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「園部にあったヒ素は、くまなく調べられていない」和歌山カレー毒物混入事件(15)

 毒薬としてのヒ素の歴史は古い。アレクサンドロス大王の死因とされ、クレオパトラが自殺の道具とし、ネロがローマ皇帝の座に就くためにも使われた。ヒ素は古代から証拠の残らない必殺の毒薬として使われていた。
 ローマ・カトリック教会での地位を登りつめるためにヒ素を研究し、効果的に使ったのはスペイン生まれの枢機卿ロドリーゴ・ボルジアを当主とするボルジア家であるのは歴史的にも有名な話だ。17世紀のフランスでは、ヒ素は「相続の粉薬」の異名をとり、遺産を相続するために血縁者に対して使われた。1700年代には「瘧」と呼ばれるマラリアや発熱や、震えを伴う病気の治療薬にも使われ、1960年代にはナポレオンの毛髪から異常に高い濃度のヒ素が検出されている。

 ヒ素が毒として好まれるのは、固有の二つの特徴による。ひとつは、非常に溶けやすいこと。もうひとつは、植物性アルカロイドの毒と比べて味がほとんどしないことだ。

「毒殺の化学 世界を震撼させた11の毒」ニール・ブラッドベリー著 青土社 2023年

 あまり聞こえのいい元素ではないが、ヒ素は動物にとって必須の微量栄養素であり、鶏に微量のヒ素を与えると血管の形成が促進され、程よいピンク色のふっくらした鶏肉になることがわかっている。2013年にはアメリカのすべての鶏に飼料としてごく微量のヒ素が与えられるようになっているほどだ。
 ヒ素は毒性が強いとは言え、ひと昔前は様々な用途で使用されていた。

 ヒ素は<ファウラー溶液>などの一般的な薬剤にも含まれていた。医師が処方しドラッグストアで販売される、肌用ローションだ。ヒ素はまた、除草剤、殺虫剤、殺鼠剤の形でも入手できた。金物屋、食料雑貨店、園芸用品店では、多種多様な亜ヒ酸が売られていたのである。<ラフ・オン・ラッツ>は灰色がかった粉末の殺鼠剤で、成分の一〇パーセントは煤煙で、九〇パーセントは三酸化ヒ素である。

「毒薬の手帖 クロロホルムからタリウムまで捜査官はいかにして毒殺を見破ることができたのか」デボラ・ブラム著 青土社 2019年

 「ヒ素」は本来、元素名「As」の名称であり、実際にヒ素(As)そのものを毒殺に使うことはない。和歌山毒物カレー混入事件で実際に毒として使われたのは三酸化二ヒ素(As2O3)である。新聞などでは「亜ヒ酸」という表記もあるが、亜ヒ酸は「H3AsO3」であり、正確には和歌山で使われたのは「ヒ素」でもなく「亜ヒ酸」でもなく「亜ヒ酸の無水化物」である。これらヒ素の化合物は大きく五価のAsⅤと三価のAsⅢがあり、より毒性が強いとされるのは亜ヒ酸も含む三価の化合物である。
 毒殺の方法としては、食事など口にするものに少量ずつ混ぜ、慢性中毒にする方法が古代からなされていた。

 通常、ヒ素による毒殺では、食べ物などに少しずつヒ素を入れて相手を徐々に衰弱させ、普通の病気として死んだと思わせるようにする。大量に入れて急死させるという方法はあまり使われない。

「ニュースになった毒」Anthony T. Tu著 東京化学同人 2012年

 昔は毒物の検出が難しかったために、ヒ素は完全犯罪に使われる代表的な毒薬であったが、1840年にパリ大学の毒物学者オルフイラが死者の臓器からヒ素を検出し、それ以来ヒ素の分析は容易になった。むしろ、ヒ素のような重金属はいつまでも体に残るため、完全犯罪として使われる毒物としては廃れてしまったのだ。
 それにも関わらず、急性中毒を狙ったのかカレーには大量の亜ヒ酸が投入されていた。

 毒カレーは鍋の中で五〇〜六〇℃の状態で五時間放置されたと推察される。全体で二〇〇グラムのAs2O3がカレーのなかに入れられたと逆算された。毒入りカレーを数杯食べたため、多くの人がたちは急性ヒ素中毒の症状が一〇分で起き、嘔気や嘔吐が約一〇分後に起きた。おそらく一人について平均値二〇〜一二〇ミリグラムのヒ素を食べた計算である。

「ニュースになった毒」Anthony T. Tu著 東京化学同人 2012年

 かなり大量の亜ヒ酸が東カレー鍋には投入されていたのだ。そして、保険金詐欺からヒ素の存在が発見され、カレー鍋のヒ素と、林死刑囚の周辺に存在した亜ヒ酸たちはいずれも同じ鉱山からの由来であり、同じ中国の工場で作られたものだということが判明している。これらの事実は、林死刑囚が犯人である有力な情報の一つとされている。

 カレー中のヒ素と被疑者の家にあったヒ素が同一であったと結論づけた放射光によるX線の分析結果は、不純物である種々の重金属とヒ素の比が各サンプルで同一であることを示した。しかし、その分析結果が正しいとしても、それは中国の工場で作られたヒ素の「ある製造部分(ロット)が同じ」であるということであり、ほかの人が同じヒ素を持っている可能性を完全には排除できない。

「ニュースになった毒」Anthony T. Tu著 東京化学同人 2012年

 しかし当時の和歌山市内には、同じ商店からのドラム缶入り、もしくは瓶入りの亜ヒ酸が出回っており、これらの亜ヒ酸を鑑定しても、同じものとしての結果が出たはずなのだ。ドラム缶入りはともかく、これら瓶入りの亜ヒ酸はいったいどのような商品として売り出されていたのだろうか。
 まずは、ヒ素の一般家庭用の使い道として最もメジャーであった殺鼠剤としてのヒ素について調べてみた。
・亜ヒ酸殺鼠剤:薬研「粒状新バリトール」1960年12月18日失効
        大阪産業「ソキール」 1951年11月22日失効
・亜ヒ酸石灰殺鼠剤:北海道野鼠防除協会「鼠ころし5号」1954年11月22日失効
・亜ヒ酸殺鼠剤:扶桑薬品「キルリ」1955年12月20日失効
・亜ヒ酸石灰殺鼠剤:森田薬品「強力ラットライス野鼠用」1957年4月30日失効
          扶桑薬品「強力キルリ」1957年8月2日失効
          新扶桑薬品 「キルソ・強力キルリ」1959年2月27日失効
 その多くが1960年(昭和35年)には失効しており、あまりにも一般家庭にあったにしては古すぎる。
 では農薬としてならどうだろうか。農薬取締法に基づき登録されていた無機及び有機ヒ素化合物の農薬は、1998年までにすべて登録が失効している。ヒ素は三酸化ヒ素として世界で年間5~5.3万トン使用されているとされている。
 その主要用途は無機ヒ素系農薬と、工業薬品の原料で全体の90%以上を占め、亜ヒ酸ナトリウム、ヒ酸、ヒ酸鉛、ヒ酸カルシウムなどが木材防腐剤、殺虫剤、乾燥剤として用いられている。シューレグリーン(亜ヒ酸銅)、パリスグリーン(アセト亜ヒ酸銅)は農薬のほかに、顔料としても使用されていた。有機ヒ素化合物のメチルアルシン酸(MAA)やジメチルアルシン酸(DMAA)は除草剤に、フェニルアルソン酸塩などの芳香族ヒ素誘導体は家畜飼料の添加物として用いられており、その他にも色素の原料や、陶磁器やガラスの色付けにも使われていたようだ。確かに用途は様々だが、これらの物質はそもそもヒ素としての形態が全く違う。
 農薬としてのヒ素の存在は、新聞記事を調べてみると事件が起こった当時も捜索されていた。捜査関係者によって現場周辺の工場や、農薬が残されている可能性がある農家の古い倉庫、穀物倉など調べられていたようだ。その捜索結果はどうだったのだろうか。 
 また、1998年8月には薬物及び劇物取締法に基づいて県に登録している782業者全て検査しており、農薬販売業者にも、県みかん園芸課などが立ち入り検査を行なっている。工業高校や大学で保管されている試薬についても調査された。和歌山の県内公立校47のうちヒ素を持っていたのは5校だったが、紛失も盗難もなかった。
 検出された亜ヒ酸は高濃度だったことがわかり、試薬の可能性も検討されたが、ヒ素化合物の盗難、紛失届けは1985年以降全国で一件もなく、また試薬は5〜25グラム瓶の小ささでしかなく、カレーに入れようと思えば瓶で10本近く所持していないといけないことになる。

 ・・・みかん?
 そうだ、和歌山といえばみかんが有名だ。
 事件当初、捜査機関も農薬に注目していた。県内の農家ではかつてヒ素化合物の「ヒ素鉛」が柑橘類の甘みを強めるために使われていたそうだ。みかんの産地である和歌山では30年前までヒ素鉛がみかんの酸味を抜いて甘味を強めるための「減酸剤」として使われていたようだ。
 そして、ヒ素は重金属ということだけあり、多少古くても「袋などに入っていればほとんど劣化しない」そうで、新聞記事を調べると事件後、農薬や試薬の瓶を保健所や農協に持ち込んで処分を求めるケースが一時的に増えていた。

 ヒ酸鉛散布はウンシュウミカンとナツミカンの果汁中の有機酸の内、クエン酸のみを低下させる。

「ヒ酸鉛がウンシュウミカン果肉中のクエン酸縮合酵素活性に及ぼす影響」八巻良和 園学雑.(J.Japan.Soc.Hort.Sci.)58(4):899-905.1990.

 しかし、ヒ酸鉛であれば亜ヒ酸とはその形態が違うのだが、以下のような資料も発見した。果たして本当に混入されたのは純度の高い「亜ヒ酸そのもの」だったのだろうか。

 ヒ酸は動物では肝臓などで亜ヒ酸に還元されてはじめて毒性を示すといわれていますが、ヒ酸そのものがリン酸化反応で無機リン酸と競合し,酸化的リン酸化反応の脱共役をする (ADPとADP -ヒ酸を形成するが不安定なため分解する)可能性もあります 。

「微量元素よもやま話 [5] ヒ素」 高橋英一著 農業と科学 2007年

 ヒ酸は体内に入ると肝臓で亜ヒ酸に還元されてしまうそうだ。これなら体から検出されるのはヒ酸鉛ではなく、亜ヒ酸ということになる。

 ・・・このあたりまで調べたところで、ドキュメンタリー映画「mommy」の公開が始まった。もちろんすぐに見に行ったのだが、作中で非常に興味深い情報があった。
 当時の和歌山ではシロアリ駆除は自らヒ素を購入し、個人で行なっていたようなのだ。そして、「薗部地区でも他に亜ヒ酸を持っていたものがいた」ことも取材で判明していたそうだ。
 
これは私にとっては驚愕の事実だ。なぜなら、林死刑囚の関係者以外にはヒ素は存在しなかったことになっているからだ。公判でも、カレーの作成に関わった人間の家族がヒ素と関わりのない職業であることが情報として載せられている。
 これでは、ヒ素は特別で手に入れることができない希少な毒物ではなかったことになる。さらには、一般家庭では存在し得なかったヒ素がどのような形で存在したのか糸口を探していたのだがなんてことはない、ヒ素は他にも園部に存在したのだ。
 これでは根底が覆ってしまう。
 そもそも、林死刑囚の周囲にしかヒ素がなかったからこそ、Spring8様まで盛大に登場し、異同識別が行われることで林死刑囚の犯行だとされたのに。
 ということは、保険金詐欺のスクープから全ては始まったということになる。
 結局、この事件はメディアの印象操作と警察の盛大な見込み捜査だったというわけだ。

 亜ヒ酸は一体どの家に存在したのだろうか。もしかしたら、捜査機関には他のヒ素の捜査資料が今も存在しているのだろうか。 

 11日午前10時40分ごろ、和歌山市園部の毒物カレー事件現場の空き地から東約20メートルの農業用水路(幅約50センチ)で、体長5~10センチのフナ数十匹の死骸が見つかった。捜査本部は事件との関連を調べている。付近の住民(61歳)は「これほどの魚が死んで田んぼの用水路に浮くことなど今までなかった」と話していた。

読売新聞 大阪夕刊 1998年8月11日

 そして、真犯人は今も園部にいるのだろうか。

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