。
 N商店の亜砒酸購入量は最小でも50kgドラム缶単位であったそうだ。N商店はそれを小瓶に分けて売っていた。
 ん?小瓶??

瓶?
小瓶?
これは試薬、瓶ではない

 小瓶とはなんだ?
 この小瓶の販売先まで警察は調べたのであろうか?


 大阪の貿易商社T社は1973年か1974年ごろから1985年まで年2回、亜砒酸を中国から船で大阪港へ輸入していたようだ。
 K薬品工業(株)の社長の供述調書では、和歌山市のN商店の先代社長が電話で「亜砒酸を何缶入れといてよ」とK社に注文するたびに、K社は大阪のT社に発注し、K社に届いた50kg緑色ドラム缶入り亜砒酸を和歌山のN商店へ届けていた。

 小瓶ならその存在の可能性は無数にありそうだ。昔は違法漁業にも砒素が使われていたというが90年代にもまだそのようなことがあったのだろうか。
 林死刑囚の夫から白アリ駆除業を引き継いだ実兄の周りにも全く使いきれてない亜砒酸が大量に余っていた。そもそも少量で大きな効果を発揮する薬剤のため、50kg持っていたところで10年そこらでは使いきれなかったのだ。ここにも砒素の毒性を知らないものとしての顔が垣間見える。わかっているならこんな量をカレーに投下しないだろう。真犯人が危険な毒薬と思っていなかったとしたら、殺虫剤や除草剤、つまりは農薬や肥料だと思っていたかもしれない。
 この商店、どのような表記でこの小瓶を販売していたのだろうか?商店と言えば顧客は地元の人間である。無数に近隣にあった可能性すらある。供述調書を読みたくて仕方がない。

参考文献
「化学物質の初期リスク評価書 ver.1.0 No.130 砒素及びその無機化合物」財団法人 化学物質評価研究機構 2008年
「農用地の土壌の汚染防止等に関する法律に基づく対策」農林水産省
「有機ヒ素系農薬の合成とその開発および企業化」長沢正雄
「ヒ素及びその化合物に係る健康リスク評価について」環境省
「植物の金属元素含量に関するデータ集録 ヒ素」独立行政法人農業環境技術研究所
「ヒ素〜嫌われ元素の代表格〜にまつわる話」北海道立衛生研究所健康科学部長 神和夫
「除草剤の諸問題」宗像桂 1960年


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